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政略婚物語

【コミカライズ4/8発売】離縁が決まった翌日にイジワルな義弟が帰ってきた

作者: 烏川トオ

本作の続編(と裏話編)に当たる『十二歳の花嫁を迎えた公爵は十年後に離婚したい』公開中です。


※※※※※※※※※※


『不遇令嬢な私の幸せ計画~溺愛ルート確定演出ですわ!~アンソロジーコミック』発売:2025年4月8日(火) https://amzn.to/4h602B2

本作を原作としたコミックが収録されております。こちらもよろしくお願いいたします!

『離縁が決まった翌日にイジワルな義弟が帰ってきた』 漫画:ひろせえい 原作:烏川トオ




「……ファナ、私たちの結婚から十年経った。お互い本当の人生を始める時期だと思う。――離縁しよう」


 それはいつものお茶の時間のことだった。忙しくても出来る限り、この時間だけは共に過ごすのが自分たち夫婦の決まりだ。そんな日常の最中、ファナのおしゃべりに穏やかに相づちを打っていた夫が、ふいに生真面目な表情になり、想定外のことを切り出した。




 ファナは十二歳の時、ダルクレア家の若き当主で八つ年上のゼラリオと婚姻を結んだ。ファナの実家ルヴェリエ侯爵家とダルクレア公爵家は、百年に渡り宮廷で権力を巡り争ってきた仲だった。それが十年前、王家からの取り成しにより、互いに娘を嫁がせることで長年の不和に終止符を打つことになった。


 ルヴェリエ侯爵の一人娘ファナは、ダルクレア公爵ゼラリオに嫁ぐことに決まり、一方ダルクレア家は、ゼラリオの妹をファナの兄であるルヴェリエ家の嫡子に嫁がせた。


 ゼラリオとは結婚式直前に初めて顔を合わせた。『君を実の妹のように大切にする』と優しい笑みで約束してくれたことを覚えている。ファナがまだ子供だったため、いわゆる『白い結婚』となるのは当然だった。言葉通りゼラリオはファナを妹のように慈しみ、ダルクレアの義母や使用人たちもファナに優しかった。……例外がなかったわけではないが。


 しかしファナが本来の結婚適齢期に入ろうと、子供を産める年齢になろうと、ゼラリオはファナを『妻』として扱おうとはしなかった。その理由を知ったのは十八の時だった。ファナは偶然にも、ゼラリオが人気(ひとけ)のない庭の片隅で、ある人物と身を寄せ合っている姿を見てしまった。ゼラリオが自分に向ける穏やかなものとは違う、熱っぽい視線の意味をわからぬほど、その時はもう子供ではなかった。




「――わかったわ。私たち離婚しましょう」


 だからファナも悲しむでも、怒るでもなく、すんなりと夫の申し出に応じられた。『妻』という肩書を得た後も、ゼラリオはまだ幼かったファナに遊びも勉学も望むままにさせてくれた。ある日突然子供時代を打ち切られ、無理やり『妻』としての義務を背負わされる娘は少なくない。自分がどれほど幸せだったか、大人になった今だからこそわかる。ゼラリオを恨む気持ちは微塵もなく、そうであれば彼の足枷あしかせにはなりたくなかった。

 

 実家の兄夫婦は四人の子に恵まれ、仲睦まじく暮らしている。百年間の確執が嘘のように、今では両家の関係も良好だ。自分たちが離縁してもあちらに影響はないだろう。十年経っても子供ができなかったのだから、世間的にも立派な離婚理由にはなるはずだ。


「……ありがとう、ファナ。君も理解してると思うけど、そもそもこの結婚は国王陛下のご命令の下、両家の間で取り決められたものだ。だから離婚後、君の身の振り方については――」


「大丈夫よ。ちゃんと理解しているから」


 この結婚は個人間だけのものでなく、政治的な繋がりでもある。離縁されたからといって、ファナがおめおめと実家に戻るわけにはいかない。今住んでいる屋敷を離れるのは当然としても、ファナは今後もダルクレアの領地に留まり、社交の場では両家の架け橋となるよう立ち回る必要があるだろう。


 ファナの返答に緊張の面持ちだったゼラリオが、ようやくほっとしたように力を抜いた。




「それから当然のことだけど、今回の離婚原因は私に非がある」


「非だなんて、そんな言い方はやめて」


「いいんだ。だから慰謝料として、君にリリディアの土地と別荘を譲りたいと思ってる」


 妻の持参金は夫に運用権があり、離縁しても返却されることはない。しかし離縁後の慰謝料として受け取った物であれば、それはファナの固有財産となる。風光明媚な海沿いの避暑地として知られているリリディアならば、莫大な持参金とも釣り合いが取れる。


(……土地と屋敷をもらえるのなら、今後の生活には困らないわね)


 今更になって、実家の支援で生活するのは気が引ける。少し迷ったがファナはゼラリオの申し出をありがたく受けることにした。


 その後、ゼラリオは離婚に関するいくつかの取り決めについて説明すると、最後にこう告げた。


「細かいことは弟に任せるから、よく相談するといい。――ユーレリウスが遊学先から帰って来ることになったんだ」


 その名を聞いた瞬間、ファナの脳内に鮮明な記憶が蘇る。






 初めてダルクレアの屋敷に足を踏み入れた時の記憶は、昨日のことのように覚えている。まだ幼かったため、結婚式には立ち会えなかったゼラリオの弟ユーレリウスとはその場が初対面だった。


 ゼラリオやその双子の妹である義妹は、『月の精霊』と称えられるほど容姿端麗だが、ユーレリウスもまた子供でありながら、すでに兄姉に劣らぬ美貌を備えていた。ゼラリオから年の離れた弟がいるとは聞いていたが、彼を見た瞬間、きっと妹の聞き間違いだったのだと本気で思い込んだほどだった。


 整った卵型の輪郭に人形のように繊細な鼻梁。けぶるようなまつ毛に縁どられたアメジストの瞳は、さながら銀の台座に据えられた宝石のようだった。ファナはその美しさに瞬時にして心を奪われた。


