表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/9

03.悲劇ですら主役になれない

 婚約の解消が正式に決まった日から数ヶ月、私はひどく荒れた。

 と言っても、酒場に通って酔い潰れたり、使用人や家族に罵声をあげたりしたわけではない。

 伯爵令嬢には、そういう荒れ方は許されていない。

 私にできたのは、箱の中でしか生きられない娘らしく、部屋の中で荒れることだけだった。


 部屋に持ってこられる食事にはほとんど手を付けなかった。

 温かい湯気が消え、皿がすっかり冷えてから下げられることも珍しくない。


 気を抜けば涙が溢れるので、鏡を見るのが嫌になり、髪を梳かれるのも煩わしくなった。


 王都で催されるお茶会や夜会の招待状は、机の上に積まれていき、侍女に『体調不良のため欠席』とだけ書いた返事を機械的に出させていた。

 本当に体調が悪かったので、その一文だけは嘘ではない。

 体はいつも重く、息をすることすら面倒に思える日が続いた。


 涙は勝手に出た。

 朝、目を開けたときにはもう頬が濡れている日もあった。侍女がカーテンを開ける音だけで、またあふれた。

 泣こうとしているわけではないのに、気が緩むと落ちた。

 袖も枕もすぐ湿った。

 乾いた頃にまた濡れた。

 少し起き上がるだけで息が浅くなった。


 父と母は、最初のうちは何も言わなかった。

 食事に手を付けなくても、招待状を山のように積んだままにしていても、侍女から様子を聞くだけで、部屋に踏み込んではこなかった。


 けれど、(ひと)(つき)(ふた)(つき)と過ぎる頃には、欠席の返事を出すたびに母の顔が曇り、父もまた黙って見ていることができなくなった。



「シーラ」


 ある日、扉の向こうから父の声がした。

 久しぶりに聞く、仕事用ではない柔らかい響きだった。


「いつまでも寝てばかりはいられないぞ」


 それが責める言葉ではないからこそ、余計に耳が痛かった。


「……分かっています」


 かろうじてそう答えると、扉の向こうで小さな溜息が聞こえた。


「分かっているならいい。……だが、な。シーラ、お前は生きている。家族が欠けていないこの状況は幸せなことなんだ」


 その言葉に、自分が滑稽に思えて、枕に顔を埋めた。


 父が間違ったことを言っていないのも分かっている。

 生きているのなら、きちんと立って歩かなければならない。

 誰も彼もそう言う。他人事なら、私だってきっとそう言う。

 頭では理解している。

 だけど、すぐに「はい、その通りです」と前を向けるわけがない。


 私は、家族が見守る中、『悲劇のヒロイン』にどっぷりと浸っていた。

 マリーナ様が人前で悲劇を着こなしていたのだとしたら、私は部屋に閉じこもったまま、それに呑まれていただけだった。


 父にああ言われても、翌日から急に起き上がれたわけではない。

 欠席の返事はそのあとも続いたし、招待状も机の上に積み上がり続けた。

 母は文面を選び直し、父はそれに目を通していたが、私には言わなかった。


 けれど、そうして守られているあいだにも、外では別の言い方をされていた。

 伯爵令嬢はまだ立ち直れないらしい。

 婚約を失ったくらいで社交にも出られないのか。

 そういう噂が、欠席の返事を出すたびに重なっていった。


 半年が過ぎる頃には、完全に引きこもっているわけにもいかなくなった。

 父は新しい取引をまとめなければならず、母も家の仕事を疎かにできない。

 私一人の塞ぎ込みで済む段階では、もうなくなっていた。


 母は私を庇おうとしてくれていたが、欠席を重ねるたびに、それにも限度があるのだと分かるようになった。

 欠席の返事を出すたびに、家の名前まで一緒に品定めされているのだと、さすがに私にも分かった。

 そして、やがて観念したように言った。


「シーラ、辛いのは分かっているわ。でも顔だけでも見せなくては。……なにも楽しそうに笑う必要はないのよ。あなたが立っているところを皆に見せればいいの」


