02.選ばれなかった惨めな女
ラフェド様が彼女を保護していたと知ったのは、豊穣祭の余韻が街から薄れた頃だった。
──つまり、彼女が神殿預かりと言うのは、嘘だったのだ。
あの日、橋の近くで彼は馬を降り、川に落ちた人々を助けようと飛び込んだらしい。
男爵令嬢・マリーナ様を岸まで引き上げたのも彼だったと、彼の口から聞かされた。
「放っておけなかった」
そう言ったときの彼は苦しそうだった。
同時に、迷いの中にいる人間の顔ではなかった。
……あれは同情ではない。
自分が手を離したら失うと信じ込み、もう他の話が耳に入らなくなっている顔。あの子を救えるのは自分だけだと、疑いもせず思い込んでいる顔だった。
私は卓の下で、指先が白くなるほど手を握り締めながら、その報告を聞いていた。
彼の叔父も、長年仕えている家令も、「未婚の令嬢を屋敷に置くのはまずい」と止めた。
それでも彼は聞かなかった。
私は、彼以外から謝られた。
マリーナ様を神殿へ預ける話も、親族筋を探す話も出た。
だが、周囲が勧めても、結局どちらも選ばなかった。
別館の一室を与え、そのまま屋敷に置いた。
「神殿に預けられるのは嫌です。どうか、ここに置いてください」と泣いて頼まれたそうだ。
実際にそう口にしたのかは知らない。ラフェド様から聞いただけだから。
最初は一時的なものだと思おうとした。
親族が見つかるまで、あるいは落ち着くまでの話だと、自分に言い聞かせた。
けれど、保護という言葉を使っていても、その時点で彼はもう、彼女を守る役を自分から手放す気がないのだと分かっていた。
……私は、彼女の境遇が気の毒だと思っていた。
家族を一気に失った痛みなんて、想像もできない。
神を恨んでもおかしくないのに、表向き、彼女は恨み言一つ口にしなかったらしい。
だからこそ、彼女を憎みきれなかった。
だけど、世間が彼女だけを見ていることには、だんだん耐えられなくなっていった。
自分でも嫌になるほど、狭くて幼い怒りだった。
『守られるべき可哀想で、美しい令嬢』としての彼女と、『十分に守られている、冷たい伯爵令嬢』としての私。
この二つの役が、勝手に決められていたことが原因だった。
茶会での影口や噂の原因は分かりやすい。
『王女様のお気に入り』の引き立て役に、私が使われていたのだろう。
◇
婚約を解消したい、とラフェド様に言われたのは、その冬の初めだった。
保護の話を聞かされてから、季節が一つも変わらないうちだった。
窓の外では、セフィラの城壁に初雪が降り始めていた。
暖炉の火が燃えている執務室で、彼はいつものようにまっすぐな目をしていた。
「すまない。こんなときに、こんな話を持ち出すのは分かっている」
最初にそう前置きしてから、彼は続けた。
「君との婚約を、白紙に戻したい」
前から決めていた話を告げるような、淡々とした声だった。
言葉の意味は分かるのに、頭がその場についていかなかった。
心臓が、強く痛んだ。
指先から血の気が引くのが分かった。
「……理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
「君を傷つけることになるのは承知している」
彼は苦しそうに眉を寄せた。
「だけど、あの子を、一人にしておくことはできないんだ。あれほどのものを失った人間を、追い出す側には回りたくない」
『あの子』──それが誰を指すか、聞かなくても察せた。
「君には分からない。家族を一度に失う痛みは、同じ目に遭った者にしか分からない」
彼は一度、言葉を切った。
「君には家がある。守ってくれる者もいる。だが、彼女にはない。今は皆が可哀想だと言うだろう。だが、その先はそうだと限らない」
もっともらしく聞こえた。
でも、言い訳にしか聞こえなかった。
分かる、分からないの話じゃない。
まるで、私が傷ついていないみたいな言い方なんてひどいと思った。
社交界も王女様も、皆が彼女を囲んでいる。
預かり先を用意する方法はいくらでもあるのに、彼はそのどれでもなく、自分の手元に置く道だけを選んでいた。
