改修版:第一話
崩れかけた廃病院が霧の中に沈んでいた。壁面には火災の煤がこびりつき、ところどころに焦げた痕跡が残る。殴り書きのような思考の断片、血文字のような赤い線。誰かが修復しようとしたのか、塗り直された壁までもが焼け焦げていた。
その中を、ひとりの少年が歩く。夜の街路を、誰にも見られぬよう、ゆっくりとした足取りで。
俺はかつて、こう教えられた。
「世界に偏在する生物や植物には、能力がある。そしてそれが極まって、人の理解を超える場所に至った時──それは『超能力』と呼ばれるんだ。」
犬や猫の嗅覚、聴覚、それらは実質的な透視能力だとされている。そんな風にして、人間にも様々な力が宿っている。中でも異質な者たちは、さまざまな称号を与えられ、敬意と恐怖の両方を集める存在になった。
その中で最も単純で──そして最も崇高とされる力。それが、未来予知だ。
未来予知は理詰めで行う者もいれば、オカルティックな儀式に頼る者もいる。選択肢を突き詰めて直感で選ぶ者もいれば、仮想空間や数式によって導き出す者もいる。確率論もまた、ひとつの未来予知といえるだろう。
だが──それが進化や変異によって得体の知れない領域へと踏み出したとき、人類が人体の極限を求める時代に突入したとき、果たしてその力は希望をもたらすのか。
超能力は、人を衰退させる。だからこそ、現代にはもう存在しない。
俺は未来予知という力が好きじゃない。便利に見えるが、実際には融通が利かず、使うたびに自分の脳みそが削れていくような感覚がある。
かつて講義で、未来予知には二つの型があると教わった。観測型と追跡型──前者は時間軸の先にある“結果”だけを覗き見る。後者は未来の“過程”を辿ることができる。
録画と配信のようなものだ。観測型は録画を早送りして見たい場面だけを拾う。追跡型は生配信をリアルタイムで追いかけるように、流れの全容を把握できる。
ただし、どちらにも明確な欠点がある。観測型は断片的で文脈を失いやすく、追跡型は一度再生を始めたら巻き戻しも早送りもできず、しかも未来がどんどん決定されていく。
選択の余地が減る。俺は一度、追跡型に頼りすぎて死にかけたことがある。見えたはずの未来が目の前で反転し、どう足掻いても辿り着けない場面へ導かれた。
未来を見ているのに、未来に間に合わない。あの無力感は今も忘れていない。未来予知とは、思考と感覚の極致だ。にもかかわらず、脳を削れば一切使えなくなる。そうなると、能力者はほぼ例外なく限界にぶつかる。理性で制御できるものではない。千里眼があればまだマシだ。
未来を見るだけでなく、それを“どこから”見るかが選べるようになる。座標を固定して未来を観測できるのが千里眼と未来予知の併用だ。だが千里眼なしでは、せいぜい自分の目を通した未来だけしか覗けない。主観観測というやつだ。自分の見た風景しか予知できないという制限がある。もうひとつは座標観測。未来のある場所における映像を覗く方法だ。
ただし、そこの現実に到達しないと情報は得られない。つまり、予知が使えるようになるまでに“時間を通過する”必要がある。危険な場所ではその猶予すら致命的だ。
俺はこの二つを補うようにして、肉体の感覚をいじった。指先の神経を犠牲にして、視覚と聴覚を研ぎ澄ませた。いわば偏重育成。親がやると大体失敗するが、俺にはそれをやる必然があった。未来を捉えるために、身体を、神経を、構造そのものを変えていく。
普通じゃないやり方だったが、俺にとってはそれが“適応”だった。未来予知は決して万能じゃない。結局、使えるかどうかは“その瞬間”に依存する。見えたとしても、それを解釈できなければ無意味だ。予知と千里眼の両方を持っていても、見える未来が複数ある場合、その選択肢のひとつを“自分が選べる”保証はどこにもない。霧が一層濃くなった。