 それは、罰のように思えた。

 人前に立てば値踏みされると分かっている場所へ、自分から戻れと言われているように感じたからだ。

 同時に、もう私一人の問題では済まないのだとも分かった。


 私は深呼吸をして、鏡の前に座った。


 侍女が髪を梳き、ドレスの紐を締めていく。


「お嬢様、とてもお綺麗ですよ」


 心からそう言っているのか、励まそうとしているのか、判断がつかない。


 どちらにせよ、鏡の中の自分は以前よりもずっと痩せていて、目元にうっすらと影が落ちていて、やつれただけの顔にしか見えなかった。


 その影がかえって大人びた雰囲気を出していると、茶会の席で誰かが褒めてくれた。

「失恋を乗り越えた女性は美しいわね」と。


 くだらないと思った。


 私は捨てられた女で、美しいマリーナ様の足元にも及ばない。

 そのうえ、自分が一番傷ついていると思っている。

 そんなひねくれた甘ったれが美しいわけがない。


 やつれた顔まで都合よく意味ありげに眺められると、苦しんだ跡まで飾りに変えるのかと思う。あまりにも安い台詞で、笑う気にもなれなかった。


 社交に戻ってからは、あの橋の事故が常に口にのぼった。

 茶会でも夜会でも、誰かが口を開けば、すぐに橋の崩落へ戻っていった。

 そういう語られ方に晒され続けるうちに、婚約解消から一年が経つ頃には、あの事故とその後の婚姻は、王都で消費される出来上がった物語になっていた。


 主役に据えられるのは、いつもマリーナ様だ。

 美しく、可憐で、可哀想な女の子。幸せになるべき女の子。

 ラフェド様もまた、そんな彼女を救い、妻に迎えた誠実な若者として語られる。

 社交界では、その二人の結婚こそが物語に与えられた最も美しい結末なのだと、皆が分かったような顔をしていた。


 美しく哀れな男爵令嬢が、一人の誠実な若者に助けられ、求婚される。

 神の試練を共に乗り越え、惹かれ合い、結ばれた運命の恋人同士。


 その形に収まりさえすれば、前後の詳しい事情は要らなかった。

 橋の上で誰がどんな顔をして叫んでいたかも、誰がどの契約を捨て、誰が誰との約束を破ったのかも、どうでもよかったのだ。


 人々が欲しかったのは、涙ぐみながら口にできる恋歌だけだった。



 事故の後、ラフェド様はエヴァンズ家の家督を継いだ。

 だが、そのまま伯爵位に収まったわけではない。

 のちに王命で爵位が整理され、伯爵位はエヴァンズ本家へ戻り、彼は子爵位を受けた。


 兄はその話を、「大変なときに恋に浮かれて、婚約をぶっ壊した大馬鹿野郎に、伯爵家は任せられないってことだろ」と鼻で嗤った。

 兄なりの慰めかと思ったが、当主を橋で失い、家督を継ぎ、そのうえ私との婚約まで壊したのだから、そのままでは済まなかったのだろう。


 けれど、世間はそうは見ていなかった。

 茶会でも新聞でも、都合のいい部分だけが拾われていく。

 そのうち、受け取られ方は一つの形に揃っていった。


『若くして爵位を背負い、家を立て直し、なおかつ一人の哀れな令嬢を妻に迎えた立派な子爵』

 人々がラフェド様に与えたのは、そういう分かりやすい役どころだった。


 マリーナ様は、もう『橋から生き残った男爵令嬢』ではない。

 今は立派な子爵夫人として、人前に姿を見せている。


 噂では、彼女は相変わらず美しく、控えめで、誰に対しても礼儀正しいという。

 この前の舞踏会で、子爵夫人として初めて公の場に出たときのことも、場所を変えて何度も語られた。


「白いレースのドレスだったのだけれどね。今、同じような意匠のドレスが飛ぶように売れているのよ」

「王女殿下の手を取って、涙ぐみながら感謝を伝えたんですってね」

「王立美術館の創立記念賞を取った、あの天使の絵があったじゃない? あれ、マリーナ様がモデルだそうよ」


 本当にそうなのかは、判別もつかない。

 ただ、それらの噂が似合う顔なのだろうとは、私にも想像がついた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