03.悲劇ですら主役になれない
婚約の解消が正式に決まった日から数ヶ月、私はひどく荒れた。
と言っても、酒場に通って酔い潰れたり、使用人や家族に罵声をあげたりしたわけではない。
伯爵令嬢には、そういう荒れ方は許されていない。
私にできたのは、箱の中でしか生きられない娘らしく、部屋の中で荒れることだけだった。
部屋に持ってこられる食事にはほとんど手を付けなかった。
温かい湯気が消え、皿がすっかり冷えてから下げられることも珍しくない。
気を抜けば涙が溢れるので、鏡を見るのが嫌になり、髪を梳かれるのも煩わしくなった。
王都で催されるお茶会や夜会の招待状は、机の上に積まれていき、侍女に『体調不良のため欠席』とだけ書いた返事を機械的に出させていた。
本当に体調が悪かったので、その一文だけは嘘ではない。
体はいつも重く、息をすることすら面倒に思える日が続いた。
涙は勝手に出た。
朝、目を開けたときにはもう頬が濡れている日もあった。侍女がカーテンを開ける音だけで、またあふれた。
泣こうとしているわけではないのに、気が緩むと落ちた。
袖も枕もすぐ湿った。
乾いた頃にまた濡れた。
少し起き上がるだけで息が浅くなった。
父と母は、最初のうちは何も言わなかった。
食事に手を付けなくても、招待状を山のように積んだままにしていても、侍女から様子を聞くだけで、部屋に踏み込んではこなかった。
けれど、一月、二月と過ぎる頃には、欠席の返事を出すたびに母の顔が曇り、父もまた黙って見ていることができなくなった。
「シーラ」
ある日、扉の向こうから父の声がした。
久しぶりに聞く、仕事用ではない柔らかい響きだった。
「いつまでも寝てばかりはいられないぞ」
それが責める言葉ではないからこそ、余計に耳が痛かった。
「……分かっています」
かろうじてそう答えると、扉の向こうで小さな溜息が聞こえた。
「分かっているならいい。……だが、な。シーラ、お前は生きている。家族が欠けていないこの状況は幸せなことなんだ」
その言葉に、自分が滑稽に思えて、枕に顔を埋めた。
父が間違ったことを言っていないのも分かっている。
生きているのなら、きちんと立って歩かなければならない。
誰も彼もそう言う。他人事なら、私だってきっとそう言う。
頭では理解している。
だけど、すぐに「はい、その通りです」と前を向けるわけがない。
私は、家族が見守る中、『悲劇のヒロイン』にどっぷりと浸っていた。
マリーナ様が人前で悲劇を着こなしていたのだとしたら、私は部屋に閉じこもったまま、それに呑まれていただけだった。
父にああ言われても、翌日から急に起き上がれたわけではない。
欠席の返事はそのあとも続いたし、招待状も机の上に積み上がり続けた。
母は文面を選び直し、父はそれに目を通していたが、私には言わなかった。
けれど、そうして守られているあいだにも、外では別の言い方をされていた。
伯爵令嬢はまだ立ち直れないらしい。
婚約を失ったくらいで社交にも出られないのか。
そういう噂が、欠席の返事を出すたびに重なっていった。
半年が過ぎる頃には、完全に引きこもっているわけにもいかなくなった。
父は新しい取引をまとめなければならず、母も家の仕事を疎かにできない。
私一人の塞ぎ込みで済む段階では、もうなくなっていた。
母は私を庇おうとしてくれていたが、欠席を重ねるたびに、それにも限度があるのだと分かるようになった。
欠席の返事を出すたびに、家の名前まで一緒に品定めされているのだと、さすがに私にも分かった。
そして、やがて観念したように言った。
「シーラ、辛いのは分かっているわ。でも顔だけでも見せなくては。……なにも楽しそうに笑う必要はないのよ。あなたが立っているところを皆に見せればいいの」
それは、罰のように思えた。