前方で声がする。視線をやれば、数人の男たちが一人の占い師を取り囲んでいた。服はボロボロで、額から血を流している。占いが外れたのか、それとも何か言い当てたのか。俺は立ち止まらなかった。どうせ見えてない。あるいは、見えていても逃れられない未来だったのかもしれない。未来予知者は、恐怖に屈した瞬間に終わる。ああいう末路があるから、俺はなおさらこの能力に期待を抱かない。俺の足音だけが、崩れかけた廃病院の壁に反響した。焦げた壁、割れた窓、すすけた残骸。未来を視るということは、いつかこうなると知ったうえで、今を生きるということだ。それが、俺の生き方だった。
廃病院の中は、外よりもずっと静かだった。風の音すら聞こえない。足元には割れた瓶の破片、薬液の染みがこびりついた床、無造作に転がる注射器。錆びた金属の匂いとアルコールの残り香が混じり、鼻の奥を刺す。
電気はとうに通っていないはずなのに、灯っている灯りがある。ロウソク、あるいは手製のランプ。点々と並べられた光源が、影を曖昧に揺らす。中央ホールに近い廊下の奥、数人のアウトローが床に座り込んでいた。
表情は緩い。酒が入っている。だが、その視線は眠ってはいない。笑い声の裏に、獣のような緊張感がある。誰かが来れば即座に反応する。自分たちが追い詰められていると、奴ら自身が一番理解しているのだ。内部に張られた結界のような圧力を感じながら、俺は廊下の縁を滑るように進んでいく。
正面から入れば声をかけられる。だが、音を立てなければ“存在そのもの”を認識されることはない。だからこそ、この仕事は面白い。どこかの部屋では、予知者が頭を抱えている頃だろう。断片的な未来しか視えず、その断片さえ不穏なものばかり。
ここには静寂と、殺意と、未来の破片だけがある。俺は壁沿いに進み、非常灯の残骸を踏まないように気をつけた。室内に響くのは、俺の呼吸と靴底の接地音だけ。
誰も気づかないが、それで十分だ。見張りたちはまだこちらを認識していない。彼らの緊張が裏返るのは、まだ先の話だ。そろそろだ。俺は足を止め、空間のどこかを見上げる。未来予知が、もはや“思考”でしかできない一般人の俺の話を始める時が来た。
連邦捜査局、超能力課。俺の役職はリクルーター。世界中から能力者を見つけては、勧誘し、雇うか、排除するかを判断する立場だ。
「殺すかどうかを決めるのも、俺の仕事ってわけだ。」
手元で確認していた地図と銃器を一つずつ丁寧に収納し、廃病院の中央に向けて再び身体を起こす。
「元は探偵会社にいたんだ。まぁ、色んな意味で優秀だったらしくてさ、何度も犯罪組織の拠点を潰してたら、局から声がかかってな。」
壁際に並んでいた物資のひとつ、特殊弾薬の入ったケースに指を滑らせる。滑らかに装填口を開け、静かに中身を確認していく。
「ありがたーく言われてるらしいぜ。“対超能力戦最適の実働戦力”。まるで伝説の勇者か何かみたいにな。」
目元が笑っている。だが声のトーンには皮肉が混じる。比喩だ。称号のように言われているが、そんな公式な扱いはどこにも存在しない。ただ、戦績だけが周囲を黙らせてきた。
「“ドラゴンスレイヤー”・・・冗談でも、そんなもん背負って生きていけるかよ。」
口の端だけを歪めながら、弾倉の最後のひとつを確認する。
「・・・未来予知者ってのはな、時間軸に割り込む。それがわかっていれば、撃つタイミングをずらすだけでいい。バレなければ殺せる。バレたなら、恐怖の中で殺せる。」
足元で床板が軽く軋んだ。だが敵の気配は感じられない。息を潜め、銃身を肩に沿わせるように構える。
「銃弾の合計は六十発。未来予知者向けの特注品だ。反応される前に一発。万が一に備えて三発。あとは運次第だな。」
床に敷かれた古い地図を膝に乗せ、建物全体の構造を再度頭に叩き込む。中央ホール。そこが要だ。
「奴らはそこに未来予知者を置いて、全体を制御している。つまり、あそこを崩せば全体が乱れる。」
膝を鳴らすように軽く立ち上がり、コートの内ポケットを叩いて最後の装備を確認する。耳を澄ませば、外から聞こえてくるのは風の音と、何かの燃える匂い。