 ユーレリウスもまた視界にファナを捉えた瞬間、驚いたようにアメジストの瞳を大きく見開いた。そしてすぐに陶磁のような頬を紅潮させこう言った。


『貧相なカラス女! お前みたいな娘が姉上に成り代われると思うなよ!』


 ユーレリウスからすれば、ファナは慕っていた姉と入れ替わるように、家族に割って入った異物も同然だ。彼もまだ幼かったし無理はないと、大人になった今なら割り切れる。だが当時はファナもまた子供だった。


 名家の娘として、かしずかれてきたファナにとって、生まれて初めて真っ向から受けた罵倒は強い衝撃だった。同時に精霊のごとき美貌を前に、その日までなんとも思っていなかった自分の黒髪が、急にみすぼらしい物に思えてしまった。


 その後もユーレリウスと顔を合わせるたびに、些細な所作から、ダンスや音楽などの芸事の出来にいたるまで、あれこれと貶された。とはいえファナにも名門ルヴェリエ家からやってきたという意地があった。せめて得意な勉強で見返してやろうとしたが、それすらも『頭でっかちな根暗女』と馬鹿にされる結果となった。圧倒的な美貌の前では、それが理不尽であろうと言い返す気力すら奪われるのだと、ファナは初めて知った。


 ファナも最初は嫌味を言われるたびに真に受け、時に部屋に逃げ帰って泣いたこともあったが、段々受け流す術を覚えて行った。結局、傲慢で気位の高いユーレリウスをやり込めるには、何の反応も返さないのが一番なのだとわかった。無視されて、悔しそうに歯噛みするユーレリウスに、ファナは涼しい顔の下で密かに溜飲を下げていた。


 こうしてファナはささやかな平穏を手に入れたが、結果『ある事件』を引き起こし、ユーレリウスとの長い別離のきっかけとなる。






「弟にはそろそろ家の仕事を覚えてもらおうと思ってたんだ。こちらの近況を知らせたら、すぐに帰ると連絡があった。早ければ明日中には到着するんじゃないかな」


「ずいぶん急な話ね」


「まったくだ。よほどあちらが楽しかったのか、八年間も里帰りしなかったくせに。こうと決めたら即行動な所は、子供の頃から変わらずのようだ」


 八年、という月日に改めて驚いた。最初の印象が強烈だったせいか、ユーレリウスと一緒に暮らしていた時間はそう長くなかったことに気づく。


 この国では、一般的に嫡子以外の男子は成人すると、外に出て独り立ちするものだ。ただし広大な土地と財産を持つダルクレア家では、次男が当主の相談役として生家に残り、それらの管理に携わる習わしだ。つまり、今回の離婚手続きや慰謝料の引き渡しについては、ユーレリウスの管轄になるということだ。


(あの子とこの離婚について、話し合わなければいけないの……?)


 ファナの不安な気持ちが顔に出ていたのか、ゼラリオが苦笑した。


「あれでも遊学中は人間関係に気を配り、卒なくやっていたらしい。だいぶ大人の振る舞いを身に付けたようだし、そう心配はいらないよ」


 ファナはこの家に嫁いだ『妻』として、客観的に見ても大した役割は果たせなかった。あの意地悪なユーレリウスから、嫌味の一つもないとは想像ができなかった。






 ※※※※※※※※※※






 翌日、刺繍の途中で糸を切らしたことに気づいたファナは、気晴らしを兼ねて街へと買い物に出ることにした。普段ならその程度の用事は侍女に頼むが、ユーレリウスの急な帰還のせいで、出迎えの準備に慌ただしい屋敷の中はどうも落ち着かなかった。


 もちろん出迎えに間に合わせるため、時間に余裕をもって戻ったつもりだった。しかし昼前に戻ってみれば、すでにユーレリウスが帰って来ていると執事から聞かされた。さっそく『家族の出迎えすらできないのか』と、嫌味を言われることを想像し気が重くなった。さらに池のほとりでユーレリウスが待っていると聞かされ、憂鬱(ゆううつ)になる。そこは彼が遊学に出る二か月前、事件が起きた現場だった。






 それは八年前のこと。ファナの結婚から約二年が経っていた。もはや嫌味程度には眉一つ動かさなくなったファナに、ユーレリウスがついにしびれを切らした。


 庭で出会ったユーレリウスの、いつもの嫌味を一通り聞き流した後、ファナは無言のまま彼に背を向けた。その途端、ユーレリウスに背中を突き飛ばされ池に落ちたのだ。池の深さは子供の膝の高さほどもないし、季節は夏だった。せいぜいファナがびしょ濡れになる程度、ユーレリウスはそう考えていたのだろう。


 ファナが池の中で目を丸くして立ちあがると、最初はその様子を指さして笑っていたユーレリウスからふいに笑みが消えた。不思議に思っているうちに、彼の顔が見る見る青ざめて行く。ユーレリウスの視線を辿り――自分の手のひらから鮮血が滴り、水の中で赤い波紋を作っていることに気づいた。池の中に陶器の欠片が落ちていて、そこに偶然手をついてしまったのだ。


 池の中と外で、二人の子供が言葉も無く立ち竦んでいると、近くにいた使用人たちが悲鳴を上げた。池から引き上げられたファナが茫然としている内に、大人たちがあれよあれよと集まって来た。自身の痛みよりも、オロオロと泣く義母や、憤怒の表情で弟の頬を一打したゼラリオの方が衝撃だった。


 傷は医者に縫合してもらったが、泥の中で手を切ったのがよくなかったのか、ファナはその日の晩に高熱を出した。浅い眠りから目を覚ますと、熱に潤む視界の中に美しい顔をクシャクシャにする少年の姿があった。


『……ごめんなさい……こんなつもりじゃなかったんだ……』と、泣きじゃくるのはユーレリウスだった。熱が見せる奇妙な夢かと思ったが、後で聞けば激怒したゼラリオに、ファナが回復するまで付き添えと命令されたらしい。


