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13.もう好きではない人

 いつも通りの一日の終わり。

 判決文の清書を提出し、机の上を片づけ、羽根ペンを洗う。書架に戻す書類がもうないか確かめてから、私は外套を手に取った。

 出仕簿に退庁の印を押し、職員玄関へ向かうため、二階の廊下を歩く。窓の外はもう薄暗い。門の外には、シュトルム家の馬車が迎えに来ているはずだ。


 階段の手前に、大きな窓がある。普段なら通り過ぎる場所なのに、その日は足が止まった。

 見慣れた門柱が目に入り、そのまま視線を下へ落とした。


 門扉のそばには……馬車の死角に人影が一つ。

 きちんとした礼服に、よく見知った横顔。


 ラフェド様だ。


 建物のほうをうかがう視線を見た途端、誰を待っているのかまで分かった。


 階段を降りれば、職員玄関の前で正面から出会うことになる。

 私は外套を握り直し、そのまま踵を返した。職員玄関には向かわず、さっき出てきたばかりの法務局の執務室へ戻る。


 中ではまだ、数人の書記官が机を片づけていた。

 フォレスト様は、自分の机の上の書類を三つの山に分けているところだった。


「フォレスト様」

 声を掛けると、彼は手を止めて顔を上げる。

「どうした?」

「……少し、よろしいでしょうか」

「ああ」


 彼は椅子の向きをこちらへ変えた。

 他の書記官たちは、私たちを一瞥したものの、あえて距離を取るように、それぞれ片づけに戻っていく。


「職員玄関に向かう途中で、二階の窓から外を見ました。門のところに、人が立っていて……ラフェド・エヴァンズ子爵様が、門の前にいらっしゃいました」


 そこで、フォレスト様の目が細くなった。


「……続けてくれ」


「実は、少し前に、エヴァンズ子爵家から私宛に手紙が届きました。封は開けず、父と兄に渡し、内容を確認しました。『一度会って話ができないだろうか』とだけ書かれていました。父が家から断りの返事を出すことになったので、それで終わりだと思っていました」