「さて・・・悪党刈りの時間だ。」
壁に触れながら進む。崩れかけた構造の中を、音を立てないように抜ける。目の前の敵を一撃で葬るために。
地図は古かった。火災の煤が部分的に染みつき、いくつかの部屋名は焼け焦げて判別できない。だが、建物の中央を走る太い通路と、そこに接続する複数の部屋──その構造だけは今も変わらない。
「中央ホールに未来予知者を配置し、情報の中枢としている。これは間違いない。」
指でなぞるのは、三方向からホールへ通じる接続経路。物資の通り道にも、逃走経路にも見える。
「同時に三ヶ所に分散している。全拠点を見渡せる配置だ。・・・つまり、一ヶ所でも潰せば、他の地点に連絡が回る。」
そう言いながら、ホールの北側と南側を小刻みに叩く。壁の厚みはそれほどない。銃撃が通れば、外部からの干渉も可能だ。
「問題は千里眼だ。仮に使える者がいるなら、この蜘蛛の巣構造はより厄介な意味を持つ。」
千里眼がいれば、分散配置は“視界の網”になる。隠れる場所は減る。発見された瞬間、全体に伝達される。
「・・・だが、これが成立するのは、連絡手段が明確な場合だ。テレパシーや念話者がいるなら別だが、そうでないなら、物理的な連携に頼っているはずだ。」
そう口にしてから、ほんの少しだけ息を潜める。部屋の奥、誰かが咳払いをした。外部の音か、それとも内側の反応か。
視線を落とし、地図の上に銃を並べる。弾は特殊加工されている。未来予知者の反応を抑えるには、発射のタイミングと角度が鍵になる。
「仮に千里眼がいたとしても、それがすべてを見通すとは限らない。透視能力は障害物に弱い。金属、厚い壁、強い光。・・・特にこの建物のように老朽化が進んだ構造では、干渉が散乱する。」
指先で弾薬を転がす。転がる音はわずかに響き、何かがどこかで反応した気配があった。反射的に身体を低くし、天井を仰ぐ。
「地面に埋もれて狙う、天井から角度をつけて撃ち下ろす。どちらも千里眼相手には有効だ。上下方向の視認範囲は案外狭い。」
地図の隅にある物置部屋を示す記号に目を留める。そこから回り込めば、ホール南側のバリケード裏手に出られるかもしれない。
「問題は、連絡網の強度。テレパシーがいた場合、蜘蛛の巣は網ではなく“神経系”になる。一点を切っても他が即時に反応する。」
だが、そこまで完成されたネットワークを作るには能力者の数が足りない。こちらに伝わっている情報と照らし合わせれば、千里眼と未来予知の併用者が複数いるとは考えにくい。
「・・・それに、心理分析系の能力を組み合わせている可能性もある。視線、呼吸、心拍。それらを微細に読み取ってくるタイプ。」
予知よりも厄介な存在。未来を知るのではなく、“今”の中から危機を見つけ出す者たち。
それでも構わない。銃弾は用意した。火力も手段も揃っている。後は順番を決めるだけだ。
廊下の先に、影が一つ揺れた。背丈のある男、保安官の一人だ。指定通り、合図なしで接触してくるあたり、信頼はしているらしい。
「陽動用の火薬を、動きがあり次第飛ばせ。」
小声で囁きながら、ジニアはポケットから小ぶりのダイナマイトを取り出し、雷管と共に手渡す。
「お前みたいなチビッ子が?」
「被弾しにくいし隠れやすいぞ?」
「まるで浮気男の理想だな。」
「浮気相手にそんなチンチクリンを選ぶ訳ないだろう。」
軽口を交わす間にも、火薬は確かに受け取られていく。保安官は頷き、廊下の陰へ消える。彼が動けば、敵の目はそちらへ向く。
「それと・・・この火薬、ちゃんと燃えるよな?」
「テキサスの輩じゃないんだ。ちゃんと燃えるさ。」
その背中が遠ざかるのを見届けた後、ジニアは壁沿いを這うように進んだ。崩れた部分を乗り越え、建物の側面へと回り込む。
内部の構造は古い。医療施設特有の太い梁と、乱雑に配置されたバリケードが視界を遮っている。あちこちに積まれた資材は盾にもなるが、裏を返せば視界を分断する罠にもなる。
真正面から突っ込む愚を、かつて幾つもの国が繰り返した。ローマも、アメリカも、正面突破を美徳とした時代があった。