 普段温和な兄に叱られたことが相当堪えたのか、ユーレリウスは侍女たちの指示に口ごたえもせず、ファナの氷嚢(ひょうのう)を取り替えたり、額の汗を拭いてくれたりした。体を起こせるようになると食事の世話もしてくれた。年下の少年から、まるで赤子のように食事を口元に運んでもらうのは恥ずかしかった。しかしファナが匙を口にすると、ユーレリウスは安心したのか泣き出しそうに微笑んだ。その無垢な笑みを見た瞬間、恨み言を言ってやろうと思っていた気持ちは急にしぼんでしまった。


 その後、『年の離れた弟を甘やかし過ぎた』と、ゼラリオはユーレリウスを隣国の宮廷へ遊学に出すことに決めた。理由はそうであっても、ファナの件がきっかけなのは明らかだった。


 旅立ちの日は、ファナが怪我を負ってから二か月後のことだった。別れの挨拶のため、ひさびさにユーレリウスと顔を合わせることになった。彼はいつものように、嫌味の前兆である意地の悪い笑みを閃かせかけたが、すぐに表情を消した。その視線の先が、まだ白い包帯が巻かれた自分の手であることに気づいた。


『……行ってくる。元気で』


 顔を伏せたまま告げられた、らしくもない短い挨拶に、ファナが何と返したかは覚えていない。ただ、それが八年もの別離になるとは思ってもいなかったことは確かだった。






 執事から伝言を聞き慌てて庭園に出ると、魚でも眺めているのか、池のほとりにしゃがみ込む男の姿があった。初夏にふさわしい涼やかな白藍色の上着コートをまとっていて、どう見ても使用人ではない。軽く癖のある銀色の髪に一瞬ゼラリオかと思ったが、彼とはついさっき屋敷の中ですれ違ったばかりだった。


 ファナが近づいていくと、男がゆっくりと立ち上がった。その背丈はゼラリオよりも頭半分は高い。細腰だが広い肩幅はひ弱さとは無縁で、精悍そうな体つきだ。


 男が振り返ると、アメジストの瞳がはっきりとファナの姿を捉える。姿形は変わっても、宝玉のような瞳はあの頃のままだった。精巧な細工のように整った目鼻立ちは幼さが削がれた分、より洗練されたように見える。形のいい唇が小さく笑みを作った。


「……久しぶり」


 低い声に愕然とする。記憶にある少年は、小鳥のように愛らしい声をしていたはずなのに……。十一歳の少年が十九歳の青年になったのだ、考えるまでもなく当然のことなのに、ファナの中ではあの少女のように愛らしい少年と、目の前の立派な青年が結びつかなかった。


 ファナが反応を返さないでいると、端麗な眉がかすかに寄せられる。


「お帰り、とは言ってくれないのか?」


「ごめんなさい、びっくりし過ぎて…………。お帰りなさい」


「ただいま。まあ変わったよな。お互いに」


 両手を広げて苦笑するのは、間違いなくあのユーレリウスだった。どこか悪童めいた笑い方は、子供の時の面影を確かに残していて、少しだけ安心した。


 彼の言う通りファナだって成長した。十四歳の頃より背も伸びた。あの頃、既婚者だからと設えられた大人向けのドレスは、我ながら『着られている』としか思えなかった。今ではそれなりに女性らしく体つきも変化したので、ドレスと釣り合いが取れているはずだ。


 だが変わったのは見た目だけ。このダルクレア家における自分の中途半端な立ち位置は何も変わっていない。嫁して来た身でありながら、ファナが何の義務も果たしていないことを、ユーレリウスはまだ知らないのかもしれない。


(だって知っていたら、こんな風に穏やかに私に語り掛けてくれるはずない……)




 とはいえ、ユーレリウスが心身共に成長したことは間違いなかった。少年時代の、いつも刺々しく何かに苛立っていた様子が嘘のようだ。今のユーレリウスがまとう空気は凪のように静かでありながら、大樹のように揺るがない頼もしさがある。


「あなたはずいぶん落ち着いたわ」


「私ももうすぐ爵位を継ぐ身だ。……それに結婚も決まったんだ。いつまでも子供の頃と同じというわけには行かないだろう」


「そうだったの……」


 ダルクレア家は複数の爵位を所有している。彼の言う爵位とはこの家の、『叔父』から『甥』に継がれる子爵位のことだろう。現在その地位には、先代公爵に弟がいなかったため、ユーレリウスらの大叔父が就いている。現子爵は老齢のため、そろそろ隠居を考える頃だ。


 さらに驚くことに、いつの間にかユーレリウスには婚約者がいたらしい。隣国で懇意の女性ができたのかもしれない。彼も大人だ、そういう人がいてもおかしくはない。今のユーレリウスならば、きっと妻になる女性と良い家庭を築けるだろう。


「よかったわね。おめでとう」


「他人事みたいに言うんだな。君にとっては喜ばしいことではないのか?」


 かつての響きを残す、すねたような声音にはっとする。仮にも家族の慶事だ。――正式な書類が整うまで、今はまだかろうじてユーレリウスは弟だ。彼の言う通り、義姉の立場ならもっと喜んでみせるべきだった。彼とは確執があったとはいえ、それが大人の振る舞いといものだ。


「本気で素晴らしいと思うし感心もしてるわ。……あなたは本当に立派になった。必ずこの家やゼラリオの助けになるわ」


「早く皆の役に立てるよう努力するよ。大叔父上にも長年に渡って負担をかけてきた。もう御年だし早く楽をしていただきたい」


 殊勝な言葉にファナが改めて驚いていると、ユーレリウスが笑みを消した。あの日離縁を切り出した、兄ゼラリオとその表情は似ていた。


「……さっそくなんだが、君と兄上の離縁について相談したい」




(なんだ……知ってたんだ)


 情けなさや不甲斐なさに身の置き場のない思いがした。同時に少しほっとする。夫婦の事情を知りつつ、ユーレリウスは今も家族としてファナに接してくれていたのだ。


「すまなかった、ファナ。……ダルクレアの奥方として、これまで君に肩身が狭い思いをさせてしまったのは、僕が未熟だったことが原因だ。もし君が兄上との離婚を承諾できないのであれば――」


 それまで、どこか取り繕っていたような口調が変わった。ユーレリウスが本音で話そうとしていることが伝わる。


(……もしかして、あの事故のせいで夫婦関係がうまくいかなかったって思ってるの?)


