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10.次の休日を指折り数えて

 告げられた言葉は、さすがに忘れない。


 だからといって、毎日頬を赤くして机に向かっているわけでもない。


 私はいつも通り、朝は出仕し、書類を受け取り、字を揃え、昼になれば食堂でトレーを持つ。

 席も以前と同じ、壁際の長机の端。向かいにはフォレスト様。

 違うのは、元婚約者の噂が出ても、あの日の会話が頭の片隅でちらつくくらいだ。


『シーラと付き合いたい』


 食堂での告白に、私は「断るつもりは今のところない」と答えた。

 嘘ではない。嬉しかったのも、本当だ。けれど、すぐに受け入れるとは言えなかった──受け入れてしまったら、期待してしまう。


 逃げたつもりではないけれど、逃げているのかもしれない。

 考える時間が欲しい、と自分で自分に言い訳しているくせに、もう答えは出ている気もする。


『好きだ。結婚したいくらいには』


 ぐるぐるぐるぐる、考えが行ったり来たり、また巡る。


 ……でも、だって、と考えてしまう。


 受け入れて、その先を期待してしまった後で、また選ばれなかったらと思うと怖い。


 どうしても、自分なんかが幸せになれるわけがない、と決めつけている自分がいる。



 その夜、寝台に入っても目が冴えたままだった。

 仕事帰りの袖に残ったインクの匂いが、まだ鼻に残っている気がした。


 考えるな、と言い聞かせても、頭の中では同じ言葉が何度も行ったり来たり。


 ──私は一度、婚約を解消されている。


 泣いて縋っても、ラフェド様は、マリーナ様を選んだ。

 美しい物語のヒロインを選んだ。私ではない。


 だから、自分が選ばれる側に立つところを、うまく思い描けない。



 ◇



 数日が過ぎた。

 その日の仕事は、だいたい片づいていた。


 夕刻の鐘が鳴る前。

 判決文の清書を重ね、端を揃えて紐で縛る。あとは書架に戻せば終わりだ。


「シーラ」


 名前を呼ばれて顔を上げると、向かいの机からフォレスト様が立ち上がった。


「はい」

「少し、時間をもらっていいか」


 頷くと、彼は机の引き出しから細長い封筒を取り出した。

 王都セフィラの紋章と、王都大劇場の名が印刷されている。


「劇場の券だ。王宮経由で回ってきた枠のものだ」


 表に書かれた演目の名を見て、手が止まった。


「……これ」

 言葉が勝手に漏れる。


 戦から戻った将軍と女官の恋物語。

 原作小説は何度も読み返した。舞台化されると聞いたときも飛びつきたかったが、すぐ席が埋まり、諦めた演目だ。


「前に言っていただろう」


 フォレスト様が、少しだけ目を細めた。


「『券はとても取れないから、小説を読みながら自分の頭の中で舞台にする』と」


 言った覚えがある。

 先々週の昼休み、食堂で。


「それで、王宮宛てに来ていた優待の中から、この公演の席を二つ押さえた」

「二つ」

「……都合が悪くなければ、今度の休日、一緒に行かないか」


 そう言って、フォレスト様は封筒を私の前へ置いた。

 目の前にあるのは、ずっと欲しかったものだ。

 観たいと望んでも手が届かなかった席だ。


 ──数日前に結婚の話まで口にした相手が、それを何でもない顔で私の前へ置いている。


 少しくらい考えてから返事をするべきなのかもしれない。

 そう思う前に、口が動いていた。


「行きます」


 自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。

 早すぎたと気づいて、慌てて言い足す。


「い、いえ、あの……その劇、原作も持っていますし、一度でいいから舞台を見たいと思っていました。あの、お誘いいただき、嬉しいです」


 言えば言うほど、欲に負けたみたいで恥ずかしい。

 首まで赤くなっているだろうな、と自分でも分かる。


「よかった。休日の昼の部で、席は前のほうだ」


 フォレスト様は、わずかに息を抜いたように見えた。


「でも、そんな良い席、私が座ってもいいのですか?」

「王宮の名で押さえられていた席だ。空けておくほうが問題だろう」


「……あ、それもそうですね、はい」

 正論なので、反論できない。


「当日、劇場前で落ち合おう。聖堂院の鐘が三つ鳴る少し前でどうだ?」

「分かりました。遅れないように行きます」


 そう答えると、封筒が正式に私の手の中に収まった。


 紙の重み自体は、大したものではない。

 それなのに、引き出しへしまうまでのあいだ、指先の感覚だけが落ち着かなかった。封筒の角をつまんだところばかり、いつまでも熱を持っている気がした。

 机の上には、書架へ戻す前の束がまだ残っている。

 廊下からは、他部署の人々が帰り支度をする気配も伝わってくる。

 誰かが「明日は租税局へ回すぞ」と言いながら通り過ぎ、別の誰かが鍵束を鳴らして笑った。

 いつも通りの音なのに、今日は少し遠くで鳴っているように思えた。


 心だけが先へ動き出しそうで、落ち着かない。

 書架へ戻すはずの束を抱え直し、紐の結び目を指で確かめた。普段なら、こういう手順が気持ちを戻してくれる。

 けれど今日は、紙の匂いの向こうに、受け取った封筒の角の感触がいつまでも残っていた。



 劇場へ行く約束をしただけだ。

 休日に観劇へ行く。

 それだけのはずなのに……。


 私は、次の休日までの日付を久しぶりに数えることになった。

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