「これが超能力の結果か。所詮、見れただけの未来でしかない・・・。」
壁の隙間に体を押し込み、物音ひとつ立てずに抜ける。
床に落ちていた医療器具を踏まないように注意を払う。
バリケードの配置が甘い。隙間があり、そこから向こうの動きがわずかに見える。
「バリケードがあれば、逆にどこに当てればいいか目に見える。」
天井裏に体を押し込んだ。埃が舞い、古い配線が腕に絡む。だが、そこからなら視界が得られる。
「配置がダメだ。超能力に甘えるからこうなる。」
敵の視線が一方向に向いている。外の窓、保安官の動きが注目を集めていた。
ジニアはその一瞬の隙に銃口を構え、天井裏から銃声を放った。
「・・・バレなければ、気付かれずに殺せる。バレたなら、恐怖の中で殺せる。」
一発目が響いた瞬間、部屋の中がざわつく。敵の何人かが外へ向けて銃を構える。一部は階段を駆け上がろうとしたが、全体の反応は遅い。
近くにいた十人ほどは混乱の中で役割を分担し始める。怪我人の救護と、残された警戒のための再配置。
ジニアは構造を見極め、頭の中で地図を再構築する。中枢、中央ホールにいる未来予知者は、この混乱を把握していない。
その顔色は常に悪く、今頃はさらに蒼白になっているはずだ。
「どれから撃つか。」
バリケードの最奥では、武装した数人の男たちが口をつぐんでいた。顔つきは険しく、だがその緊張には焦りが混ざっている。
中央に立つ一人、まだ少年の面影を残した未来予知者──マーク。彼の額には汗が滲み、口元が震えていた。
「ち、違う・・・来る・・・確実に・・・。」
目を閉じたまま呟くように言葉を漏らす。その背後では、仲間たちが壁を背にして構えている。
マークの視界には、未来の断片が断続的に現れていた。暗い廊下、煙、叫び、倒れていく味方たち。
次々に撃ち抜かれる。気絶し、崩れる。銃声の残響だけが映像に焼き付いていく。
そしてその中心に立つのは、一人の小柄な男。姿形は曖昧だが、その目だけは異様に鮮明だった。
無駄に整った顔立ち。だが恐ろしいほど感情のない表情。マークは視線を逸らしたくなった。
だが、未来から目を逸らせば、自分の存在理由が崩れる。視ようとするたび、見えない場所が増えていく。
遮蔽。死角。敵は見えない角度から出現し、次々に行動を起こす。まるで、こちらの行動を先に知っているかのようだった。
「見えない・・・どこから来るのか分からない・・・!」
カリルが肩をすくめた。
「・・・冗談じゃないらしいな。」
反対側で武器を構えていたシュタイアーが、低く問う。
「準備は出来ているか?」
「問題ねぇ、いつでも発破可能だ。」
その会話の余裕が、かえって不気味だった。天井裏に身を隠していたジニアは、その抑揚のあるやり取りを音で識別する。
会話のペース、呼吸、足の動き。その一つひとつを頭の中で配置し、位置と人数を再構築していく。
不意に、脇腹に鈍い痛みが走る。先ほど天井に滑り込んだ際に擦った箇所だ。
片手で触れると、指先に湿り気が伝わった。出血は浅い。だが、傷口に染みた汗が神経を刺激する。
そのせいで、一瞬だけ呼吸が乱れた。
音が跳ねた。誰かがこちらを気にしたかのように顔を上げた気配。だが、銃口はまだ向かない。
ジニアは、床に溜まった埃を舌で感じながら、再び銃を構え直す。
「超能力に過剰な自信がある訳ではないか。」
視線の先、中央ホールの入り口に動きがあった。階段側に二人が位置を取り直し、銃をそちらへ向ける。
背後の動きに気づいた者はいない。ジニアは、天井の梁の影からゆっくりと身を起こす。
小さな動き。静かな呼吸。敵の視界が、まだ別の場所に向けられている今が、最初の選択のときだった。
通気の乏しいホールの片隅で、熱気が揺れていた。空気が微かに歪む。ジニアは反射的に片目を閉じ、汗の一滴が頬を滑るのを感じ取る。
「ああ・・・低温のパイロキネシスか。」
