01.橋が落ち、幕が上がる
婚約者に捨てられた。
あの人は、私ではない女を選んだ。
彼のことが、憎くてたまらない。
それなのに、彼を思い浮かべると息が詰まりそうになる。
憎い相手に縋りたい自分が一番見苦しい。
忘れたいのに、浮かぶのは幸せだった日々のことばかり。
声も、笑い方も、私に向けていた目も、腐りもせずこびりついている。
思い出すたび、腹の中に刃を突き立てられ、抉られ、ぐちゃぐちゃに掻き回される。
裂けたところから、何度でも澱のような感情が溢れ出す。
彼の心を奪った彼女への憎しみも、彼を欲しがる自分への嫌悪も、まとめて焼き切ってしまえればいいのにと本気で思う。
始まりは、あの日、アシル川の石橋が落ちたことだった。
あの橋が落ちなければ、私も、彼も、あの男爵令嬢も、きっと別の場所に立っていたはずなのに──
◇◇◇
アシル川にかかる石橋が崩れたのは、豊穣祭の帰り道だった。
王都の大通りから北門を抜け、橋を渡って、それぞれの領地へ帰る途中のことだった。
行列の中には、うちの伯爵家の馬車も、婚約者であるラフェド・エヴァンズ様の馬車も、ワイデル男爵家の馬車もあった。
私は自分の家の紋章が入った馬車の中で、少し熱くなった頬を扇であおいでいた。
ラフェド様は先頭近くで馬に乗り、その少し後ろに男爵家の馬車が続いていると侍女が言っていたけど、そのときの私は、誰がどこにいるかまで気にしていなかった。
橋にさしかかったとき、鈍い音がした。何かが砕けたような音だった。
その直後に、人の叫び声がした。
馬車が揺れたと気づいたときには、視界がぐるりと裏返り、私は座席から投げ出されていた。
馬車は橋の欄干をこすり、そのまま傾いた。
車輪の軋む音、馬のいななき、割れる木の音。
外から誰かの名前を呼ぶ声がして、私は必死に掴まる場所を探した。
幸い、うちの馬車は川に落ちなかった。
けれど前を見ると、欄干の向こうが途切れていた。
誰かが「落ちた!」と叫び、すぐに水しぶきが上がった。
先頭にいた馬車が数台、そこから消えたのだと、その叫びと目に入った光景で分かった。
恐怖で体が動かなかった。
何が起きたのか、その場では分からなかった。
扉が開かれ、御者に腕を引かれるまま馬車の外に出た。
そこで見えたのは、石橋の半分が初めからなかったかのように消えた姿だった。
川面には、壊れた馬車の残骸と、人影が浮かんでは沈んだ。
マリーナ・ワイデル様は、その事故で家族を失った。
父も母も幼い弟たちも、皆、橋ごと川に呑まれ、助かったのは彼女一人だけだった。
濡れたドレスのまま岸に引き上げられたとき、自分の名を問われても、震える唇からは声が出なかったそうだ。
泣くこともできないほど打ちのめされ、どこの誰かすら名乗れなかったのだと人は言う。
私はその場で気を失っていたから、目が覚めたときには、もう自邸の寝台の上だった。怪我はほとんどなかった。
けれど、助かったのだと安心するより先に、橋が落ちる光景ばかりが何度も頭の中で繰り返された。
しばらくは、夜になると眠れなかった。
数日もしないうちに、王都はマリーナ様の話で埋まった。
侍女が持ってきた新聞の紙面に、太い見出しが踊っていた。
最初は橋の崩落そのものが騒がれていたはずなのに、日が経つにつれて、人の口にのぼる話は一つに絞られていった。
神の試練だと言う者もいれば、工事の責任だと騒ぐ者もいる。
それでも、読み上げられるのはいつも同じ言葉だった。
『美しすぎる悲劇の男爵令嬢』
そう呼ばれるようになった彼女は、私より二つ年下で、デビュタント前の十五歳だった。
社交界への顔見せも済んでいない少女の顔が新聞に載ったとき、その新聞は完売したと聞く。
挿し絵に描かれたのは、まだ大人になりきらない細い首筋と華奢な肩。