 外套を握る指先に力が入る。

「ですが……退庁しようとして二階の窓から門を見たら、エヴァンズ様が立っていました。……すみません。終わった話だと思って、お手紙のことをお伝えしませんでした」


 顔を上げるのが怖かった。

 叱られるとは思わない。

 けれど、余計な心配をかけたのではないか、と考えてしまう。


 一拍の沈黙のあと、低い声が落ちる。


「家に託したのは、いい判断だと思う」

 思っていたより、柔らかい声音だった。

「内容を一人で抱え込まず、家族に渡した。それで、いったん区切りがついたと思った。そこまでは分かる」


 私は、ほっと息を吐いた。


「はい」

「だが──」


 そこで彼は、一度言葉を切った。

 机に組んでいた指をほどき、私のほうをまっすぐ見る。


「次からは、こういうことがあったら最初に俺にも伝えてほしい。シーラは俺の婚約者になるんだから」


 彼の声に責める響きはなかった。


 だが、直後、口元がきつくなる。


「それに不愉快だしな」

「……申し訳ありません」

「違う。シーラに対してじゃない」

「ラフェド様に、ですか」

「当たり前だ。だから、俺が言ってくる」

「え?」


 戸惑っていると、彼は当然だと言いたげに片眉を上げた。


「恋人が待ち伏せされているのを知って、執務机に座ったままでいられる男がいると思うか?」

「それは……いないほうが嬉しいです」

「そうだろ?」

 そう言ってから、彼はふと表情を和らげた。


「ですが……逃げているようで嫌です。私が、自分で言います。……ただ、ついてきてくれると心強いです」

 自分でも驚くくらい、甘えた声が出た。


 フォレスト様は短く頷く。


「そうか。じゃあ行こう」

 ほんの少し歩き出してから、彼は振り返った。

「でも、本当に無理だと思ったら、隠れていていい」


「? どこにです?」

「……俺の背中に、だ」

「ふ、ふふふっ」

「……笑うな」

「だって……ふふ」


 あまりにも真顔で言うので、笑いが漏れた。

 私の好きな小説に出てくるヒーローの台詞と同じだ。


 彼は「こんなもの、俺が読むわけがない」と言っていたが、どうやら読んでくれているらしい。



 ◇



 法務局の正門へ向かう途中、フォレスト様は歩調を合わせてくれた。

 何度も並んで歩いたはずなのに、右手の指輪を意識すると、距離がいつもより近い気がする。


「キーナン家のほうは、予定どおりで問題ない。そちらのご家族に無理が出ないようなら、あとは式場と儀礼官の手配だな」

「父と兄も納得していました。母とお義姉様は、すでに衣装の相談を始めています」


 そんな他愛のない会話を続けているあいだに、正門が見えてきた。


 門の前に、見覚えのある人影が立っていた。

 淡い茶色の髪、きちんと整えた礼服。制服ではないが、いい仕立てであることは分かる。


 ラフェド様。


 ここへ来るはずのない人の姿を認識したところで、足が止まった。

 フォレスト様も同時に立ち止まり、視線だけで私に問いかけてくる。


「あいつだな?」

「はい」


 逃げたいという感情は出てこなかった。


「ここでいいです」

 私は小さく息を吸って、フォレスト様を見上げた。

「話だけ聞いて帰ります。フォレスト様は、後ろで見ていてもらえますか」


「……分かった」


 不満そうだったが、彼はそれ以上何も言わず、半歩だけ下がった。

 私は門の前まで進み、名を呼んだ。


「ラフェド様」


 振り向いた顔は、以前よりやつれていた。

 けれど、きちんと整えた身なりと、持ち物の質から見て、底まで落ちているわけではないことも分かる。


「……シーラ」


 目に、期待と焦りが同居していた。

 その視線がすぐ私の後ろへ流れ、フォレスト様をとらえる。眉がわずかに動き、また私へ戻った。


「シーラ、会いたかった。君に話が──」

 フォレスト様をちらりと一度だけ見てから、言い直す。

「シーラ、二人で話せないか?」


「ここでお願いします。できれば、手短に」

 私は首を横に振って答えた。


 フォレスト様へ、視線だけで『口を出さなくていい』と伝える。彼は腕を組んだまま、門柱のそばで黙っている。本当に不満そうだ。


 ラフェド様は、息を整えるように小さな間を置いた。


「……僕は、間違っていたと痛感している。愚かだった。シーラ、本当に愛しているのは君だと分かったんだ。もう一度やり直せないだろうか?」


 声だけ聞けば、真剣に響く。

 けれど、その言葉はひどく浅く聞こえた。


「すでに婚約解消は済んでおりますし、私は近いうちに婚約の儀を控えています」

「そうか、よかった!」

 何がよかったのか分からず、私は眉を寄せた。

「婚約は、まだってことだな?」

「? そうですが……」

「なら、まだ間に合う。正式に決まる前なら、僕たちはやり直せる!!」


「──世迷言を言うな」


 低い声が、間を断ち切った。

 フォレスト様が、門柱から離れて一歩前へ出ていた。


「……どなたですか? いきなり口を挟まないでいただきたい。これは私とシーラの問題で、部外者は引っ込んでいただきたい」


「部外者じゃない」

 フォレスト様は、冷えた目でラフェド様を見下ろした。

「シーラの恋人だ。二ヶ月もしないうちに婚約者になる。大体、みっともないと思わないのか? お粗末すぎる」


 フォレスト様の言葉には容赦がない。


「大方、払った慰謝料を取り戻したくてよりを戻そうと言ってるんだろう? 恥を知れ」

「ち、違う! 僕は、本当に、シーラのことが……! それに、シーラだって、本当は僕のことを──」


 ラフェド様は、縋るように私を見る。


「申し訳ありません」

 私は、言葉を切らさないように口を開いた。

「私はもう、あなた様のことを好きではありません」


 ラフェド様の目が大きく見開かれた。


「あなた様がどう反省していようと、私には関係がありません。婚約解消に伴う取り決めは、すべて終わっています。慰謝料も、きちんと受け取りました。これ以上、あなた様とやり取りすることはありません」

「シーラ──」

 言葉を重ねる前に、はっきりと遮った。

「私は、今、キーナン侯爵家の一員になる準備をしています」


 ラフェド様は、何か言おうとして口を開いたが、声にならなかった。


 門のそばを通る役人たちが、何事かとこちらを見る。あからさまな好奇心もあれば、見て見ぬふりもある。


「……お引き取りください。これ以上ここに立たれても、困ります」


 最後にそう告げて、私はフォレスト様のそばに寄った。


「馬車まで、ご一緒いただけますか」

「ああ、見えなくなるまで見送るから安心していい」


 フォレスト様は短く答え、私の手を取った。

 そのまま振り返らず歩き出す。

 背後でラフェド様が何か呼びかけた気配がしたが、聞き取ろうとはしなかった。


 門をくぐると、迎えの馬車が待っていた。

 フォレスト様はその傍らまで私を送り、私が乗り込むのを見届けてくれた。


 石畳に落ちる影が二つ並んでから離れるのを見て、私は小さく息を吐いた。


「……ごめんなさい。不快なものをお見せしました」

「全然。シーラがはっきり断ったから、すっきりした」


 背後の声を気にする必要は、もうない。

 私が振り返る理由もない。

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― 新着の感想 ―
>「そうか、よかった!」 >「婚約は、まだってことだな?」 >「なら、まだ間に合う。正式に決まる前なら、僕たちはやり直せる!!」 この非常識なセリフは言外に「だって僕の後ろには王女様がついていている…
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