 気に病んでいたなら、むしろ悪いことをしてしまった。ゼラリオの真実の愛が誰にあるのか、長く離れて暮らしていたユーレリウスが知らないのも当然だ。だがさすがに、それを自分の口から言うのは気が咎める。


「そのことはもういいの。ええっと――つまりね、私はもうずいぶん前からこうなる予感がしていたの。だからあなたが気にする必要なんて、これっぽっちもないわ」


「そうだったのか……」


 ユーレリウスは安堵したように肩の力を抜いた。彼が夫婦の事情について深く追求してこなかったことに、ファナもまた胸を撫で下ろした。


「君が理解してくれていて安心した。お互いの新しい人生のために、これからのことをきちんと話そう」


「ええ、もちろん。私は大丈夫よ」


「とは言ったものの……離婚については貴族院の裁可が降りるまで、三ヶ月程度は見てほしい」


「ずいぶん時間がかかるのね」


「あまり世間に例のない状況だからな。ただ漫然と待っている必要はない。今後の正式な住まいはゆっくり考えるとして、君は一旦けじめのためにこの屋敷を出た方がいいと思う」


 ユーレリウスの言葉はもっともだ。ファナは少し考え込む。




「だったら……私、リリディアに行きたい」


「リリディア? ――ああ、慰謝料として君の名義になる土地と建物か。確かにどう使おうが自由だが、領都からは遠いし別荘は人に貸すこともできる。わざわざ君が住む必要もないだろう」


「実はね、子供の頃から海の近くに住むのが憧れだったの」


 喧騒を離れ、穏やかな波の音を聞きながら、今までと、そしてこれからの人生に思いを馳せるのも悪くない気がした。ファナの言葉に、ユーレリウスが思案するように顎に手を当てる。


「……まあ行き来できない距離ではないか」


 離縁するとはいえ、ファナは今後も領内に住むことになるのだから、領主であるダルクレア家へ礼を欠かすわけにはいかない。ダルクレア家としても『ルヴェリエ侯爵令嬢』であるファナを粗雑には扱えまい。茶会や宴席などに招かれ、今後も何かと屋敷に足を運ぶ機会は多いはずだ。気は進まないが立場上、社交を疎かにするわけにはいかない。


 嫁して来たのに、何の成果も出せなかった自分への世間からの評価は厳しいだろう。噂話や批判は覚悟しているが、せめて自宅では静かに過ごしたい。その点、領都から離れた海辺の館は打ってつけだと思えた。


「わがままを言って申し訳ないけど、住まいは街から離れたところがいいわ」


「わかった。君の望みならば、なんとか都合を付けよう」


「ありがとう。――ユーリス」


 初めて出会った日、愛称で呼びかけたら『気安く呼ぶな!』と怒鳴られた。今なら許されるかもしれないと、少し緊張しつつその名を呼んでみた。恐る恐る彼の表情を窺うと、唇を固く引き絞りどこか怒っているようにも見えた。


「……ごめんなさい。馴れ馴れしかったわね」


「そんなことはない! 本当はずっと君に謝りたかったんだ」




 一歩踏み出したユーレリウスが、ファナの右手に視線を向ける。


「見ても?」


「いいわ」


 ファナが右手から手袋を抜くと、ユーレリウスがそっとファナの手を取った。秀麗な顔が痛まし気に歪められる。


「すまない。やはり傷が残ってしまった……」


「気にしてないわ。どうせ手袋で隠れてしまうもの」


「女性に一生残る傷を負わせたんだ。……とやかく言う人もいるかもしれない。君はもっと怒るべきだ」


「でも本当に気にしていないのよ。他人は何を思ったってどうだっていいわ。後はそうね……次の旦那様が気にしなければそれで十分よ」


 そんな予定も可能性も微塵もないが、暗い空気を払拭するためにわざと冗談めかして言った。さすがに離縁する家の人間に不謹慎だっただろうかと、ユーレリウスの顔を伺うと、どこか泣き出しそうに顔を歪めた後、すぐに晴れやかに笑った。


「気にするはずないだろう。……うん、確かに君の魅力はそんなことでは損なわれない」


「あ、ありがとう」


 手を握られたまま、白皙の美貌に見つめられドキドキした。所在なさに、ファナはさりげなく手を引き抜く。


「……なあファナ。僕と仲直りしてくれるか?」


「もちろん。よくってよ、ユーリス」


 わざと気取って言えば、子供の頃に戻ったような屈託のない笑顔で笑われた。釣られてファナも思わず噴き出す。


(そうだった……私はこの子と――)




 最初に出会った時のことを思い出す。


 ファナは『この素敵な子と友達になりたい』と瞬時に思った。ファナには小さな頃から対等な友達がいなかった。時々遊び相手として使用人の子が遣わされたが、誰もが令嬢であるファナによそよそしかった。


 昔から一番の仲良しは、とびきり綺麗で誰よりも賢い子がいいと思っていた。ちょっと気が強いけど優しく勇敢で、どんな時も何があってもその子は自分の味方でいてくれる。そして朝起きて、眠る瞬間までいつも一緒に過ごすのだ。


 お気に入りの物語みたいに、親友同士お揃いのリボンを髪に飾って街に買い物に出かけ、夜はお泊り会をして――そう閃きかけた夢は、美しい唇から発せられたとは思えない、酷い罵倒であっさりと砕けた。


「ファナ、どうかしたか?」


 物思いに浸っていたファナは慌てて首を振る。


「ううん、なんでもないの」


 もうファナは子供ではないし、そもそもユーレリウスは少女ですらなかったのだが。それでも夢見たような形とは違うが、友達になることはできた。だからもう思い残すことはない。これでいつでも堂々とダルクレア家から旅立っていける。


