11.劇場、灯りの下で
王都大劇場の前は、人と馬車でいっぱいだった。
白い石造りの建物の上には演目の名が掲げられ、入口へ向かう人の列が続いている。
約束の刻より早く着いたつもりだったが、すでに見覚えのある姿が立っていた。
深い青と黒を基調にした礼服。肩から片側だけ長いコートが流れ、銀色の飾り鎖が光を拾っている。胸元には濃い青の石のブローチ。
仕事場で見る灰色の上着とは、印象がまったく違った。
いつもは後ろへ撫でつけている淡い金髪が、この日は横へ流しただけで、柔らかな前髪が額にかかっている。そのせいか、表情まで穏やかに見えた。
深呼吸を一つして、歩み寄る。
「お待たせしました」
声を掛けると、フォレスト様はすぐこちらへ向き直った。
「いや、待ってない」
相変わらず短い返事なのに、仕事場より声が少し軽い気がする。
視線が、上から下まで私をなぞった。
濃い青のドレスに、銀糸の刺繍が入ったショール。細い飾り帯。
これは義姉が選んでくれた一式だ。朝、いつもの外出着を出していたら、扉を開けて入ってきて、似合いそうなドレスや小物を次々と広げていった。
『んもう! デートに行くのだから、このくらいは着飾らないと!』
そう言って髪までまとめてくれた。大げさだと思いかけたが、今は感謝しかない。
並んでみると、彼の礼服とよく合っている……と、思いたい。
しかし、彼の視線が痛くて、なんというか、間違っている気がしてきた。
「……な、何か変でしょうか」
問いかけると、フォレスト様は少し考えるように目を細め、それからきっぱり言った。
「いや、可愛いなと思って。すまん、不躾に見すぎた」
「えっ」
声が裏返る。
「な、何を急に」
「目の前にある事実を言っただけだ」
さらりと言われて、言葉が詰まった。
「な、なんだか、口調が……違いますね」
ようやく出てきた文句に、フォレスト様は小さく肩を動かした。
そして、あれ? 前にもこんなことを言ったな、と思った。
「仕事と私生活は違うだろ。ここまで来て、法務局と同じ話し方をする気はない」
そこで一度言葉を切り、まっすぐに私を見る。
「それに、本当に可愛いと思っている。俺は嘘はつかない」
心臓が強く打った。
視線を正面の扉へ逃がす。
私はこんなときなのに、これが小説にあった『甘い声』なのか、とその描写の意味を初めて実感していた。
「……そ、そろそろ中に入りませんか」
自分には起こらないと思っていることに直面し、つい早口になってしまう。
「そうだな。行こう」
差し出された腕に手を置く。
仕事中に書類を受け取るときとは違う感覚に、指先が強張った。
案内された席は舞台全体がよく見える高さで、天井の飾りも近い。あちこちで客同士の会話が続いているうち、灯りが落ち、楽の音が流れ始めた。
戦場から戻った将軍が舞台に現れ、女官と出会い、国を立て直していく。
何度も読んだ小説の場面が、役者たちの声と動きになって目の前に立ち上がる。
構成は原作と少し違う箇所もあるけれど、人物の芯は変わっていない。
将軍が過去の罪を告白する場面では、客席のあちこちから鼻をすする音が聞こえた。
最後の場面で二人が並び立つと、幕が降り切る前から拍手が起こる。
明かりが戻り、私は手を合わせたまま大きく息を吐いた。
「感想は?」
隣から落ちてきた低い声に、鼓動を意識させられる。
「もう、本当に、素晴らしかったです」
自然に声が出ていた。
「原作と違うところもありましたが、とても納得できました。将軍が女官に本音を明かす場面、原作だと手紙だけなのです。舞台だと直接会って話していて、ああいう形もあるのだと分かって、脚本家の方が原作者様の人物像をよく理解しているのが伝わりました」
そこまで言ってから、私は口を閉じた。
「……す、すみません。つい熱くなってしまいました……」
顔が熱い。恥ずかしい。
横を見ると、フォレスト様は呆れ顔ではなかった。口元がわずかに緩んでいる。
「いい感想だと思う」
「……」
「誘ってよかった、と思える感想だ。もっと聞きたい」
どんな顔をしているのか考えたくなくて、私は視線を幕へ戻した。
布の向こうでは、役者たちが挨拶の準備をしているのだろう。周囲では、余韻を語り合う声が重なっている。
いつもの法務局では味わえない高揚が、まだ体の中に残っていた。
◇
劇場の外へ出る前に、いったん広いロビーに人が集められた。
柱の間には劇の挿し絵が飾られ、絨毯の上を色とりどりの衣装が行き交う。
「出口はあちらだ」
フォレスト様が人の流れを見ながら、小さく顎で示した。
その方向へ歩き出そうとして、私は足を止めた。
視界の先に、見覚えのある銀の髪があった。
薄い水色のドレスに、白い羽根飾り。
笑ったときに頬にできる影も、新聞の挿し絵で見慣れた線と同じだ。
マリーナ・エヴァンズ様。
その隣には、見覚えのない若い男性が立っていた。
濃い葡萄色の礼服に、金糸をふんだんに使った刺繍。胸元には、小さな盾の形をした紋章が下がっている。あの形は、この国でいくつかの侯爵家が使う意匠だ。法務局の書類で見た覚えがある。
「……シーラ?」
立ち止まった私を見て、フォレスト様が小さく名を呼んだ。
返事をする前に、別の声が耳に入ってきた。
「ねえ、ご覧になって」
「まあ、今日は侯爵家の次男様とご一緒なのね」
二人組のご婦人が、扇で口もとを隠しながら囁き合っていた。
聞くつもりはなくても、すぐそばなので言葉がそのまま耳に入ってしまう。
「この前までは、新興商会の若主人とよく並んでいたのに。お盛んだこと」
「しっ、そんなこと言っていると『僻んでいる』って言われますよ。相手は王女殿下のお気に入りなのだから、発言には気を付けたほうがいいわ」
「分かってます。でも、寄付先もお相手も次から次へと変わるのねと、つい気になってしまいますの」
扇の陰で、小さな笑い声がこぼれた。
別の方向からは、違う調子の声も聞こえる。
「エヴァンズ子爵夫人、やっぱりお綺麗ね」
「本当にねえ、使っているお化粧品が知りたいわ」
刺すような言葉と、褒める言葉が同じ場所を流れていた。
マリーナ様本人は、その視線の中心にいて、横に立つ侯爵家の青年と落ち着いた顔で言葉を交わしていた。
昔、橋の新聞に載っていた挿し絵を思い出す。
あのときは紙の上で涙で瞳を潤ませていた少女が、今は人に囲まれ、別の物語の真ん中にいる。
「大丈夫か?」
耳元に、フォレスト様の低い声が落ちた。
肩に力が入っていたことに気づき、息を吸い直す。
「……大丈夫です。行きましょう、出口が混まないうちに」
そう言って歩き出すと、マリーナ様の横顔が視界の端に入った。
向こうもこちらに気づいたのか、瞳が一度だけこちらをとらえる。
私は会釈だけした。彼女も同じように、首を傾ける。
それで終わりだった。
すれ違うとき、自分のことを誰かがひそひそと話す気配がしたが、耳を向けなかった。
マリーナ様は、今も多くの視線の中にいる。
私の隣には、フォレスト様がいる。
扉の向こうへ出る足取りは、思っていたほど重くなかった。
人波に押されて半歩ずれたとき、横目で見えた。マリーナ様の視線がフォレスト様に向いていて、そこで一度、止まった。
背筋がひやりとするも、見なかったことにして扉だけを見た。




