1話
この世界には、男女と云う性別の他に、極まれであるが妖性、陰陽性と言う特別な性を持って生まれる人がいる──。
妖性は、先祖に妖怪と交わった一族の中から、血族の妖の姿で生まれ、幼少期の人間化に伴い能力を持ち合わせ、妖力を使って発現させることが出来た。
陰陽性は、胸元に五芒星の痣を持って生まれ、見鬼の才と霊力を持ち合わせ、呪術を使うことが出来る。
◇◇◇
月が見当たらない夜。
電灯の壊れた部屋の暗闇で、猫塚麗央は片隅に座り込む男性を見つめながら呆然としていた。
壁に背中を預けた胸からは切り裂いたような傷があり、溢れ出る鮮血で全身と、床に血溜まりを作っていた。
傷痕は上半身の大きな切傷だけではない。額からも溢れ、腕や脚にも小さな傷が沢山つくられている。そのせいで、纏っている衣は鮮血で赤く滲んでいた。
男性の意識はまだ辛うじてあるのか、僅かに指先が動き、口元は浅く呼吸を繰り返して、息をしてしているのが分かる。
けれど、唇が動いても開かれた口からは荒い息遣いだけしか聴こえず、言葉が出てくることはなかった。
目の前に座り込んでいる男性の様子を見ていた麗央の顔色が、だんだんと悲愴な顔つきに変わっていく。
黒く澱んでいた瞳の虹彩が瞬き一つで夜月のような金色に変わると、月は水面のように歪んだ。
麗央の目尻に溜まっていた涙が一筋の水滴となって溢れ落ち、頬を濡らしていく。
──なんでこうなった?
麗央の指先まで覆う動物のような黒く短い毛。背後の尾骨からは長い二股の尾が伸び、鋭利な爪は赤く染まっていた。
──オレじゃない……。俺がやったんじゃない。
──どうして、大事な人を殺めることが出来るだろう。
麗央は覚えている限りの記憶を振り返って、現状に至る前に起きた出来事を否定し続けていた。
けれど何度記憶を振り返っても、身体に残った痕跡を否定することは出来なかった。
真紅の指先に残る血肉を裂く感触も。耳に残っている肉を裂く音も。身体についた鮮血の生温かさも。
消えることはなく、身体はしっかりと覚えている。
「……ち、……ちがう。……やだ、……そんなこと……」
何度否定しようとしても無意味だ。と、頭の中で誰かが囁く。
「おか、しい……、よ……」
何がおかしいのか。と、頭の中で誰かが囁く。
「どうして……。……ぼくは、ただ……」
──あなたの帰りを待っていただけだったんだ。
──あなたに触れてもらいたくて、ずっと待っていただけだったんだ。
「……う……ぅあ、ぁ……」
“変わらない日常”は一瞬で壊れた。──否、自身の手で壊してしまった。
部屋は爪で裂いたように割れて、壁紙に抉られた跡が残り、置かれていた家具は無残に崩壊して、天井から崩れ落ちてきた瓦礫と一緒にそこら中に散らばっている。
眠気に誘われて意識を失くしている間に、この家は数時間でめちゃくちゃになっていた。
大好きだった人も血の気のない真っ青な顔をして俯き、何も喋らず、動かず、真っ白な肌が赤黒い色に染まっている。
そして部屋には塵煙霧と、噎せ返るような鉄の臭いが充満していた。
そんな惨状を見て、麗央はゆっくりと小さく頭を横に振る。
溢れる涙を気にせず両手で顔を覆うと、嗚咽は徐々に咽び泣く声に変わっていった。
「……ひくっ……ぅ、ぅう…………」
隙間から覗く口元が震えて歪み、歯を食いしばると息が詰まったように声が出なくなる。そして、ポロポロと両手を伝う水滴はその内、雫となって落ちていった。
「……ッ、……ぁ゛。あ゛あああああああああッ──!!」
咆哮のような叫び声が部屋に響き渡り、不協和音の音に鼓膜が震えた。
自分の声なんて分からず、目の前に広がる有様に錯乱した麗央は声を発するのを止めることはない。
内側から燃えるように熱くなっていく身体をただ感じながら、頭を抱えて悲痛な声を上げていた。
こんな運命でしかこの先も生きいけないのなら、いっそ──。
麗央の表情が狂気な笑みを浮かべ哄笑する。その瞬間、暗闇から突如発生した黒い靄が漂よいはじめた。
麗央を包み込んでいくその傍らで、伸びた人影の頭がゆらりと動く。
小刻みに震えた瞼がゆっくりと持ち上がると、割れた瞼の隙間から覗く瞳が、靄に呑まれた麗央を見つめる。そして、極僅かにだが掠れた声が夜闇に呑み込まれた。
「────」