 ようやくファナは、清々しい気分で心から笑うことができた。






 ※※※※※※※※※※






 ファナとゼラリオの離婚が決まってから二週間が経った。


 その日ファナは、領都より馬車で半日ほど西に移動した海岸にいた。背後には崖があり、設置された長い階段の上には緑の三角屋根の館が立っていた。慰謝料としてダルクレア家からファナへと譲られた別荘だ。


(冷たい……)


 ファナは寄せては返す波に足を浸していた。少し離れた砂の上に、脱いだ靴と長靴下が置いてある。鈍色の雲が広がる中、吹きすさぶ風がひょうひょうと寂し気な音を立てていた。


 日差しがあれば水遊びが楽しめる時期ではあるが、この所の長雨のせいか、季節外れの寒さに見舞われていた。それでも憧れだった海辺の家にようやく到着し、どうしても海に入ってみたかったのだ。


 水遊びではしゃぐような年齢ではないが、ファナは幼い頃から、いずれ名家に嫁ぐ身だからと危険な遊びは禁じられてきた。家門という枷から解き放たれ、ついに自由の身になったのだから、今まで禁止されてきたことをやってもいいのではないかという、誘惑を抑え切れなかった。


 勢いで海に入ってみたものの、やはり寒いものは寒かった。濃い潮の香りや思いのほか力強い波、足の指の間を動く砂の感触に感動したのは一瞬で、すぐに我に返った。




(私ったら、何してるんだろう……)


 外部の人間が立ち入らない場所とはいえ、野外で靴や靴下を脱ぎ素足をさらすなど、貴婦人とは思えないはしたない行為だ。他人に見られたら、気がふれたと思われるかもしれない。我ながらバカげた行為に呆れると同時に、ささやかな背徳感と高揚感に思わず笑いが込み上げてくる。心地よさにはほど遠く、身震いするほど寒かったが、気分は不思議と爽快だった。


(やっぱり早くここに来てよかった)


 今頃、ファナがダルクレア家に置いてきた書置きを見て、家の者たちが慌てているかもしれない。離婚に先立ち別荘の譲渡証を受け取ったファナは、ゼラリオや義母に何も告げずここに来てしまった。彼らに言えば、『せめて正式に離婚が成立するまでは』と屋敷に残るよう言われるだろうし、別れを惜しまれれば離れがたくなってしまう。


 ユーレリウスが不在なのも丁度よかった。彼はファナと和解した翌日、再び隣国に戻ってしまった。ずいぶん急な帰国だと思っていたら、本当に身一つで慌てて戻って来たらしく、改めて身辺の整理や親しい人々への別れを済ませるつもりだったらしい。


(もしかすると婚約者の女性を迎えに行ったのかも……)


 近々他人となる女が、一つ同じ屋根の下に住んでいるとなれば、ユーレリウスの婚約者もいい気はしないだろう。そして今のユーレリスならば、義姉を早々に追い出すような真似はしたくないと気を遣ったかもしれない。だからちょうどよかったのだ。




 ファナは身震いすると同時に、小さくくしゃみする。風が強くなってきた。さすがにそろそろ限界だ。風邪などひけば、新しい館の使用人たちにも迷惑がかかる。戻ろうかと振り返ると、崖の下に一人の男が立っているのが見えた。


「ファナ!」


 怒声と言っていい呼びかけに、ファナはぎょっとする。館から階段を駆け下りて来たのか、肩で息をするのはユーレリウスだった。遠目から見ても、その顔色は具合が悪いのではと思うくらい真っ青だ。


「ユーリス!?」


 半月ほどで戻ると聞いていたので、そろそろ帰って来てもおかしくはないのだが、領都にいるはずの彼がどうしてここにいるのだろう。


「いいか! そこを動くなよ!」


 険しい形相でずんずんと近づいてくるユーレリウスは、ブーツやズボンの裾が濡れるのも構わず海の中に入って来る。呆然とその様子を見ていたファナだったが、ハッと我に返る。


「ダ、ダメよ! こっちに来ないで!!」


 義弟とはいえ、互いにもう子供ではないのだ。素足が丸出しの状態を異性に見られるわけにはいかない。とっさに沖の方へ逃げるが、ふいにずるりと足元の砂地が滑る。


 あっ、と思った瞬間には頭の先まで水の中に沈み込んでいた。肌を刻むような水の冷たさと、大量に飲み込んだ海水のせいで一瞬のうちに恐怖に襲われる。陸の上では軽やかに広がるドレスが、水の中ではまるで拘束具のように体の自由を奪う。波に何度も揉まれ、もはや上を向いているのか下を向いているのかもわからなかった。


 耳を打つ血流の音がどんどん大きくなるのと引き換えに、視界が暗くなっていく。あれほど苦しかったのに、ある瞬間からふいにまどろむような心地よさを覚える。波に誘われるまま海の底へ、わずらわしい物など何もない、暗く冷たい場所で眠るのも悪くない……。そう思いかけた瞬間、まるで弱気を叱咤するような強い力がファナの腕を引っ張った。








(頭痛い……)


 目の奥がズキズキとする痛みに、意識が呼び戻される。


 周囲は暗かったが、身を包むリネンの香りや枕の感触でここが新しい住まいのベッドであることはわかった。ふと傍らを見れば、椅子に座った青年が頭を抱えるようにうずくまっている。燭台の灯りの中でも、銀髪の青年の姿ははっきりと捉えられた。まるで自ら光を放つような存在感がある。


(そうだ……私は海で……)


 溺れたことは覚えていた。すぐにユーレリウスが引き上げてくれたことも。銀の髪が顔を覆い、ユーレリウスの表情は見えない。もしかして眠っているのだろうか。ファナはユーレリウスの前髪に手を伸ばしてみる。指が触れるか触れないか距離で、彼がはっと顔を上げた。


「ファナ……!?」


 ユーレリウスは椅子から転げ落ちる勢いで床に膝を付くと、ファナが伸ばしかけていた手を両手でぎゅっと握った。


「大丈夫か……苦しい所はないか?」


「ごめんなさい。迷惑をかけて……」


 潮水を飲んだせいだろう、酷い風邪を引いた時のように喉や鼻の奥が痛かった。かすれた声で応じながらファナが身を起こそうとすると、ユーレリウスが背中を支え、ヘッドボードのクッションにもたれさせてくれた。体力を消耗した身体はひどく重く、ただそれだけの動作も大変だった。ふぅ、と小さく息をつき改めてユーレリウスを見る。その瞳はまるで怯えたような色を湛えていた。