目を凝らすまでもなく、空気が波打っている。過熱された金属片の匂い、靴底を通じて伝わる床の変形。それらすべてが、火の気配を訴えていた。
「成程。欧州寄りの能力者か。血筋は砲兵かもな。」
足元で軋む音。銃のスライドがわずかに浮いていた。熱膨張だ。武器の部品が歪み、精度が狂う。弾道が逸れれば、それだけで敗北が確定する。
ジニアは相手の呼吸の速さを見た。体温調節を兼ねた動きの中に、熟練のパターンが混ざっている。
「パイロキネシスを低出力で使うことで、装備を破損させる。銃弾の暴発、刃物の鈍化・・・上手い戦術だ。」
火を操る能力者は派手さで知られているが、これは別種。じわじわと、確実に敵の武器を腐食させ、最後に仕留める。
「俺は代々パイロキネシスを受け継ぎ、親を殺された・・・とか言って、ハッタリかますつもりだったろ?」
ジニアの声に反応した男──カリルがわずかに表情を揺らす。銃を下ろさず、しかし身体の動きに戸惑いがある。
「未来予知者か・・・?」
「ハズレだ。未来予知使えても、みみっちいお前等とは違う。見て考え続ければ攻略できる。」
構えたまま距離を詰める。カリルの足が一歩下がる。だが、遅い。
ジニアは懐へ滑り込むと同時に、袖の内側から小さなナイフを引き抜いた。
火花が散る。
ナイフの刃が一瞬光り、カリルの脇腹に深く刺さる。肉を裂く感覚と共に、熱が跳ね返る。ジニアは目を閉じ、相手の反撃に備える。
だが──来ない。
体格差を無視して飛び込んだ結果、小さな身体のジニアは攻撃範囲から外れていた。
「未来予知で武器を見たな。どこに何を身に着けているかも。」
ナイフを引き抜いたジニアの目の奥には、冷たい光があった。
カリルは地面に膝をつく。体を支えきれず、肩が揺れる。
「超能力に甘えた。それを思い知らされる。自分のアイデンティティですらあったそれが、驕りの象徴だと知って。」
喉の奥で何かを呑み込む音がした。カリルは口を開き、息を吸う。
「・・・悪かったよ。善悪も、質も。」
ジニアは応えず、ただ一歩引いた。カリルの視界に、炎の揺らめきが映る。
手放された銃、溶けかけたナイフ。そのすべてを熱が包む。
煙が上がる。火が空気を喰い、天井へと昇っていく。
カリルは、音もなく崩れ落ちた。
火は遅れて広がった。バリケードの向こう側、誰かが焦って火元に駆け寄る気配。だが、そこには誰もいない。
カリルの炭のような遺体が床に転がっていた。その姿に気づいた者たちは、一瞬だけ硬直した。
誰も銃を構えなかった。カリルの位置はジニアに近すぎた。火を越えて接近できる者などいない──そう信じ込んでいた。
「・・・あれは、カリルだよな・・・?」
「まさか・・・こっちに逃げたのか?」
囁きが交差する。誰も前に出ようとしない。
そのとき、炎の奥から、細い足がゆっくりと見えた。靴音は軽いが、はっきりと床に響く。
何人かが銃を持ち直そうとしたが、金属音が鳴らない。引き金の反応が鈍い。熱で部品が膨張している。
一人がトリガーを強引に引いた瞬間、銃身から火花が飛び、銃弾が逆流するように暴発した。
続いて二発、三発。明らかに制御できていない。熱と圧力のせいで、機構そのものが狂っていた。
ジニアの姿がまだ見えない。だが、足音だけが床を正確に刻む。銃を向けようとする手が止まる。
それは恐怖というより、混乱だった。想定された未来と現実のズレが、行動を奪っていく。
ジニアは腰元から短く重い銃を取り出す。銃口には小さな円筒が装着されていた。
「今回、ある秘密兵器を受け取った。サプレッサー・・・消音器だ。」
静かに呟きながら、銃の重みを確かめる。マキシム博士が試作した初期型。特許は取得済みだが、公には出ていない。
「この時代にはまだ存在しない代物だ。十発ごとに切って取り替える。しかも、天井や壁の中に入り込む戦術とは相性が悪い。ガスの逆流も激しい。」
それでも、使う意味はあった。火をかいくぐり、気配を断ち、敵の背後を取るための手段としては十分だ。
