04.踏み出す一歩
社交に戻った今の私は、どうにか『立ち直ったように見える』くらいにはなっていた。
夜会でも茶会でも余計な醜聞を増やさず、決められた場には出て、決められた態度を崩さない。
そのせいだろう。最近では、私をあからさまに『捨てられた女』として眺める視線は、前ほど露骨ではなくなった。
帰宅しても気は抜かず、鏡の前で口角の形を何度も確かめた甲斐があった。
頬が痛くなっても、次の席で同じ顔ができるように覚え込ませたのだ。
マリーナ様の名前が出ても、表情一つ変えずに杯を傾けられるようになった。
「本当に強い方ね」と言われることもあるし、「辛いことがあったのに、あんなふうに落ち着いていられるなんて」と、羨ましがる声すらある。
一年近く表に出なかったせいか、今では別の令嬢が引き合いに出されていて、私への嫌味や影口は激減した。
その代わり、分かったような顔で『乗り越えた女』として眺める声が増えた。
そんな言葉を聞くたび、鼻で笑ってやりたくなるし、「同じ立場でないくせに、偉そうに分析しないで」とワインをかけてやりたくなる。
……もちろん、やらない。
私は、ただ覚えただけだ。『冷たい伯爵令嬢』でも、『惨めな捨てられた女』でもなく、少し痛ましい過去を持ちながらも、『きちんと前を向いて歩いている大人の女性』として扱われるための振る舞いを。
今の私に求められている姿は、それなのだと思う。
けれど、誰がそれを求めているのかは、もう分からなかった。
立ち直ったかと問われれば、「はい」と答えるしかない。
嘘なのか、本当にそうなりかけているのか、自分でも分からない。
……ときどき夢を見る。石橋の上で傾く馬車と、冷たい川の水と、『守られるべき女の子』と『自分で立ち直るべき私』とを器用に選び分けた人々の顔を。
父に「好きにしなさい」と言われたのは、その頃のことだった。
書斎の扉を閉めた音が背中で止まり、私は立ったまま父の机を見た。
「──シーラ。お前に、無理に縁談を探すつもりはない」
執務机の前で、父はまっすぐにこちらを見た。
「お前は嫡子ではない。家のために無理をしてまで結婚しなくていい。これからは自分のことを決めなさい」
ありがたい言葉だった。けれど、体の中がすっと冷えた。
自分のことを決めなさいと言われるほど、『自分がしたいこと』がなかったからだ。
ラフェド様の隣に立つこと。それだけを目標にして、ずっと歩いてきた。
その道が突然消えてしまった今、更地の上にぽつんと立たされている気分だった。
それでも、何か言わなければならなかった。沈黙していると、本当に何も持っていない人間みたいで、悔しかったから。
だから、あの日からずっと喉に引っかかっていたことを、そのまま言葉にした。
「お父様」
声が少し震えた。
「……王宮法務局で、勉強をさせていただくことは、できませんか」
父は目を瞬かせた。
「法務局で、か?」
「……はい」
口に出してから、自分で自分に驚いた。
だけど、そのとき頭に浮かんだのは一つだけだった。
「橋が、なぜ落ちたのか知りたいのです。誰かの口の上で都合よく語られる話ではなく、『記録』として」
父はすぐには答えなかった。
机の上に置いた手を見たまま黙り、やがて小さく息を吐いた。
「また突拍子もないことを……」
叱られるかと思ったが、そうはならなかった。
「はあ……だが、お前らしいとも思う。ちょうど王宮法務局は人手が足りないと聞いている。女性の書記官も募集していると文書にあった。まあ、もともと少ないらしいがな。定員割れだそうだ」
父はそこで言葉を切った。
「だが、お前は当事者だ。紹介状一枚で好きに読める場所ではない。受け入れを頼むなら、向こうの条件をのむことになるぞ」
試す目ではなく、引き返せるうちに確認する目だった。
「条件、ですか」
「旧友から聞いている範囲だが、名誉書記見習い扱いになる。守秘の誓約書を書くこと。原本、未決案件、未公開の供述には触れないこと。橋の件も、最初に見られるのは決裁の済んだ抄本と、伏せ字入りの写しだけだ」
思っていたより、ずっと読める範囲は狭い。
それでも、何も読めないよりはましだ。
「構いません」
父は机の端を指先で一度、こんと叩いた。
「見習いのままでは、読める範囲は限られるらしい。写しの扱いと記録整理を覚え、局内で先へ進む許可を得られれば、次の段階の記録に回してもらえる。私ができるのは、最初の紹介までだ」
「あ、ありがとうございます!」
「ただし、疑問が解決したからと言って一ヶ月で辞めるなんて言いだすなよ? どんなに辛くても一年は頑張りなさい。約束できないなら、紹介そのものをしない」
「はい、約束します!」
◇
父は本当に法務局へ私を紹介し、数日後、条件付きで受け入れが決まった。
こうして私は、王都セフィラの王宮法務局に『名誉書記見習い』として通うことになった。
だが、『名誉』のつく肩書とはいえ、許されたのは、決裁済み文書の写しと整理だけだ。
橋の件も、最初に渡されるのは抄録と伏せ字入りの記録に限る。
氏名が削られた箇所もあれば、肝心な供述が『別紙参照』の一行で切られている箇所もある。
詳しい記録を読むには、実務を覚えた上で、局内の段階別閲覧許可を得なければならない。
遠い。
けれど、私には大きな一歩だった。