「ファナ、僕が君を追い詰めたのか? 死にたくなるほど嫌だったのか?」


「何の……話?」


「だって君は自害する気で海に――」


 とんでもない誤解に、ぼんやりしていた意識が唐突に覚醒する。


「え!? 待って、違うわよ! 私は海で遊んでいただけ!」


「こんな天気の日に、いい年をした大人がか!?」


「こんな天気の日に、いい年をした大人がよ!」


 悪かったわね、とファナは赤く染まる顔を隠すためそっぽを向く。その態度に嘘はないと察したのか、ユーレリウスが脱力したよう崩れ落ちた。




「だからって……何も言わないで、新居に一人で行ってしまうなんてひどいじゃないか」


「それは不義理だったかもしれないけど……。そんなことより、あなたどうしてここに来たの? もうすぐ離縁する義姉のことなんかより、大切な人のことを考えてあげるべき時期でしょう」


「……君こそ何の話だ?」


「だから隣国に愛する女性がいるのでしょう。もうこちらに連れてきたの?」


「僕が愛人を引き込むような人間だと思っていたのか!?」


「あ、愛人だなんて、そんな言い方してないわよ!」


「わかっている。僕が君にしたことは許されるものじゃないし、年下の頼りない男に不満があるのも理解できる。……でも、だからって笑顔で受け入れてくれた振りをして、こんな仕返しや意地悪を言うなんてあんまりじゃないか!」


「仕返し?」


「まだとぼけるのか!? 君が僕のことを受け入れてくれたと、本気で信じていたんだぞ! さぞや滑稽(こっけい)だったろうな……」


 唇をわななかせる様に、心当たりはないが胸を締め付けるような罪悪感が込み上げる。言葉を失うファナに何を思ったのか、ユーレリウスは口の端を歪めるように笑った。それは子供時代の意地悪の前兆にも似ていたが、まるで傷ついた心を取り繕う、悲しい笑みに見えた。


「……だが残念だったな。ダルクレア家とルヴェリエ家の結婚は国王陛下がお決めになったことだ。兄上に結婚を継続する気はないし、そうなれば弟である僕と結婚する以外に君の道はない。実家にもどこにも帰る場所なんてないからな」


「あなたと結婚……私が?」

 

 思いがけない言葉に、ファナは頭の中でユーレリウスの言葉を何度か反芻する。……もしかすると、自分はとんでもない思い違いをしていたのではないだろうか。




「待って。つまり私はゼラリオと離婚した後、ユーリスと再婚する手筈になっていたということ?」


「今更とぼけるのか!? この前だって、お互いの新しい人生のために話をしようってちゃんと言ったじゃないか!」


「そんなこと――」


 ファナは先日のユーレリウスとの会話を思い返し、やがてポツリとつぶやく。


「……言ってたかもしれない」


 ユーレリウスは信じられない物を見るように目を見張った。やがて大きく息を吐くと、そのまま脱力したようにファナの枕元へ突っ伏す。


「本当にわかっていなかったのか」


「ごめんなさい。ゼラリオからも何も聞いてなかったから……」


 いや――ゼラリオはファナの今後について、確かに説明しようとしてくれた。それを適当に遮ったのは間違いなく自分だ。


 そもそも少し考えてみれば当たり前のことだった。ユーレリウスの言う通り、この結婚は家の問題だ。ファナとゼラリオが婚姻関係を継続できないのであれば、その弟が引き継ぐのは当然だろう。


 どうしてファナがこの別荘に住むことを、ユーレリウスが渋っていたかやっとわかった。ファナは独り身となった『自分』が住む場所の話をしていたつもりだったが、ユーレリウスは『若夫婦』の新居の話をしていたのだ。


 傍から見れば自分は、結婚を快諾したと見せかけて、新しい夫が不在の間に一人でさっさと新居に行ってしまった薄情な女だ。しかも当てつけのように入水しようとしていたのだ。ここに至るまでの勘違いとすれ違い、何よりユーレリウスの絶望や恐怖を思い知り、頭を抱えたくなった。




「あの、ユーリス……?」


 どう言葉をかけようかと迷っていると、ユーレリウスはシーツに伏せた顔の下で、くぐもった笑い声を立てた。


「もしかすると兄上は僕の口から結婚を申し込めるよう、花を持たせてくれたつもりだったのかもしれない。でも恰好なんかつかなくてもよかったんだ。君が僕のことを特別に思っていなくても、家のため渋々だとしても、君を花嫁に迎えられるのならそれでもいいと思ってた。……浅ましいだろう?」


「私、ずっとあなたに嫌われているのかと思ってたわ」


「そんなことない。あるはずない」


「だってあなた、初対面の私に『カラス女』って言ったのよ。それ以外にも意地悪をいっぱい言われたわ」


 ユーレリウスはばつが悪そうな表情で顔を上げた。


「それは本当にすまないと思っている。でも本当に最初から惹かれていたんだ。君は僕と三つしか変わらないのに、とても賢そうで大人びていて綺麗な女の子だったから」


「う、うそ……」


「本当だ! 光が当たると青い光沢のある黒髪も、満月みたいな琥珀色の瞳も信じられないくらい綺麗で目が離せなかった。世間じゃ僕らのことを『月の精霊』なんて呼ぶけど、君の方がよっぽど月の化身みたいだと思った」


 思わず肩に流れる自分の髪に触れると、指の間をしっとりした感触が通り抜ける。あの日以来くすんで色あせたように思えた髪だったが、侍女たちに厳しく言われていたように手入れを怠らなくてよかった。


「でも兄上の手を取った君は、子供の僕など眼中にないだろうと思っていた。だから悔しくて腹立ちまぎれに酷い事を言ってしまった。好意の伝え方もわからなくて、何でもいいから気を引こうと必死だったんだ。……本当に愚かだったと思ってる」


