5話
鞄の取っ手を握っていた手に力が篭もる。
住宅の屋根の上にいたのは黒いワイシャツ姿の男性だった。
昨夜とは違う服装をしているが、その輪郭だけでも昨夜の自称“運命の番”の彼だと分かる。
「しつこいぞ!」
麗央が声を上げて非難すると彼はゆっくり歩き出し、屋根から地面へと飛び下りた。まさか2階から落ちて来るとは思わなくてぎょっと目を開く。
けれど彼は綺麗に着地すると麗央の方を見て笑った。一歩踏み出すとふわりと周囲に金色の粒子が舞った。朝陽を浴びると白く瞬いて夜とは違った光景が目の前に映り込む。
「運命の番相手にそれは酷くない?」
「だから何度言わせるんだよ!」
相変わらずの主張に嫌気が差す。幼い頃にあんな出会い方をして置いて、どうして結ばれるなどと思えるのだろう。
──麗央が始めて彼と出会ったのは、小学ニ年生くらいの秋の頃だったはずだ。
当時の麗央は少しばかりやんちゃで、人間の身体と猫又の身体と思うままに変化が出来るようになったことに楽しくなっていた。
放課後は良く、お家へ一度帰ると猫の姿になって周辺を散歩していたのだ。
そんなある日、とある家に生えていた大きな桜の木を見つけた。隣りには小高のハナミズキが寄り添うに植えてあり、陽をたくさん浴びているハナミズキの木が温かいそうで興味を引かれた。
麗央は塀から飛び乗ると枝の上で伸びをして丸くなり、しばし寛いでいた。それから日が落ち始めた頃に目を覚ますと寝惚けていた麗央は片足を踏み外してしまった。咄嗟に身を捩って綺麗に着地したは良いが、降り立った場所が悪かった。
足元には呪符が設置されていたようで麗央の気配に発動してしまったのだ。
足下から蜘蛛の巣の様なものが淡く青い光を帯びて浮き上がり麗央を捕らえて頭上にあった枝にぶら下がる。
初めてのトラップに麗央は慌てた。罠を仕掛けた奴に食べられるのではと、もう両親の所に帰れないのではと不安と恐怖がない混ぜになって心を襲って来て、必死に呪縛から逃れようとジタバタと手足を動かした。
そんな麗央のもとにやって来たのが、二つ三つ年上の彼だった。
高学年とは云え、小学生で茶髪だったことと、瞳が緑色だったことがとても印象的で、捕まった事への衝撃と一緒に彼の容姿は深く脳裏に焼き付いた。
しかも、金色の粒子が術の発動で舞った砂埃から煌めいて浮かび上がって、一本の糸状になったかと思うと麗央の胴体と少年の手首に緩く巻き付いた。
そんな幻想に幼い彼は縄網の中で足掻いている麗央を見上げて心底嬉しそうに微笑み、好奇の視線を向けて歓喜の声を上げた。
──僕の運命の番──と。
彼が呪符の効力を解くと落ちた麗央を抱きしめる。けれどまだ幼い小さな腕は、暴れた麗央を受け止める技量はなく、疾走する猫を捕まえることも出来ずに取り逃がしてまったのだ。
悲しそうな彼の表情に気づいていたものの、麗央は殺されたくない一心で塀へ跳び乗り帰路を駆け出した。
それが、彼との出会いだった──。
あの日、彼が麗央をどうするつもりだったのか知らないが、幼い麗央には恐怖体験でしかなくて、今でもあの日の恐ろしさが身に染みて、トラウマになってしまった。
狼狽した麗央は家に帰るなり両親に力一杯抱き着いて、あったことを泣きじゃくりながら叫んでいたものだ。
後から、第二の性に〈陰陽性〉と言う性別があるのだと知って、苦手意識を持つようになっていた。
紆余曲折あって一度は存在を受け入れたこともあったが、結局、苦手意識に拍車がかかるようになって、もう二度と関わり合いにならないと誓っていた。
ゆっくり近づいて来る彼が五歩先まで来ると、昨日はハッキリ見ていなかった顔立ちをゆっくり見ることが出来た。
