12.幸せな時間、遠くなった過去
観劇の後も、私たちは何度か王都のあちこちへ出かけた。
植物園、図書館、レストラン、女性客ばかりのカフェ。
どの場所も楽しかったが、一番好きになったのは、王都で隔月に開かれる朝市だった。
初めて見る屋台飯や、異国の反物、細かな飾り物が所狭しと並び、人の声も足音も途切れない。
歩いているだけで、心が弾んだ。
二度目の朝市が近づいた頃には、次はいつ開かれるのですか、と私のほうから尋ねていた。
フォレスト様はそのとき、目を細めて、「そんなに気に入ったなら、連れていった甲斐があったな」と言った。
大げさでもなく、からかうでもなく、本当に嬉しそうだった。
その顔を見て、この先もまた一緒に来たいと思っている自分を、もう誤魔化せないことに気づいてしまった。
休日の予定が当たり前に埋まっていき、私は『この人と先へ進む』ことを、もう空想ではなく現実として考え始めていた。
手袋が要る時期を越える頃には、フォレスト様は正式に父へ申し入れをし、私もまた、その話を受け入れると決めていた。
両家の顔合わせが済み、婚約の話が家同士の取り決めとして動き始めた。
元婚約者が奥方と離縁した、と聞いたのは、その準備が具体的な日程へ落ち始め、窓を開ければ風がぬるくなった頃だった。
最初にその話を持ち込んできたのは、法務局の窓口書記官だ。
「最近は離縁届の書式も増えて忙しいですよ」とぼやいた後、「そういえば、エヴァンズ子爵家の件はご存じですか?」と続けたのだ。
耳慣れた家名だったので、ペン先が止まった。
「……いえ」
書記官は私の反応など気にも留めず、書類をめくりながら淡々と話を続けた。
「子爵様と夫人が、結婚して数年で別れることになったそうで。詳しい事情までは回ってきませんが、前のご婚約を崩したときの支払いも含めて出費がかさみ、エヴァンズ子爵家の帳簿はたいへんなことになっているとか。まあ、あんな美しい人と結婚できたんですから、トントンですね」
私がかつてその子爵家の令息と婚約していたことを、彼が知っているのかどうかは分からない。
書記官にとっては、数ある子爵家の一つについての話題でしかないのだろう。
◇
家でも、同じ噂がくだけた調子で語られた。
「化けの皮が剥がれ始めてるわね」
義姉のその一言で、私の手の中のカップがソーサーに当たり、かちゃんと音を立てた。
「『儚げで健気な悲劇の令嬢』なんて、一生続けられるわけがないのよ。あれは『そういう役を与えられた女』の顔だわ。最初からそう思ってたのよ」
義姉は、ラフェド様との婚約解消の後の私がどんな顔で日々をやり過ごしていたかも知っている。
だから、こうして辛口になるとき、矛先は私ではなく、私を振り回した側へ向かっているのだと分かっていた。
普段の義姉は、こんなふうに人の悪口ばかり言う人ではない。
「お義姉様……」
「だってそうでしょ? 最初は伯爵家の跡取りのクズ男──まあ、彼は子爵になっちゃったけど。その後、噂になったのは新興商会の若主人。その次は侯爵家次男様。で、今は、王宮騎士様。ほら、ね? 分かりやすいでしょ?」
「確かに……そう聞くと……。でも、あの方は美しいから……」
私の言葉に、義姉は肩をすくめた。
「そうね、今は美しいからこそもてはやされているわね。そのうえ王女殿下のお気に入りということになっている以上、誰も正面から悪くは言わない。『お気の毒だったのに健気な方よね』って。でも裏では、『儚い皮を被った肉食令嬢』なんて呼ばれているの。特に、人気の王宮騎士様の名前が出てきてからは。まあ、女性の間でだけどね。殿方たちは、ああいうのを儚い系だと受け取ってるもの」
私の知っているマリーナ様は、新聞の挿し絵の十五歳の少女と、子爵夫人として人前に立つ姿だけだ。そして、いつかの観劇で見かけた姿。
噂の中で別の顔を与えられていく彼女は、私の知っている相手とは、もうほとんど重ならなくなっている。
「……そう、ですか」
義姉の言葉に、それ以上の感想は返せなかった。
エヴァンズ子爵家の帳簿が苦しいことも、マリーナ様が今、誰の隣に立っているのかも、私には関係ない。
婚約解消に伴う慰謝料は、とうに一括で受け取っている。
私は温かいお茶を一口飲んだ。
昔だったら、胸が締めつけられて味も分からなかっただろう。
「あ……ごめんなさい。マリーナ様の話で、つい興奮してしまったわ。……シーラ、もう平気?」
さっきまでの辛口が引いた声で義姉が尋ねてきたので、私は頷いた。
「はい、今さら何か感じるわけでもありません」
「それならいいのだけれど」
私は、テーブルの上に置かれた自分の手を見つめた。
右手の薬指には、この春、婚約のしるしとして贈られた指輪をはめている。
両家の顔合わせは済んでいた。
婚約の儀は二ヶ月後、その一年半後に結婚する予定だと、双方の家で話がまとまっている。
もう少ししたら、私は法務局を辞める。