 確かにファナが泣いたり怒ったり反応を示すより、無視する方がユーレリウスは悔しそうにしていた。




「それで君に怪我をさせた時、兄上に『こんなことでは、お前にファナを託せない』と言われたんだ」


「やっぱり、ゼラリオは最初から私と夫婦になるつもりはなかったのね」


「……君は兄上を愛していたのか?」


「もちろん大切な人よ。でも……そうね、確かに私たちは年齢の差を抜きにしても夫婦にはなれない――なりようがなかったのよ」


「ファナ、薄々気づいてるかもしれないが、兄上は女性に対して――」


「うん、知ってるわ。男性の恋人がいるのよね」


 あの日、庭でゼラリオを抱きしめていたのは、彼の親友であるはずの宮廷騎士の青年だった。結婚式の日に誓ってくれたように、ゼラリオにとってファナは『妹』以上の存在になり得ないことは、最初から明白だったのだ。


 ルヴェリエ侯爵家が当主の一人娘を差し出した以上、ダルクレア家も公爵の花嫁として迎えるのが筋だ。それは年齢の釣り合いよりも優先されることで、政略として自分たちの結婚は必要な過程だったということは納得している。


 その上でゼラリオが政治的な思惑抜きに、ファナを家族として守り続けてくれたことに疑いはない。もちろん彼に対する尊敬の念は今も昔も変わらない。ただゼラリオの隣に並び立つ自分以外の存在に、すんなりと納得してしまった時点で、ファナの中でもとっくに答えは出ていたのだ。




「あんなに家族に怒られたのは初めてなのに、いつかファナと結婚できるかもしれないと知ってうれしかったんだ。でもその日の晩に君は高熱を出した。大好きな人を傷つけるだけの自分が不甲斐なくて惨めだった。だから遊学に出て、大人の振る舞いを学ぶことにしたんだ」


「じゃあ、私のためにあなたは遊学に出たの?」


「学ぶだけなら実家にいてもできた。でも君とは一旦距離を置いた方がいいと、兄上に言われたんだ」


「だからずっと家に帰って来なかったのね」


 ユーレリウスの遊学について、ゼラリオはあくまで『弟の将来のため』とファナに説明した。だが自分のせいで義弟を追い出してしまったのでは、という気持ちはずっと付きまとっていた。そしてそれは、あながち間違いではなかったのだ。


「落ち込まないでくれ。確かに中途半端ではなく、ちゃんと成長した姿を君に見せたかったというのはあるけど、それは単なる僕の意地だ」




 ユーレリウスが身を乗り出す。シーツの上に置いていたファナの手に彼の指先がぶつかった。


「ファナ、君の目に映る僕はあの頃より多少ましになっただろうか?」


「ましって言うか……す、すごく、格好良くなったわ……」


 咄嗟に口を突いて出た稚拙な言葉に、自分でも呆れてしまう。淑女ならばもっと気の利いた知的な言葉で伝えるものだ。それでもユーレリウスは笑ってくれたのでほっとする。同時に熱に潤んだように、アメジストの瞳が揺らいだことに気づく。


「僕は君と結婚したい。必ず幸せにする。眼中にすらなかった子供にこんなことを言われても、君にとっては意に添わぬことだろうけど」


「そんなことないわ」


 ファナは笑って首を振った。ダルクレアの屋敷に足を踏み入れた日のことは、きっと一生忘れない。


「私ね、あなたに出会った時に言いたかったことがあるの。――お友達になりましょう、って。私の好きな本に、寄宿学校で出会った女の子たちが無二の親友になる話があるの。毎日一緒に遊んだり勉強したり、おしゃれしてお出かけしたり……。それから消灯時間の後、こっそりベッドの中にお菓子を持ち込んで秘密のお茶会をするの。そんな友達になってくれればいいのにって、あなたを見た瞬間すぐに思ったわ」


「当時は子供だったとはいえ、さすがにベッドに忍び込んだら怒られていただろうな」


「だって女の子だと思ったから」とは言えず、ファナは笑って誤魔化した。




「なあファナ、あの頃はできなかったことを――今も君が望んでくれるなら、おしゃべりでも、外出でもお茶会も何でも付き合う。でもすまない……友達にはなれない」


 僕がなりたいのは別のものだから、とユーレリウスははっきりと言った。


「……うん。わかってる」


 子供が背負うには複雑すぎる環境のせいで、結局自分たちは友達になる機会を逃してしまったのだ。それは何をしたって戻らない。


(振られちゃったわね)


 ファナが苦笑すると、触れているだけだった指先が動き、はっきりとした意志でもって自分の手を握った。ひ弱さや柔さとはほど遠い、大きくて筋張った大人の男の手だ。生を手放しかけた自分の腕を掴み、引き戻した力強さを思い出す。


 あの幼く愛らしい少年がいないことを改めて思い知り、ファナはかすかに寂しくなる。と同時に、繋がった手から伝わる温もりに高鳴る胸は、なぜか幸福な予感でいっぱいだった。


「ファナ」


 耳元でささやかれた、熱を帯びたしっとりとした声。見知らぬ人の物のようでドキドキした。気恥ずかしさに身じろぐと、ユーレリウスがはっとしたように身を離した。


「すまない、寒かったか? 横になった方がいい」


 ファナが寒気に身震いしたと思ったのだろう。そのひどく不安そうな表情に、怪我で高熱を出した日のことを思い出す。それはユーレリウスも同じなのだろう。ファナの肩を抱くように腕を回すとベッドへと寝付かせる。まるで幼子にするような過保護な扱いに呆気に取られると同時に、密着する引き締まった身体と体温に顔が赤くなる。


「……長話をするつもりじゃなかったのについムキになった。君の体調も考えずに本当にすまない」


 こういうところがダメなんだろうなと、ユーレリウスがしょんぼりと肩を落とす。その様子にファナは上掛けを引き上げ、笑いを噛み殺した。「まだまだカワイイ所もあるのね」と言ったら、さすがに怒られるだろうか。