守るためではない。離したくないのだ。
しかも、そのために切り捨てられる側が私だなんて、許せなかった。
許せないのに、愚かな私は彼のことを諦められなかった。
「……ラフェド様は……マリーナ様を選ぶのですね」
彼は黙って、頷いた。
私は泣かなかった。
泣いても仕方がないと頭のどこかで考えていたからだ。
それに、泣けば「やっぱりわがままな令嬢だ」と噂されるだけだと知っていた。
だからまずは、理屈で彼を説得しようとした。
「この婚約は、両家だけの問題ではありません」
私は一つ一つ、言葉を並べた。
「王家との約束もあります。商人たちの契約も、婚約を前提に結ばれています。ここで私との婚約を解消し、彼女をそばに置けば、違約金では済まないかもしれません。家の信用も落ちます。領地の取引だって止まります」
「構わない」
彼はためらわなかった。
「必要な損は引き受ける。契約不履行の慰謝料は払うつもりで──」
そこで、私の中で何かが弾けた。
ラフェド様の言葉を遮り、続ける。
「彼女を責めているわけではありません。彼女が不幸であることも、気の毒であることも、分かっています。でも、だからと言って、今ここで全てをひっくり返して良い理由にはなりません」
少し間を置いて、問いかけた。
「……私のことを、お嫌いになったのですか」
彼は、しばらく言葉を探しているようだった。
「嫌いになったわけじゃない。しかし、あの子を見てしまってからは、どうしても──」
その先を聞けば、本当に終わると思った。
「待ってください……待って……」
次の瞬間には、床に手をついていた。
自分でも信じられなかった。けれど、もう椅子に座ってはいられなかった。
膝で絨毯を擦りながら近づくと、視界の端で彼の靴を見止めた。
そこへ、涙が落ちた。
「お願いです、ラフェド様……考え直して、ください……っ、おねがいです……」
声がうまく出ない。情けない嗚咽だけが漏れる。
「あなたと結婚できないなんて……そんなの、嫌です……。ラフェド様と結婚できないのなら……」
口にしてはいけない言葉だと分かっているのに、止まらなかった。
「生きている意味がない……」
「やめろ、シーラ」
頭上から、押し殺したような声が落ちてくる。
けれど、縋る手を緩められなかった。
「彼女をどうしても手放せないのなら……愛人でも、離れの家でも……人目のつかないところに置いてくださってもいいんです……っ」
言ってしまってから、自分の口を引き裂きたくなった。
こんなことを口にする女を、私は軽蔑していたはずだ。
それなのに、正妻の席だけでも残るなら、そのほうがましだと、このときは本気で思っていた。
「せめて、籍だけでも……。私を、ラフェド様の妻にしてください……っ」
「そんなことをさせたくない。君は幸せになるべき女性だ」
その言葉を聞いた瞬間、息が止まりかけた。
──幸せになるべき私を、今、不幸にしているのはあなたでしょ?
「お願いです……捨てないで……。軽蔑されても構いません。どう思われたっていい……ラフェド様のそばにいられるなら、それで……」
掴んだ裾から、指を離せなかった。
「みっともない女だって、思っているのでしょう? でも今さらです……っ」
声は涙で濡れて、ひどく聞き苦しかったはずだ。
「お願いです……どうか、お願いします。もう一度だけ、考え直して……!」
どれだけ繰り返したか分からない。
誇りも、家の名も、何の重みも持たなかった。
後でどれほど惨めに思い返すことになってもかまわない、とそのときは本気で思っていた。
この場で彼が私を振りほどかなければいいと、それだけを祈っていた。
だが、彼は首を横に振った。
「すまない」
その一言が、何度も何度も繰り返される。
涙で、彼の心を取り戻すことはできなかった。
こうして私は、婚約者に、誰より惨めに縋りついた後で、捨てられた。
私は『愛されない女』になったのではない。
誇りまで差し出して、それでも尚、『選ばれなかった女』になったのだ。