幼い頃はやんちゃな雰囲気の男の子と言う認識だったが、大人になった彼を良く見ると、顔はかなり整っていて世間で言うイケメンの部類に入るのではないだろうか。
染み一つない真っ白な肌に、スッと通った鼻筋と切れ長の目から覗く翡翠の瞳は宝石のように綺麗で、思わず魅了されそうになってしまう。
例え昨日みたいにどんなにみっともない格好をしていても、元々の美しさは損なうことはなく、ボサボサ頭のまま上半分を後ろでまとめた茶髪からはだらしない印象とは違って、たおやかな柔らかい印象を受けた。
しかも、スラリとした細身の体型は一見脆弱そうなのに、半分開かれた黒いワイシャツからは筋肉質の逞しい肉体が覗いていて、蠱惑的な妖艶さがあった。
誘われるのは女性もそうだが、男から見ても何処か惹かれるくらい存在感がある。
とは言っても、麗央にとっては罠に嵌めて来た狂人としてのイメージがあり、掻き消されることなくそのだらしなさにげんなりとした。
お陰でパーソナルスペースに踏み込んで来る彼を危険視し、睨みつけながら唸り声を上げる。
「それ以上近づくな!」
警戒心を顕にした麗央の声音は、静かにけれど怒りの感情も含まれいた。なのに歩みを止めることなく、彼は肩を軽くくすめるだけで、一歩ずつ距離を詰めて来る。
「そんなに警戒しないでよ。麗央くん」
「ッ──!!」
名前を呼ばれた麗央は一瞬驚いたが、知っていても不思議ではないかと直ぐに気付く。
麗央は中学生の頃に一人の陰陽性と、それも、名家の人と関わったことがある。
その相手との間で起きた事件は大きく、当時の事件の後始末を名家一族全体で処理していたのだ。
麗央の名前は名家の人たちには周知であり、きっと今でも麗央のことを探しているだろう。
その点から考えれば、殆どの陰陽性が麗央の名を一度は耳にしても可笑しくはない。
かなり悲惨な事件故に、麗央自身も重く受け止めているので陰陽性が恨んでいてもしょうがないと思っているし、近づいて来るのを警戒している。
けれもど、相手は麗央の名前は知っておいて、自分は名乗らないと言うのは面白くない。
一方的に、しかも関わりたくなった相手が自分の情報を知っていることは不快に感じていた。
──だから、
「……で? お前の名前は?」
と彼に聞いたのだが、その質問を彼はどう受け止めたのか、パッと呆れた様子から嬉しそうにしていた。
「やっと俺に興味を示してくれた!?」
「は……?」
反射的に言い返したものの、彼はとても機嫌を良くしていて穏やかな表情で自己紹介をする。
「名前は芹沢柊星だよ。陰陽性専門の五稜大学に通っててね、それなりに良い成績を──」
「……そこまで聞いてない!!」
長々と語りだしそうな雰囲気に麗央は思わずつっこんでしまった。
遠慮のない会話が出来てることに柊星は喜んでいて、歩み寄って来る歩幅がさっきよりも大きくなっている。
思わず足早に二歩三歩と後退する麗央。
腕を伸ばしても届かないだろう微妙な一定の距離を保ちながらどんどん後退していると、柊星ばかりを気にしていた麗央は足下の違和感に反応するのが遅れしまった。
何かを踏んで下を見た瞬間には、幾つもの塵紙が麗央を囲って舞い上がり、視界を白く染める。
すると、身体が拘束されたような窮屈を感じて、腕ごと身体を縛られたことに気付いた。
「ッ──!?」
何千何万の紙が空へと上がりきると、巻き付いている物を見た。それは繋がっている人形の切り紙だったらしい。ぎゅっと巻き付かれると息苦しさを感じる。
「──はい、捕獲完了っと」
「おいっ! 離せっ!!」
「ほんと、手間がかかる子に成長したよねぇ」
解こうと藻掻く麗央へと近寄る柊星の気配に、尚も後退するともう一本の切り紙が足元を救うように巻きついて来て一つに縛りあげられた。
