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15.私は、幸福を引き受ける

 建国千年祝賀会から、一年半が過ぎた。


 婚約の儀のあと、法務局の机と婚家の準備が並んで走り、季節だけが先に進んだ。



 ◇



 礼拝堂の控え室で、私は鏡の前に立っていた。


 白いドレスは胸元と裾に細い銀糸の刺繍が入っていて、腰のあたりで一度だけ絞られていた。

 長いベールが肩から背中に落ちている。


 鏡に映るのは自分の顔のはずなのに、婚礼衣装を着た姿はまだ自分のものに見えない。


 裾の確認を終えた母と義姉が、少し離れたところからこちらを見ている。

 私が声をかければ、二人まとめて涙ぐみそうだと分かったので、笑う代わりに小さく頷いた。


 扉の外から侍女の声がして、父が迎えに来ていると告げた。

 私は深呼吸をし、ベールを整え、控え室を出た。


 前室で待っていた父は、礼服に身を包み、いつもより背筋が伸びて見えた。

 差し出された腕に、自分の手を添える。父は短く頷き、礼拝堂の扉が開いた。


 楽の音が高まり、視線の流れがこちらへ向かう。

 通路の先、祭壇の前にフォレスト様が立っていた。濃い色の礼服に、侯爵家の紋章。いつもの灰色の上着よりも重みがある。


 父と歩幅を合わせて進む。

 足音と楽の音、自分の呼吸だけがはっきり分かる。


 祭壇の前で父の腕から離れ、フォレスト様の前に立つ。

 差し出された手に自分の手を預けると、指先から少しずつ熱が上がってきた。神官の声が、その上から覆いかぶさる。


 互いに名を呼ばれ、神官が問いを口にする。


「フォレスト・キーナン。この王国の神々と法の前で、この方を妻と認め、その名と立場を共にし、その身を守ると誓いますか」


 フォレスト様は、私を見たまま答えた。


「誓います」


 続いて、私の名が呼ばれる。


「シーラ・シュトルム。この王国の神々と法の前で、この方を夫と認め、その名と家を尊び、その歩みを共にすると誓いますか」


「誓います」

 声は驚くほどはっきり出た。


 右手にはめていた婚約指輪を左手の薬指へ移し、その上から新しい指輪が重ねられる。

 冷たいはずの金属が、触れたところからすぐに馴染んだ。


 神官が結びの言葉を告げた。

 次の瞬間、礼拝堂いっぱいに拍手が広がる。

 母はもう隠しもせずに泣いていて、義姉まで一緒になって目元を押さえていた。

 兄はそんな二人に挟まれて、少し困ったように笑っている。

 父だけは背筋を伸ばしたままだったが、口元はきちんと笑っていた。



 ◇



 披露の宴は、キーナン侯爵家本邸の大広間で行われた。


 長い卓に料理が並び、花と燭台が間を埋めている。

 列を作ってこちらへ進んでくる親族や客に挨拶を繰り返すうち、緊張は作業のようになっていった。


 フォレスト様の親族、私の父方の親族、法務局の同僚たち。

 書類の束越しにしか話したことのなかった上官が、杯を掲げて笑っている。


 仕事仲間からのからかいを聞いていると、法務局で過ごした日々も、これから始まる暮らしも、私の中ではちゃんと続いているのだと思えた。


 書記官の机に向かった朝も、食堂でフォレスト様と向かい合った昼も、書架の並びを見上げて帰った夕方も、すべて今に繋がっている。



 一通り挨拶を終え、卓の端で水を飲んでいると、背後からごく普通の世間話が聞こえてきた。

 年配のご婦人が、隣の客と声を潜めている。


「エヴァンズ子爵、最近は地方の裁判所に通っているそうですわね」

「ええ、書記も兼ねていらっしゃるとか。貴族だからといって、ただ座っていられる時代でもありませんものね」

「大変ねえ。けれど、お仕事をしているだけ、まだましなのかもしれませんよ」


 名前を聞いて、私は一度だけ視線を落とした。

 地方の裁判所で書記をしている──想像はつく。あの人は、文字も判例もきちんと読める人だった。


 でも、それだけだ。

 婚約解消も慰謝料も、とっくに終わっている。

 あとは当事者としてではなく、遠くの出来事として耳に入れるだけ。


 別の卓の近くを通りかかったとき、今度は聞き覚えのある名前が出た。


「王女殿下のお輿入れに、あのエヴァンズ元子爵夫人もお供するそうよ」

「まあ! 王宮騎士様とはどうなさったのかしら」

「もう別れたそうですわ」

「ええ? そうなんですの?」


 言葉の続きを聞く前に、その場を離れた。

 耳に入った断片だけで、だいたいの様子は想像できる。


 マリーナ様は、これからも誰かの隣を選び、守られながら生きていくのだろう。



 ◇



 私は杯を置き、会場を見渡した。


 父と母が親族と話している。義姉が、料理の感想を誰かに説明している。法務局の同僚たちが、固まって談笑している。


 その輪の少し離れたところに、フォレスト様がいた。

 挨拶を終え、こちらの様子をうかがっている。視線が合うと、軽く顎を動かして問いかけるような仕草をする。


 私は頷き、彼のもとへ歩いた。



 婚約解消も、噂も、橋が落ちた日のことも、床に手をついて縋った自分のことも、消えてはいない。

 だけど、それを抱えたままでも、人は別の場所へ歩いていける。


 私は、キーナン侯爵夫人になる。


 新しい家も、新しい役目も、自分で引き受けていく。


「私、全力で幸せになります。そして、あなたのことを幸せにします」


 口にしたあとで、少しだけ気恥ずかしくなった。

 けれど、撤回したいとは思わなかった。


 フォレスト様は一度目を見開き、それから、堪えきれなかったように破顔した。




【完】

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