05.法務局初日
王宮法務局は、王城の一角、城壁側に沿った細長い棟にあった。
初出勤の日。
私は伯爵家の紋章入りの馬車を使うことを断り、最低限の供だけを連れて王宮まで向かった。
城門で身分を告げ、書類に名を記す。
貴族令嬢としてではなく、『法務局に通う者』として名簿に自分の名前を書くのは、少し不思議な気分だった。
案内された部屋へ入った瞬間、乾いた紙と古い革表紙の匂いが鼻に入った。
長机がいくつも並び、その上には巻物や帳簿が山のように積まれている。
人は多いのに、聞こえるのはペン先が紙を走る音と、紙をめくる音だけだった。
「こちらが今日から見習いに入る、シーラ・シュトルム嬢だ」
父の旧友だという初老の法務官が私を紹介すると、部屋の視線が一斉にこちらを向いた。
じろじろと見る者もいれば、好奇心を隠そうともしない若い書記官もいる。
「また見習いの令嬢か」と、誰かが低く言い、別の誰かが「今度は何日持つかねえ」と続けた。
「皆、仕事は山積みだ。あまり手を止めるな」
初老の法務官が一言釘を刺すと、視線は書類へ戻っていった。
「シーラ嬢には、当面ここで基礎を覚えてもらう。判例集の写本と、過去十年分の裁決記録の整理だ」
「過去十年、ですか?」
思わず聞き返すと、初老の法務官は「十年で済むだけありがたいと思ったほうがいい」と肩をすくめた。
「先に言っておくが、橋の崩落事故の記録も、最初から全部読めるわけではない。決裁済みの抄録と写しだけだ。伏せられている箇所もある。まずは見習いの許可で読める範囲を覚えなさい。今あなたに回るのも、その範囲のものだけだ。先の記録は、その後だ」
読めるのは、知りたい核心の手前までらしい。
事故の理由を知りたくて来たのに、肝心なところほど読めない。
それでも、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
「分かりました」
「覚悟はいいかい?」
「はい」
答えは迷わなかった。
そうして席につくと、机の向かいには一人の男が腰掛けていた。
後ろに撫でつけた淡い金髪の一房が額にかかり、伏せられた目元は紫がかって見えた。
骨格は確かに男性のものなのに、目元から頬にかけての線があまりにも綺麗で、ほんの一瞬、女性かと思った。
彼は私が座っても顔を上げず、次々と書類に目を通しては判を押していた。
初老の法務官が小声で言う。
「フォレスト・キーナン殿だ。法務局付き顧問官で、記録整理と裁決文の監査にも入っておられる。少し口が悪く聞こえるかもしれんが、気にしないでいい。誰にでもそうなんだ」
「はい」
そう答えたところで、その『口の悪い』当人がようやくペンを止めた。
「口が悪いと人前で言わないでいただけますか、特に新入りの前では」
顔を上げずにそう言う声は、低くてよく通った。
そしてようやく、紫の瞳がこちらを向く。
「フォレスト・キーナンです」
淡々とした口調だった。
「シーラ・シュトルムと申します。本日からお世話になります」
そう告げると、彼は一拍置いて口角を上げた。
「よろしく、シュトルム伯爵家のお嬢さん」
「『お嬢さん』……?」
眉を顰める。
「お嬢さんでしょう? 俺の七つも下ですから」
私は口を閉じたまま、視線だけを返した。
紫の目が、書類越しにこちらを見る。
「仕事を選り好みして、『北の橋』の記録を先に出せと言ってくるあたり、実に『お嬢さん』らしい」
彼は机の上の厚い帳簿を指先で軽く叩いた。
「ここにあるのは、お嬢さんにとって『つまらない話』だけですよ。茶会はない」
「つまらない話でも、知りたいです。私はお茶会をしに来たのではありませんので」
「仕事そのものを覚える前に辞める未来しか見えない」
「ご心配なく。そんな未来は来ませんから」
「へえ?」
フォレスト様は私をじっと見つめた。
値踏みされているのか、試されているのか、それとも呆れられているのか、分からない。全部かもしれない。
ここへ通うことが決まったとき、従妹から、彼目当てに見習いを希望する令嬢は少なくないと聞いた。
「キーナン侯爵家の嫡男で、顔がいい。独身で優良物件よ」──そんなあけすけな評価を楽しそうに下していた。
彼は視線を外し、机の端に積まれていた束をこちらに押しやった。
「ではまず、アシル川北橋崩落事故に関する抄録と決裁済み写しです。裁決、補償、工事記録の公開分だけですがね。供述の細部や未公開分は抜いてあります。あなたが一番よく知っているはずの出来事が、他人の言葉でどう処理されたか。そこから勉強するといい」
差し出された書類の一番上には、見慣れた地名と、忘れられない日付が記されていた。
私は小さく息を吸い、頷いた。
「分かりました。ありがとうございます。……キーナン顧問官殿」
「ここでは『フォレスト』で結構です。『顧問官殿』なんて呼ばれると、書類の山から逃げたくなります」
「では……フォレスト様、とお呼びします」
「お好きに。俺は、あなたのことは『お嬢さん』と呼びます」
「……」
彼にとっての私は、『すぐに辞めるその他大勢のお嬢さん』なのだろう。
悔しい気持ちと、引きこもっていたことの負い目で頬が熱くなる。
その熱をごまかすように、手元の書類へ視線を落とした。
橋が落ちた日付。工事を請け負った商会の名前。責任を問われた役人たちの肩書。補償の金額と、支払い先の一覧。
氏名が削られた行も、別紙へ回された供述もある。それでも、そこには、新聞が好んで書き立てた『悲劇の令嬢』の話は一行もなかった。
肝心なところは、まだ見られない。
全部は読めない。知りたいところまで届くには、まだ手順を踏まなければならない。
それでも、ここに並んでいるのが飾られた物語ではなく、何が起きて、どう処理されたかを残した記録であることに救われていた。