濡れた銀髪は陽に当たればきっと光を返すのだろうと思わせ、瞳はインク越しでも濡れて見えた。
痩せた頬を震わせ、泣き出さないように唇を噛んでいる横顔は、守りたくなる儚さがあった。
顔立ちの美しさも、年の若さも、失ったものの大きさも、身柄を引き取る近親者が現れず、事故の後は神殿に身を寄せているのだと語られていたことも、全てが『悲劇のヒロイン』という言葉にぴたりとはまっていた。
孤児院に金を出したという話より、負傷兵の名簿より、濡れた銀髪の少女が震えていたという話のほうが、ずっと早く広がった。
新聞はそこばかり描いた。神殿も口を揃えた。慰霊の席で王女様が彼女に声をかけたと聞いた。
皆、彼女に夢中だった。
葬儀や後始末が一通り済むまでは、誰もが悲劇として口にしていたのに、いつの間にか彼女一人の名に集まっていた。
慈善の茶会や慰労の集まりでも、彼女の名が繰り返し呼ばれるようになっていた。
デビュタント前だったから、正式な顔見せではなく、王女様の計らいでそうした慈善の席に同席しているだけだと聞いたが……異様な速さだった。
マリーナ様は何度も招かれ、そのたびに人々は涙ぐみ、懐から金貨や銀貨を差し出した。
彼女は椅子に座って、膝の上で指を重ねているだけだったらしい。
誰かに縋るでもなく、取り乱すでもなく、俯いて、呼ばれれば小さく頷く。
それだけで、「なんて健気なのでしょう」と皆が勝手に息をついた。
そうして彼女が『悲劇のヒロイン』として語られていく裏で、私の世界は崩れ始めていた。
橋の崩落で、ラフェド様の家も打撃を受けた。
落ちた馬車の一つに、彼の両親である伯爵夫妻が乗っていたからだ。
事故の後、ラフェド様は若くして爵位を継ぐことになった。
突然当主となった彼の家は、領地の管理も、王都で抱えていた約束事も、一度に引き受けることになった。
家中の足並みも、外との取引も、そのままでは済まなかった。
父もまた、王家から被害貴族の取りまとめを命じられた。
事故の後始末に追われ、王都と領地を何度も行き来していた。
そのため、エヴァンズ家もシュトルム家も、外に向けて体面を保つ必要があった。
私はいつも通り舞踏会やお茶会に顔を出した。
それがうちの家と、ラフェド様の家のためになると信じていたからだ。
けれど、噂というものは、そういう事情にはあまり興味がない。
「伯爵令嬢は、事故のあと間もないお茶会でも笑っていたそうよ」
「婚約者の家があんな目にあっているのに、社交を楽しんでいるんですって」
「男爵家のことなんて、最初から眼中になかったのでしょうね」
最初は、耳に入っても単なる影口だと思っていた。
けれど、王女様が気にかける『可哀想な男爵令嬢』の話になるたびに、なぜか私の名まで口にされるようになった。
意味が分からなかった。
私が何をしたというのだろう。
けれど、振り向いても、誰が言ったのか分からない。顔を上げれば話し声だけが止む。
聞こえよがしに影口を言われるたびに、来るべきではなかったと思った。
笑わなければ「愛想がない人ね」。微笑めば「場の空気が分かっていないわ」。何をしても「ほらね」と言われてしまう空気が、王都に広がり始めていた。
その一方で、男爵令嬢の話はどんどん美しく飾られていく。
「身寄りがないのに、嘆いたりしないそうよ」
「神に感謝しているのですってね。『生かされた命だから』って」
「なんと可憐なのだろうか……!」
同じ事故の被害者の中には、彼女よりもっと悲惨な目にあった者だっていたのに。
そう思うたび、自分の考えの冷たさまで責められている気がした。
けれど本当は、冷たいと責められることより、彼の目に『可哀想な娘』として映る彼女が恐ろしかった。




