06.真実と、呼ばれた名前
王宮法務局に通い始めてから、最初の一月は、ただ書類の山に溺れるだけで終わった。
退庁の刻が来ても、机の角に積んだ束が減らないし、指先のインクを拭っても、すぐ黒くなった。
橋の崩落事故に限らず、王都の役所には、誰かの失敗と誰かの損得が紙の形で積み上がっている。
裁決記録。支払い命令書。陳情書。補修費の見積もり。被害者名簿の抄本。工事責任者の供述要旨。
紙は泣かないし、怒鳴らない。媚びもない。
その冷たさが、ありがたかった。社交界の慰めには、値踏みと好奇心が混じっていて、息が詰まりそうになっていたから。
その点、フォレスト様は容赦がない。
「お嬢さん、その判例集は読む順番が逆です」
「写し方が丁寧なのは結構ですが、遅すぎます。丁寧で遅いのはここでは美徳になりませんよ」
「その顔は『納得していない顔』ですね。納得していなくても、まず手は動かしなさい」
腹が立った。
だが、腹が立つだけで済むのは、ある意味ではずいぶん楽だった。
おべっかも、慰め顔もない。傷を気づかうふりで、中を覗き込もうとするいやらしさもない。
落ち込む私に漬け込む痴れ者でもない。
そういう類の人たちより、ずっといい。
そう思うようになっていた。
仕事そのものは、意外なほど自分に向いていた。
私の字は昔から褒められていた。
線を崩さずに書けること。
急いでも癖が出にくいこと。
文書の種類によって、見やすい形に書き分けられること。
でもそれも、せいぜい家の中だけで通じる話だと思っていた。
ところが法務局では、その手癖のなさが思いのほか重宝された。
判例の写しも、被害者名簿の整理も、字がぶれないだけで見直しが減るのだという。
橋の記録を読み進める頃には、私の机には清書待ちの紙が自然と集まるようになっていた。
きっかけは、昼前の小さな騒ぎだった。
租税局へ回す清書が一束足りず、担当の書記官が別件で呼ばれたまま戻らない。期限だけが先に迫っていた。
困り顔で帳簿を抱えた書記官が立ち尽くしていたので、書式を確かめ、黙ってその束を受け取った。
書き終えた紙を渡すと、相手は目を丸くしたあと、礼もそこそこに走っていった。
その様子を見ていたフォレスト様が、何も言わず、別の束を私の机の端へ置いた。
同じく急ぎの清書だった。
試されているのだと分かったので、黙ってペンを取った。
その中に、北橋崩落事故の記録も混ざっていた。
──最初は、もっと劇的な何かが書いてあるのではないかと思っていた。
そう、悪意とか、陰謀とか、分かりやすい犯人とか。
でも、実際に並んでいたのは、ひどく地味で、ひどく救いのない記録だった。
五年前の増水で、橋脚の根元のえぐれが見つかっている。
三年前の点検で、石積みの隙間と沈下が報告されている。
一年前の補修では、表面の積み直しだけが行われ、川床の深掘れは『経過観察』に回されている。
そして事故の前月、豊穣祭に向けて通行量が増えることが分かっていながら、通行制限は見送られた。
私は何度も同じ箇所を読み返した。
「……老朽化、だったのですね」
「正確には、放置された老朽化と、見て見ぬふりをした洗掘です」
フォレスト様は手元の書類から目を離さないまま言った。
「『見て見ぬふり』?」
「金がかかるし、祭の前後に道を閉じれば文句が出ます。責任者は任期の間だけ無事ならそれでいい。そういうことです」
あまりにも身も蓋もなくて、しばらく何も言えなかった。
結局、橋を落としたのは一人の悪人ではなかった。
水嵩が増すたびに少しずつ橋脚の足元を削っていった川の流れと、報告書に目を通しながら先送りを重ねた人間たちと、面倒な話を嫌った多くの判断の積み重ねだった。
そう分かったからこそ、かえって苦しかった。……誰か一人を憎めるなら、もっと簡単だったのに。
被害者名簿の抄本も読んだ。
読みたくはなかったが、読まなければならない気がしたから。
家名がそのまま残っている箇所もあれば、名前が伏せられ、続柄と被害状況だけが記された箇所もあった──負傷の程度。遺族への支払額。支払いが保留になっている家。異議を申し立てた家。
その中には、ワイデル男爵家だけではない記録が、いくつも並んでいた。
荷馬車ごと川に落ちて父親を失った商家の息子。
片脚を潰されて職を失った御者。母と妹を同時に亡くした仕立屋見習い。
名簿の端に小さく書き添えられた、扶養家族三名、扶養家族五名、という文字たち。