視線の届かないところから、音もなく放たれる弾丸。未来予知者にとって最悪の条件だった。
煙の隙間から銃口が突き出され、静かに弾丸が放たれた。
耳をつんざく音はない。ただ、何かが断たれたような感覚だけがその場に残る。
ジニアはすでに次の弾を装填していた。手の動きは慣れている。排莢、装填、照準、発射。すべてが滑らかだった。
火の向こうでは、複数の敵が振り向いた。だが、誰も動かない。
カリルが消えたことで、前に出る理由も後ろに下がる余地もなくなった。
ただ一人、マークだけが震えていた。
マークは口を開いたまま動けなくなっていた。
未来の映像は崩れていた。焼け落ちる仲間たち、どこからともなく放たれる銃弾、そして見えない敵の姿。
何度も視線を巡らせるが、発砲点が見えない。バリケードに遮られ、角度的に確認できる場所がない。
そのもどかしさが、恐怖を倍化させていた。
「分かる訳ないだろ!あの燃やしたクソ親が耳切ったせいだ!」
マークは叫ぶように言った。だが、その声には確信も論理もなかった。ただの感情だった。
「おい、どうしたんだ? お前の未来予知がある限り、俺たちは先手を打てるんだろ?」
背後からシュタイアーの怒声が飛ぶ。片目を怪我していた彼は、血でにじんだ視界の中でなお怒りを放っていた。
「答えろ、マーク!」
だが返答はない。火の奥から、再び弾丸が放たれた。
誰かが悲鳴を上げる。断続的な衝撃が壁を叩き、銃声が室内を走った。
「・・・え?」
マークが言葉を失う。炎の中から、手が一本伸びていた。
黒い炎に照らされた腕、その先にある銃口。
誰かが勘違いし、保安官の応援が到着したと誤解しかけた。
だがすぐに気づく。銃口が味方に向いていることに。
そこから三発。短い間隔で音が鳴る。
ひとりが倒れ、もうひとりが後退し、最後のひとりが銃を手放す。
その手元に火が映る。銃の金属が熱で歪み、暴発の音が続く。
「超能力者であるなら欠点はあるはずだ・・・証拠が残らないということは、テレポートか壁抜け、それか幻覚か。」
シュタイアーの声はまだ冷静を保っていたが、内容は明らかに混乱していた。
「延焼を拡大させれば、道が絞れる・・・そうだ、場所を絞るんだ・・・!」
その判断も、遅すぎた。火の裏から再びジニアの声が届いた。
「ああ、そういうのもダメだ。未来の防具や道具もあるが、なんせ小さくてね。呼吸もできるだけ控えているんだ。」
煙の中から、はっきりとした歯並びと、鋭い眼光が現れる。
ジニアが笑った。
それは表情にしては小さく、だが目に映った者にとっては、悪魔そのものだった。
数分後、音は銃声から燃焼音に変わっていた。
敵の動きは止まり、反撃もなかった。
火の裏から、かすれた声が三発の銃声に続いた。何人かが叫び、何人かが諦めた。
そして、ジニアの小声が煙の奥から零れた。
「コイツは無しだ。」
冷たく、確定された処理だった。
銃のスライドが後退したまま戻らない。
ジニアはその感触だけで、残弾が尽きたことを悟った。
「・・・これで弾切れだな。」
腰の銃を下ろし、火の回りを確認する。燃焼範囲は想定より狭い。廃材の密度が高すぎず、空気の流れが火勢を抑えていた。
まだ間に合う。
ジニアは部屋を横切り、瓦礫を蹴って壁の一部を叩く。脆い。蹴りを加えれば簡単に抜けそうだ。
そのまま踵で三度、壁を蹴り抜くと、冷たい空気が流れ込んだ。外と繋がった。
出口の確保。これで避難ルートが一つ完成する。
倒れていた人質を順に確認する。
意識はなくとも呼吸はある。深い外傷もない。
ジニアは二人の子供を抱え、背中にもう一人を背負う。
階段に残っていた遮蔽板を踏み、慎重に外へ抜ける。
建物の影から回り込むと、既に保安官が周囲を警戒していた。
一人が振り返る。
「保安官、他の子供は親がいるらしい。この三人はそういうのがないそうだ。多分、真っ先に殺す用だな。」
保安官は視線だけで答えた。
背負った子供が小さく息を漏らす。
その声を聞いたジニアは、ようやく肩の力を抜いた。