 ファナはふと悪戯(いたずら)めいたことを思いつく。


「ねえ、私はあなたからまだ聞きたいことも、話したいこともたくさんあるの。だから……今なら怒られないと思わない?」


「え?」


 一瞬意味を図りかねたようだったが、ファナが伸ばした両手の意味に気づいて、ユーレリウスは頬をかっと赤らめる。


「僕たちはもう子供じゃないんだぞ!」


「そうだけど、子供の頃できなかった事に付き合ってくれるって言ったわ。私はたくさん寝ていたみたいだから、今晩はもう寝付けそうにないもの」


 大好きなあの子とベッドの中で、とりとめのないおしゃべりを続け、いつのまにか寝てしまう。物心付く頃から、大きな部屋で一人きりで寝させられてきたファナがやりたかったことの一つだ。おしゃべりのお供のお茶もお菓子もなかったが、ユーレリウスがいてくれるならそれでよかった。


「ね?」と、促すようにファナがさらに両手を広げると、ユーレリウスは額を押さえ、根負けしたように大きな溜息をついた。やがて、ぎこちない動きで上着を脱いで椅子に掛ける。


「怒られないって、それがどういう意味かわかっているのか……」




 ファナがベッドの場所を空けると、ユーレリウスは恐る恐るといった感じで上掛けをつまみ上げ、ベッドに身を横たえた。少し寝返りを打てば落ちそうな端っこから動かないので、仕方なしにファナが身を寄せる。小さくユーレリウスが息を呑む気配がした。


「そ、それで何を聞きたいんだ?」


 上擦った声で聞かれ、ファナは少し考える。おしゃべりの内容は正直なんだってよかった。


「じゃあ……ユーリスの隣国での暮らしのことを聞きたい」


「特に面白い話はないけど……ああ、あちらの宮廷に着いた当日に、向こうの第四王子と殴り合いになった。お互い周囲の大人に怒られて、まあそれ以降はいい友達になったよ」


「もうっ! 何をしてるのよ」


 面白い話はないと言いつつ、お坊ちゃまらしからぬ暴れん坊の一面があったユーレリウスの生活は、なかなか波乱万丈だったようだ。その後もたくさん驚かされ、時にお腹が痛くなるくらい笑わされた。ファナもまた平凡だが穏やかなこれまでの暮らしについて、ユーレリウスに語った。




(あったかいなあ……)


 自分以外の誰かの体温が、こんなに気持ち良いのだと初めて知った。ユーレリウスの話に相づちを打ちながらも、温かさにうつらうつらしてくる。やがてファナの反応が鈍いことに気づいたユーレリウスが顔をのぞき込んできた。


「ファナ、眠いのか?」


「……うん。あんなに寝たのに……ね」


「溺れたんだから無理ない。そろそろ休もう」


 おいで、と自然な動作で腕を回され引き寄せられた。ユーレリウスの胸元に頭を寄せると、石鹸だけではない心地よい香りに包まれる。その時、ユーレリウスが思い出したかのように、「あっ」と小さく声を上げた。


「君にまだ結婚の返事を聞いてなかった」


「聞くまでもないでしょう」


「でも聞きたい。君の口から」


「明日でもいい?」


「うん」


 ファナの頭の後ろに大きな手が回った。


「……いいさ、八年待ったんだ。今晩くらい待てる」


 その声には、既に隠し切れない喜びが滲んでいた。……自分もまた思っていたより感情が顔に出やすい性質だったらしい。


 閉ざしかけた瞼を少し上げると、にやつくユーレリウスと目が合った。腹立ち紛れに、わざと頭をぶつけるように彼の胸元に身をすり寄せると、くすぐったそうに声を立てて笑われた。少し悔しいが、この甘くじれったい空気はファナにとっても心地悪いものではなかった。


 明日起きたら真っ先にこの想いを伝える。真っ赤な顔で懸命に平静を取り繕うとするユーレリウスはちょっぴり可愛くて、どうしようもなく愛しいはずだ。それから一緒に朝食を食べて、その後は同じ馬車に乗ってダルクレアの屋敷に戻ろう。ゼラリオや義母を安心させてあげたい。ユーレリウスが一緒なら、密かに気になっていたゼラリオの秘密の恋人に関しても聞き出せるかもしれない。




 大きな手で頭を撫でられ、髪を指で梳かれる心地よさに意識がだんだん微睡(まどろ)んでくる。


 昔から一番の仲良しは、とびきり綺麗で誰よりも賢い子がいいと思っていた。ちょっと気が強いけど優しく勇敢で、どんな時も何があってもその子は自分の味方でいてくれる。そして朝起きて、眠る瞬間までいつも一緒に過ごすのだ。


(思ってたのと少し違うけど……)


 ファナはその晩、これまでの人生で一番幸せな眠りについた。夢は見なかった。









最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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2024/07/30

とあるキャラについての補足の追記がありましたが、続編を執筆したので削除しました。

このお話の裏話+後日談となる『十二歳の花嫁を迎えた公爵は十年後に離婚したい 』を更新しました。今作に登場する兄ゼラリオのお話です、ファナたちの子供の頃や、結婚後しばらくしてからのエピソードが含まれています。


2025/03/26追記

コミカライズ化の打診を受け、頭の中の構想だけでふんわりと書いていた設定などを洗い直した結果、またこの物語の登場人物たちの話を書きたいという願望がわき現在執筆中です! いずれ長編か中編でお付き合いいただければうれしいです。


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コミカライズから参りました!とっても素敵な絵とお話に引き込まれてしまい原作もこんなに可愛らしいお話なのかな…と気になり、なろう小説にどハマりしていることもあってこちらに辿り着きました。アンソロジーだと…
[良い点] テンポよく読後も続編が読みたくなる作品 補足っていつも蛇足に感じて、必要ない作品として組み込んでほしいと思う派でしたが、補足読んでますます続編が読みたくなりました。 作家様がご負担に感じて…
[一言] 実は、海で溺れたファナを助けるかわりに、ユーレリウスが死んでしまっていて、最後に想いを告げる為に夢枕に現れた。 もしくは、ファナが罪悪感から逃避する為、自分もユーレリウスも助かっていたと妄想…
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