そこで初めて、自分が今まで、どれほど狭い場所で悲しんでいたのかを思い知った。
あの執務室も、「すまない」という声も、今でも夢に出てくる。
けれど、私は生きて家に帰れたし、家族も欠けていない。体の欠損もなく、温かい食事が運ばれてきて、眠る部屋もある。
それなのに私は、部屋の中で一人、自分だけが世界で一番不幸であるかのように蹲っていた。
不意に、あの日の父の声を思い出した。
『──お前は生きているんだぞ。家族が欠けていないこの状況は幸せなことなんだよ』
あのときは、残酷な言葉だとしか思えなかった。
けれど、紙の上に並んだ名前を見た今なら、あれが空疎な建前ではなかったことだけは分かる。
気づけば、神殿管轄分の裁決文の冒頭で何度も写した経典の一節が、口をついて出ていた。
「……『理を曇らすは、狭き視野なり』」
フォレスト様が顔を上げる。
「何ですか、いきなり」
「自分の見ていたものが、あまりにも狭かったのだと実感して……。橋が落ちた理由も、被害の広さも、何も知らないまま、私は自分の悲しさの中に閉じこもっていたのだな、と」
「そんなものでしょう」
彼はそこで一度、ペンを置いた。
「自分の傷が先に痛む。他人の傷まで同じ重さで分かれというほうが無茶だ」
「……」
「知ったあとでどうするかは別ですが」
知ったあとで、どうするか。
それは多分、マリーナ様のことも、ラフェド様のことも含んでいる。
彼女へのわだかまりは、今も残っている。
婚約者を奪った女だと見てしまう。
憎いと思うことはあるし、消えてしまえと思ったこともある。
ラフェド様についても同じだった。
ご両親を失った直後で、あの人もまともではなかったのかもしれない。
……そう考えることはできても、それで私を切った事実が消えるわけではないけれど。
書類の上のマリーナ様は、家族全員を一度に失い、身元確認が遅れ、保護先の決定が先送りにされていた、ただの十五歳の娘だった。
被害の形が違うだけで、あの子もまた、橋の事故で人生を壊された一人だった。
頭ではそう認めても、感情まで綺麗に追いつくわけではない。
それでも、以前のように、あの子なんて消えてしまえばいいとまで思い続けることは、もうできなかった。
……まったくない、ときっぱり言い切れないところまで含めて、私は『私』なのだ。
◇
春先、監査用の写しが一度に重なった日、向かいの机の書記官が呼び出されたまま戻らなかった。
残された束を見て、半分を自分の机へ引いた。
フォレスト様は止めない代わりに、必要な判例番号だけを紙片に書いて寄越した。
それを見て写し、終えたものから右へ積んだ。差し戻しは一枚も来なかった。次の束が、そのまま私の机に置かれた。
説明なしで同じ仕事を回せるのだと知ったのは、その頃だった。
季節が三度変わる頃には、法務局での私の扱いも、視線も、最初とはかなり違っていた。
清書待ちの紙は、頼まれなくても机に置かれるようになった。
私もそれを、黙って受け取って書き始めるようになっていた。
「シーラ、そっちの写しは終わったか?」
それまで『お嬢さん』としか呼ばれなかったのに、不意に名前をそのまま呼ばれ、私は固まった。
フォレスト様は書類の山の向こうで、口元を緩めていた。
「あの、笑ってますか?」
「失礼だな。俺だって笑う」
「いえ、そこではなく……なんですか、その口調……」
「これが俺の素だ」
「……」
じと、と睨んでしまった私は多分悪くない。
「仕方ないだろう。肩書きや見た目だけ見て来る見習い希望者が、ひっきりなしだったんだから」
「私もその一人だと?」
「最初はな、そう思ってた」
「まあ、ひどい方」
「……だ、だから謝ろうとしてるんだ」
「でも、まだ謝罪されていません」
「…………悪かった、シーラ」
あまりにもあっさりしていて、毒気を抜かれた。
それから少し遅れて、笑いが込み上げる。
「ふ……ふふっ」
「その笑いは何だ? ……許してくれるのか?」
「はい、仕方ないから許してあげます」
「言うようになったじゃないか、シーラ」
自分の名が、その人の口から仕事の流れの中で落ちてくる。
それだけのことが、思っていたより強く残った。
王都の噂も、社交界の値踏みも、橋の上で落ちていったものも、そのまま残っている。
けれど少なくとも今の自分には、泣き顔を覗き込まず、慰めるふりで踏み込んでもこない人がいて、紙の上に残された事実を読む仕事があった。