ジニアは膝を折り、三人の子供たちを並べて座らせた。
まだ目を覚まさない二人は、深く眠っていた。傷は浅い。だが、震えが残っている。
手元にある古い毛布をかけ、呼吸を確認する。
そのとき、一人──中央の少女がまぶたを震わせた。
目を開ける。瞳が合う。
「お前は過去が良いか、未来が良いか。よく見て考えろ。」
声をかけると、彼女はわずかに眉を上げた。
「未来を選ぶよ。明るいことに期待してる。」
そのまま、ジニアの手を引いた。
何かを確かめるように、しっかりとした力で。
その瞳は深い緑。濁りのない、エメラルドのような色合いだった。
「悪いが、未来は見れないんだ。考えるのは好きだけどね。」
立ち上がる彼女を、ジニアは観察する。
服に焼けた痕はない。縛られた形跡もない。
「・・・ああ、そうなのか。と言っても、その口の粗さが実力を語ってるぞ。縛られた痕もなければ、焼けた跡もない。」
サンドラは鼻を鳴らす。
「髪は切った。焼けた先なんてカッコよくないだろ。隣の奴が人影だかなんだか言ってくるし。」
ジニアは彼女の体を一瞥し、焼けた裾を隠すようにして上着を脱ぐ。
それを彼女の肩にかけた。
「似合ってるぜ・・・それと、周りの人間も守ってくれたのか。」
「・・・ん、ありがと。」
短く応えると、サンドラは目線を伏せた。
視線の先には、まだ目覚めない二人の姿があった。
ジニアは手を伸ばし、そっと子供たちの額を撫でる。
動きは慎重で、どこか不器用だった。
「ようこそ。連邦捜査局超能力課捜査官に新人が加わった・・・歓迎するよ。」
二人の子供はそのまま病院に送られた。身体検査と保護手続きに回される。
だが、ひとり──この少女だけは違った。
その手順を飛ばして、試験と検査が同時に行われた。
口をつぐんでいた医師たちが、ジニアの判断に従っているのがわかる。
ジニアはそれを無言で受け流しながら、少女の前に座った。
「サンドラ・デュ・バリーだ。助けられたからには、役に立つだけのことはする。アンタは?」
彼女の姿勢に曇りはなかった。
ジニアはその勢いに軽く目を細めた。
「コードネームはジニアだ。」
「本名。」
すぐさま返ってきた要求に、わずかに動きが止まる。
アメジストのように濃い目の色を見せながら、ジニアは目線を落とした。
「本名か・・・まぁ、明かしても構わんよ。」
サンドラは彼の思考を読める。
それでも、答えを聞くまでは試す。
ジニアは背筋を伸ばし、言葉を選んだ。
「クリス・ラヴュー。偉大な母の名を継いだ名さ。」
サンドラのまなざしが変わる。
静かに、鋭く、しかし尊敬を含んだ眼差し。
「母も、父も、親として、人として尊敬している。」
ジニアの声音に迷いはなかった。
だがそのあと、軽く肩をすくめる。
「父は見たこともないが、定期的に爆薬を送り付けられるくらいには、戦地で敵を殺しまくったらしい。」
「それは尊敬している人に向けての発言か?」
「偉大な国は海を穢すくらい、血と汚物を垂れ流すものだ。」
サンドラは少しだけ息を吐いた。
「最悪な国だな、それ。」
ジニアの視線がやや柔らかくなる。
「お前が過去どんな生を送ったかは俺には分からないが、俺は“幸せ”の手段に関しては色々知ってるつもりだ。どうぞよろしく。」
「・・・ああ、私からも。よろしく頼むよ。」
二人の間にあった距離が、ほんのわずかに縮んだ。
短い握手。その感触は、冷えた夜気の中でも確かだった。
港の風が冷たい。
スーツを着たジニアが桟橋に立ち、黒のドレスを着たサンドラがその背を睨んでいた。
彼女の腕は組まれ、唇はわずかに尖っている。
怒っているというより、不安を隠すための表情だった。
「サンドラと組んで二年、彼女は十数歳程度だが、凄まじい能力者であった。それでも真正面に出す訳にはいかない。能力が強すぎて、表に出すリスクが大きすぎる。」
ジニアは帽子を軽く整えながら、彼女の目を避けた。
「先に言及しなかったが、超能力は理屈による再現、努力によって成立しているものも多い。」
