34 翔を偲ぶ / 1460年、神威
翔が倒れたという知らせを受けた後も、涼音の心には言葉にできない虚しさと痛みが残っていた。
彼がいなくなってしまったという現実が徐々に重くのしかかり、失ったものの大きさに耐えきれない思いが込み上げてきた。ふと、彼女の手に握られた霊刃・神威が静かに霊気を放ち始め、その冷やかな輝きが彼女の喪失感に共鳴しているかのようだった。
「涼音よ、翔という者について少し話してみるか」
神威の低く重い声が涼音の意識を静かに引き戻した。彼の言葉には、哀愁と遠い昔を思い出すような響きがあり、涼音は驚きつつも深く頷いて神威の声に耳を傾けた。
神威が自らこうして語りかけることは稀であり、その厳粛な声には特別な想いが込められているように感じられた。
「翔という者…見かけたのは一度きりにすぎぬが、素質は確かにあった。見ただけで感じるものがあったのだ」
神威の声には、まるで彼の才覚を惜しむかのような響きがあった。あの陽気で快活だった翔も、神威の目には確かな戦士としての素質が映っていたのだ。
神威の言葉が続く中、涼音の胸には、翔との記憶が鮮明に甦っていった。
涼音は目を閉じ、胸の奥で湧き上がる涙を飲み込みながら、小さく頷いた。
翔は確かに強かった。戦場での技術や知恵だけでなく、仲間たちを明るく励ます力や、切り拓こうとする力強さ──彼のそのすべてが、涼音にとっての希望の象徴だった。
神威はその気持ちを察したかのように、冷静に続けた。
「惜しい者を亡くしたものだ。」
神威の言葉は冷たくも深い思いやりを帯びていた。その声には戦士としての矜持と、戦いを重ねる者への敬意が含まれており、涼音はその重みを胸に刻んだ。翔が持っていた志、彼が未来に見ていたものを自分が引き継ぐべきだと感じたのだ。
翔が去ったことで生じた心の空白は決して埋まることはない。
しかし、神威の言葉がその痛みを和らげ、前へ進むための強さを与えてくれていると涼音は感じた。翔が信じた未来を実現させるために、そして彼が背負っていた夢を無駄にしないために、涼音は前に進む覚悟を固めた。
神威はそんな涼音の心の動きを感じ取ったのか、冷やかな霊気を微かに放ち、彼女の手元で脈動を始めた。その光はまるで、涼音が翔を忘れず、彼と共に戦い続けることを応援する神威からの静かな応答のようだった。
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1460年
神威はまばゆい光の中にいた。
眼を開けると、そこは古都・京都であった。
彼の視界には木々が生い茂り、静かに流れる川の水面に、京の街並みが映るように広がっていた。
神威は肉体を持たない存在――ただの意識体として、この地に現れ、宙に浮いているだけだった。
彼は風に漂う霞のように存在しているだけで、誰の目にも映らない。
だが、ただの意識体であるにもかかわらず、彼の中には不思議なほどの理解が満ちていた。
自分は「亜神」としての位を与えられ、やがて神となる日を待ちながら、この世の行いを見守る存在であるという役割が、突然に明確に感じられたのだ。
街には活気が満ち、人々が忙しく行き交っている。
豪奢な衣装を身にまとった公家や、武装を身につけた武士たちが、混然と京の道を歩く姿があった。
木の香りが漂い、遠くからは祇園囃子の音が響く。神威はその様子をただ眺め、風のように漂いながら、静かに彼らの行いを見守ることにした。
当時の京都は戦乱の時代に突入する直前で、平和と緊張が奇妙に同居していた。
神威は街を歩く人々の表情を観察しながら、人の心に渦巻く野心や、儚くも小さな幸せが織り成すこの時代の在り方を、じっと見つめていた。町の片隅では商人が声を張り上げて品を売り、子供たちが無邪気に遊ぶ姿があり、寺社の境内には信仰にすがる者たちが祈りを捧げている。
だが、その平和の裏側には、忍び寄る戦乱の影があった。神威の意識は、京の街全体に漂いながら、人々の不安や怒り、欲望に触れていた。応仁の乱の予兆があちこちでささやかれる中で、武士たちは密かに力を蓄え、権力を巡る暗闘がひそやかに繰り広げられていた。
神威は、特に何も干渉せず、ただ静かに流れる時を見守った。次第に季節は巡り、桜の花が咲き誇る春が訪れた。桜の花びらが舞い散る中で、人々は春の訪れを喜び、宴が各地で催されている。
だが、その華やかさの裏には、次の季節を迎えるまでに人々が背負う苦しみと悲しみが重なっていた。
ある夜、神威は東山の上から、京の街を見下ろしていた。
灯籠の明かりがぽつぽつと灯り、闇夜の静寂に包まれた京の街を、月が優しく照らしていた。神威はその夜空を見上げながら、自らの存在意義を考えた。この世の争いや自然の移ろいを見届け、神となる日を待つ存在として、彼はただの観察者であるべきなのか、それともこの世の人々に寄り添うべきなのか。
その時、ふいに遠くから激しい叫び声と、金属がぶつかり合う音が響いてきた。
神威がその音に引き寄せられると、そこには小さな寺院の庭で戦う武士たちがいた。
敵対する二つの勢力がぶつかり合い、血が夜空に散っていた。人々の心に巣食う憎しみと怒りが、こうして争いを生み、京の街に混沌をもたらしていることを、彼は実感せざるを得なかった。
「何と儚いものか…」
神威は心の中でつぶやきながら、その争いをただ見守った。彼はまだ、行動する術を持たず、ただ意識体として彼らの行いを見つめる存在だった。
静かに漂う風のように、無言でその場を通り過ぎながら、彼はこの世の美しさと残酷さの両方を、全て見届ける覚悟を心に刻み込んだのだった。