そう決まっているのに、机に積まれた紙の匂いや、いつもの書架の並びを思うと、気持ちが重くなった。
私が沈んだところから這い上がるためにしがみついた場所で、その後も、自分の足で立ち続けることを覚えた場所だったからだ。
それでも、王宮法務局の名誉書記見習いではなく、キーナン侯爵家の婚約者として、学ばなければならないことが山ほどある。
エヴァンズ子爵家がどうなろうと、マリーナ様が次にどの家の誰かと並ぼうと、私のこれからの生活とは別の場所の話だ。
だからこそ、届いた一通の手紙には、首を傾げた。
封蝋に押されていたのは、見覚えのある紋章──エヴァンズ子爵家の印章。
自分の名が宛名にあるが、封は切らなかった。
内容を知る前に、まず家としてどう扱うかを決めるべきだと、判断した。
私は封筒をそのまま手に取り、父と兄のいる書斎へ向かった。
ノックをして入ると、二人は帳簿を広げていた。
兄は仕事用の眼鏡を額に押し上げ、こちらを振り向く。
「シーラ。どうした?」
「お邪魔してすみません。……これが届きました」
私は封筒を差し出した。
父が受け取り、封蝋の紋章を見たところで、目元が険しくなる。
「……エヴァンズか」
兄も身を乗り出して封筒をのぞき込んだ。
「読ませてもらっていいか?」
「お願いします」
そう告げると、父は何も言わず封を切った。
中の文は短いので、すぐ読み終えたようだった。視線だけで兄へ紙を渡す。
「『一度、会って話ができないだろうか』か……」
兄が、鼻で小さく嗤った。
「はっ、随分と図々しいな。恥ってものを知らないのか、あのドクズ」
「ルーカス」
父がたしなめる声を出すが、強くはない。
兄は肩をすくめて、手紙を机に戻した。
「シーラ、お前はどうしたい?」
結局、聞かれるのはそこだが、答えはすぐ出た。悩むまでもない。
「会うつもりはありません。話すことも、もうありません」
口にした声は、自分でも驚くほど平たかった。
そこで初めて、私は迷っていないのだと分かった。
兄が、ほっとしたように目を細める。
「そう言うと思った」
父はしばらく私の顔を見ていたが、やがて深く息を吐いた。
「……分かった。では、こちらから断りの文を出そう。お前の名ではなく、シュトルム家から出しておく」
「はい。お願いします」
「奴から、お前へ直接の連絡が行くようなことがあれば、全部こちらへ回しなさい」
「分かりました」
私にはもう、失いたくないものがある。
法務局で積み上げてきた日々も、その先にある約束も。
「フォレスト殿には、話すのかね」
父の問いに、私は二拍ほど迷ってから首を横に振った。
「お父様がきっぱり断ってくださるのでしょう?」
「ああ、もちろん」
「それなら、ひとまずはいいです。これは私信ではなく、家同士の話として処理するべきことですし、婚約の準備で忙しい時期に、フォレスト様へ余計な心配を増やしたくありません。……言ったほうがいいでしょうか?」
「いいや? シーラがそう決めたのなら異論はないよ」
「ありがとうございます」
書斎を出るとき、兄が言った。
「今さらあいつに何を言われても、揺らぐ余地なんてないだろう?」
それは本当に、その通りだった。
「もちろんです」
私は即答した。
◇
そこからは、目が回りそうなほど忙しかった。
法務局では、いつも通り書類の山に向かい、家に戻れば、今度はキーナン侯爵家とのやり取りが待っていた。婚約の儀に招く相手の名簿、式の日程表、結婚後の住まいと領地通いの計画。
紙の上で決まっていたことが、一つずつ現実の支度に変わっていく。
私がいつ法務局を辞めるのかという話題も、先延ばしにはできなくなっている。
母と義姉は『侯爵夫人としての勉強一覧』と題した紙まで作り、作法や挨拶の型、領地に関する資料を机の上に積み上げた。
朝は判決文を書き写し、夕方には自分の将来の予定表に目を通す。
右手の指輪を見るたび、もうエヴァンズ子爵家の噂に割く余白はないのだと、言い聞かせるまでもなく分かった。
「名誉書記見習いから、名誉侯爵夫人へ、ね!」
そんな言い方をしたのは義姉だった。
「お義姉様ったら」
「ふふ、語呂がいいでしょ?」
そう言いながら、義姉は、婚約の席にふさわしい色を選ぶために新しいドレスの布見本をめくっていく。
結婚式は白、婚約式は色のあるドレスを着るのが昨今の流行りだ。
「シーラは、青系が似合うのよね。……あっ、これなんかどう?」
義姉の指さす布を見て、頷く。
「いいと思います……フォレスト様が、使っているインク瓶の色と似ています」
「やあねえ。そんなところまで見ているの? ごちそう様」
からかわれて、肩をすくめる。
けれど、嫌な気持ちにはならなかった。
今の私は未来の話ばかりしている。
エヴァンズ子爵家からの手紙については、しばらく何も聞かなかった。
──このときの私は、家から断りを入れれば、そこで本当に話は終わるのだと受け取っていた。
まさか元婚約者が、法務局の門前にまで姿を現すとは思っていなかった。