彼は言葉を探すように視線を宙に泳がせる。
「未来予知も同じだ。理詰めの未来予知には別の名称がある。ラプラス型──ラプラスの悪魔をモチーフにした構造だ。」
静かな水面に、出航準備を終えた船の揺れが反映する。
「このタイプの未来予知は転用性が高い。計算式で扱える。軍では特に砲兵や海軍将校が、この思考法を身につけるのが前提になっている。」
その説明を聞いているようで聞いていないように、サンドラは彼を睨み続けた。
「誘拐が認められているって、本気で言ってんの?」
その言葉にジニアは肩をすくめる。
「現実だ。特にラプラス型は“思考力の速度”が武器になる。予知というより、計算と推定の速度と正確性だ。」
サンドラは腕を組んだまま、呼吸を一つ置いた。
「念押しだけど──スーツは着た?武器はあるよね?」
「・・・ああ、大丈夫だ。先ず見えるだろ。」
ジニアはそう言って胸元を整える。
サンドラは視線を下げ、足元の小さな荷物に目をやった。
「それを油断しちゃダメな人間相手だから、信じてないの!」
風が強くなり、ジニアのコートが揺れた。
出航の合図が鳴る。
その音の中で、サンドラはただ、黙って彼の背中を見送った。
揺れる船の甲板の上で、ジニアは片膝を立てた姿勢で遠くを見ていた。
航路の先に見える陸影は、まだかすかだったが、次の任務地が近づいていることを示していた。
船の脇では、中年の漁師が網を整えながら話しかけてきた。
「・・・あんた詳しいな。ホントに漁師か?」
「元だ、元。娘がラドクリフで色々学んでくれてるからな。」
そう言って彼は笑った。
「私はやっぱりこういうのが向いている。今は観光業の方が金になるんでね。」
ジニアは頷きながら、軽く目を細めた。
ラドクリフ・カレッジ。今で言うハーバード大学、統合前の女子大だ。
当時としては極めて教育水準が高く、資産家でなければ入ることも難しい。
「今も昔も、金が大事なのは変わらないと、うちのボスは言っていた。何も時代は変わっていない。」
ジニアの声には皮肉が混じっていた。
風が強まり、海面の色が濃くなる。
アジア──次なる目的地。
現時点でも圧倒的GDPを有し、内需が支えている清。
資源の埋蔵量では世界を席巻した日本。
薬品の需要が根強く残る朝鮮。
オランダが記録を残し、戦略的拠点として注視される台湾。
「ジョルジュの一件は偽物だったが、それでも記録がある限り、無視できない場所になった。」
ジニアは一つ一つの国を思い浮かべながら、その背後にある戦略と利権の網を見ていた。
それは地図ではなく、血と数字と利得で編まれた情報だった。
小さな漁船の上で交わされる会話は、やけに現実的だった。
ジニアは海の向こうに目を向けたまま、過去の記憶を重ねていた。
今、アメリカでは大統領が任期200日を待たずに死去し、日本では皇太子の誕生に国中が沸いていた。
欧州ではズールー戦争の泥沼にイギリスが苦戦していた。
1879年。歴史の裏で無数の名前が生まれ、そして消えていく年だった。
アジアから人材を調達する──その建前の裏に、使い潰された命がいくつあったか。
ジニアの目に浮かぶのは、記録ではなく、実際に見てきた人々の姿だった。
超能力に頼らない日々を送ったからこそ、地道な知識が面白く思えるようになった。
最近亡くなった未来予知者、レオ・ニーベルヴァーチ。
彼は追跡型と観測型の両方を極限まで突き詰めた男だった。
彼曰く、未来予知の核心には、微小管とCaMKⅡというタンパク質の動きが関係しているという。
「人体の謎を握るのはタンパク質だ。モータータンパク質の移動を解き明かせば、未来予知の高精度化が実現できる。」
彼の言葉を思い出しながら、ジニアは海風に目を細めた。
ストレイン──タンパク質の“種類”こそが、未来を左右する。
それがまだ人知の届かない力であるならば、引き返す道を作ること。
それこそが、人類の救いになる。
その言葉を信じて、今、次の地へと向かっている。