思わず態勢を崩して麗央が背後から倒れそうになると、スッと側に来た柊星が身体を支えて背中と膝裏に手を回すと軽々と抱き上げる。
警戒している相手が身体に触れていることと、お姫様抱っこで持ち上げられている状態に麗央は畏怖と羞恥心でドキッとして動転した。
「なッ……!? は、離せよッ!! 下ろしやがれッ!!」
「暴れないでよ。落とさないから安心して」
「はぁ!? そんなこと心配してねぇ!」
的はずれな囁きに言い返すと、今度は都合良く解釈された柊星の思考に麗央は言葉を失った。
「……信用してくれてるの? 嬉しいなぁ」
「はぁあああ!?」
麗央は一つの衝撃に頭を悩まされていた。
こんなに話しが噛み合わないことは今まで一度もなかったと、過去に出会って来た面倒くさい人たちを振り返りながら思う。
麗央も顔立ちは良い方で女性絡みや八つ当たりとも言える理由で喧嘩を売られて来たことはたくさんあるが、ちっぽけなことでも理由と目的はハッキリとしていた。
それなのに柊星と言う人物は自己都合に合わせて解釈しているみたいで全く話しが噛み合わない。
何を言っても無駄そうに思えて挫けそうになる。
それでもやすやすと何処か知らない場所へ連れて行かれる怖さの方が勝って麗央は必死に抵抗をした。
麗央を抱え直すと柊星何処かへと向かう。
「何処に連れて行くつもりだよ!?」
「うーん。着いてからのお楽しみってのはダメ?」
「ふざけるなよ!? この誘拐犯! いい加減、解け!!」
必死になって腕に力を入れても連なっている人形の切り紙は切れることはなく、妖力で身体強化をしてもびくともしなかった。しかも、厄介なことに変化が出来ないのだ。
猫の姿になろうと妖力を使おうとしても何か別の力が邪魔をして、全身に力が行き渡らずに“発現”が出来ない。
「誘拐なんて言葉使わないでよ。既に一族にも学校にも連絡はしてあるんだから」
「…………へ?」
聞き捨てならない言葉にぴたりとまた動きを止める。
(こいつ、何て言った……?)
一族と学校に連絡をしてあると確かに言ったのだろう。
一族がどう言う一家かは知らないが、既に学校に連絡していると云うことは、麗央の情報を多く知っていて、男の中では既に麗央の所存をどうするか決めていると言うことだ。
そうなると、今日のことは計画の範疇内だとも言える。
(こいつ、どこまで知っているんだ……!?)
家からそう離れてないこの場所で登校道に結界を張っていたのは、既に行動範囲を知っていたことになる。
そこまで気が付くと、柊星の情報量にゾッとして背中に悪寒が走った。
「バイトの方はまだだけど……。後でちゃんと連絡するから心配しないで」
血の気が引いた。まるで麗央の全てを日夜観察されていたような言葉に身体を震える。
気づかない内に一日を見守られたのはこの上ないショックだ。しかも、そんな変態に俺は今捕まっているのだと思うと平常心なんて保てそうにない。
「──す」
「す?」
「ストーカーめ! 俺をどうするつもりだよ!?」
思ったことを大声で吐き出して行く。じゃないと不安で押し潰されそうだった。
「どれだけ俺のことを監視してた!? 何処に連れて行くつもりだよ!?」
ヒステリック気味に罵声と質問の嵐を浴びせると柊星は冷静に答えを考えているようだった。
しばらく呻ったあと人畜無害そうに笑い、一つにまとめた解答を口にする。
「質問にはあとでゆっくりと応えるよ」
結局、どうするつもりか分からない答えに最悪な状況しか浮かばない麗央は顔色を青くした。
柊星の車が停まっている駐車場に来たようで、一台の黒塗りの車に近づくと後部席のドアを開けた。
「い、嫌だ……。お、下ろせ!! ふざけるなよ、誘拐犯……!!」
雄叫びを上げる麗央を柊星は生返事で聞き流し車内へと詰め込んだ。そして、扉はバタンッと閉められた。