人前に立てば値踏みされると分かっている場所へ、自分から戻れと言われているように感じたからだ。
同時に、もう私一人の問題では済まないのだとも分かった。
私は深呼吸をして、鏡の前に座った。
侍女が髪を梳き、ドレスの紐を締めていく。
「お嬢様、とてもお綺麗ですよ」
心からそう言っているのか、励まそうとしているのか、判断がつかない。
どちらにせよ、鏡の中の自分は以前よりもずっと痩せていて、目元にうっすらと影が落ちていて、やつれただけの顔にしか見えなかった。
その影がかえって大人びた雰囲気を出していると、茶会の席で誰かが褒めてくれた。
「失恋を乗り越えた女性は美しいわね」と。
くだらないと思った。
私は捨てられた女で、美しいマリーナ様の足元にも及ばない。
そのうえ、自分が一番傷ついていると思っている。
そんなひねくれた甘ったれが美しいわけがない。
やつれた顔まで都合よく意味ありげに眺められると、苦しんだ跡まで飾りに変えるのかと思う。あまりにも安い台詞で、笑う気にもなれなかった。
社交に戻ってからは、あの橋の事故が常に口にのぼった。
茶会でも夜会でも、誰かが口を開けば、すぐに橋の崩落へ戻っていった。
そういう語られ方に晒され続けるうちに、婚約解消から一年が経つ頃には、あの事故とその後の婚姻は、王都で消費される出来上がった物語になっていた。
主役に据えられるのは、いつもマリーナ様だ。
美しく、可憐で、可哀想な女の子。幸せになるべき女の子。
ラフェド様もまた、そんな彼女を救い、妻に迎えた誠実な若者として語られる。
社交界では、その二人の結婚こそが物語に与えられた最も美しい結末なのだと、皆が分かったような顔をしていた。
美しく哀れな男爵令嬢が、一人の誠実な若者に助けられ、求婚される。
神の試練を共に乗り越え、惹かれ合い、結ばれた運命の恋人同士。
その形に収まりさえすれば、前後の詳しい事情は要らなかった。
橋の上で誰がどんな顔をして叫んでいたかも、誰がどの契約を捨て、誰が誰との約束を破ったのかも、どうでもよかったのだ。
人々が欲しかったのは、涙ぐみながら口にできる恋歌だけだった。
事故の後、ラフェド様はエヴァンズ家の家督を継いだ。
だが、そのまま伯爵位に収まったわけではない。
のちに王命で爵位が整理され、伯爵位はエヴァンズ本家へ戻り、彼は子爵位を受けた。
兄はその話を、「大変なときに恋に浮かれて、婚約をぶっ壊した大馬鹿野郎に、伯爵家は任せられないってことだろ」と鼻で嗤った。
兄なりの慰めかと思ったが、当主を橋で失い、家督を継ぎ、そのうえ私との婚約まで壊したのだから、そのままでは済まなかったのだろう。
けれど、世間はそうは見ていなかった。
茶会でも新聞でも、都合のいい部分だけが拾われていく。
そのうち、受け取られ方は一つの形に揃っていった。
『若くして爵位を背負い、家を立て直し、なおかつ一人の哀れな令嬢を妻に迎えた立派な子爵』
人々がラフェド様に与えたのは、そういう分かりやすい役どころだった。
マリーナ様は、もう『橋から生き残った男爵令嬢』ではない。
今は立派な子爵夫人として、人前に姿を見せている。
噂では、彼女は相変わらず美しく、控えめで、誰に対しても礼儀正しいという。
この前の舞踏会で、子爵夫人として初めて公の場に出たときのことも、場所を変えて何度も語られた。
「白いレースのドレスだったのだけれどね。今、同じような意匠のドレスが飛ぶように売れているのよ」
「王女殿下の手を取って、涙ぐみながら感謝を伝えたんですってね」
「王立美術館の創立記念賞を取った、あの天使の絵があったじゃない? あれ、マリーナ様がモデルだそうよ」
本当にそうなのかは、判別もつかない。
ただ、それらの噂が似合う顔なのだろうとは、私にも想像がついた。




