#1. 駆け出した音楽家-1
彼女はどうして自分がこんな目にあっているのか、本当に分からなかった。
「はぁっ…はぁっ。」
唾を飲み込むのでさえも辛い息遣いで懸命に風を切っていく。
ただひたすらに前だけを見据えてがむしゃらに速度だけを求めていった。
「待ちやがれ、コイン泥棒!」
背中に罵声を受けながら必死に走る少女がいる。それが数刻前までは高台の上から期待に胸を膨らませて街を眺めていた彼女だ。
数刻前の彼女の姿を知る者で誰がこの懸命に走る少女と同一人物だと思えるだろうか。
しかしそれは現実で、残念ながら希望に満ちていたはずの街の中で彼女は追われ逃げているのだ。
人混みを懸命にかき分け、その胸に絶対に離すまいと必死に抱きかかえた弦楽器を擦らせながら懸命に足を動かした。
「コイン泥棒!?嘘ばっか言わないでよ!お金なんて貰ってないじゃない!」
確実に混乱している頭でも文句だけは何も考えずにスルリと口から零れていく。
例え息が切れていても難なく文句が出てくるのは性格だし、むしろ条件反射の様なものだ。
女は無口が華なんて誰が言った?
そんな反抗心でさえも燃やしながら身体は必死にこの状況から逃れようともがいて走り続けている。
「待て!そこの女-っ!」
「だから…っ一体何なのよっ!?」
全くと言っていいほどこの状況を把握できてないながらも、自分の身に危険が迫っていることを本能で察知して逃げ出した。
いま彼女が逃げ続けているのもその本能に従っているからだ。
「ごめんなさい!通して!ごめんね!」
逃げ切らないと明日はない気がする、しかしここは辿り着いたばかりの街で残念ながら土地感覚は全くと言っていいほどない。人も多いし何なら旅人である彼女はその姿も少し珍しく見えるのかもしれない。
絶対的に不利。
「だからって捕まってたまるか!!」
そう叫んだが最後、腹を括った彼女はこれまでの旅の疲れも全て背負って必死に自分の身体に鞭を打つことに決めた。止まったらもうそこから動けなくなる予感がして少しの休憩も命取りになると考えたのだ。
「行け。シャディア!」
自分自身に気合を入れるとシャディアは海が見えるこの街の階段を跳ぶ様にして駆け下りた。とにかく逃げろ、直感を信じて一刻も早くこの広場から立ち去るのが最善策だと考える。というよりもこの街から出た方がいいとさえ思うくらいだ。
「ひゃあ!ごめんなさい、通してー!」
階段を上ってくる人たちにぶつからないよう、身を翻しながら走り続けているとまたも追いかけて上から声が降ってきた。
「おい、待てそこの女!!」
反射的に足を止めて見上げれば階段の一番上から下りようとする男がいる。間違いない、それはあの男だ。若い。それでも自分よりは年上に見えるが荒くれた服装は簡単に話を終わらせてくれそうにない雰囲気を醸し出している。
つまりは捕まったら最後なのだとシャディアは本能で察し全身が震えた。
「絶対ヤバイやつ!絶対ヤバいやつ!!」
危機感が増してシャディアはさっきよりも気合を入れて走り出した。何故こんな状況になっているのか、やはりまだ分からない。
シャディアは段々となっているこの街上側の区域にある広場で楽器を鳴らしていた。旅の共に携えてきた弦楽器、幼い頃より常に生活の中にあったシャディアの一部のようなものだ。弦に触れ音を鳴らすのは呼吸をすることにも等しいと思う。
これといって決まった曲を弾くのではなく、ただ当たり前のように取り出し思うがままに弦を弾いて音を奏でていた。気の向くまま、思いのままに。初めて訪れたこの街の雰囲気が心地よくて、思わず響かせたのが始まりだった。
ポロンポロンとまるで風の気分で音を奏でる風鈴の様に特に意味を持たず指が流れるように減を弾いていくだけのささやかな音楽だ。この楽器を愛してやまないシャディアにとってはほんの一音でも景色に溶け込むだけで満たされる思いだった。
やはり気分がいい。良く晴れて風もやさしく流れている今日の天気に合うだろうと、最高の気分で指を動かしていたら次第に観客が集まってきた。別に足元に箱を置いていた訳じゃないから集客による金銭目当てのつもりではない。ただ何の気なしに奏でていただけ、でも人が集まってくることに悪い気はしなかった。
「綺麗な音だな。一曲弾いてくれないか。」
「ありがとう。じゃあ…一曲だけ。」
目の前に居た陽気なおじさんがシャディアに声をかけてきたので頷いたのが最初。
少し緊張しながらも、よく聞いたこの国に伝わる懐かしい曲を奏で始めれば感嘆のため息が聞こえてきた。
何ていい気分、自分で自分の音に酔いしれて乗っていくのがわかった。少しずつ観客が増えていくのが音の波動で伝わってくる。
この街は思った以上に大きな街のようだ。人の気配をこれほどたくさん感じたことは今までに無く、そしてこんなに多くの人の耳を向けさせたことも今までに無いことだった。たくさんの人が自分の音に身を寄せて浸っている。
なんて優越感だろう。感じたことのない空気に包まれシャディアの気持ちも大きく昂った、だからこそより良いその音に包まれて奏でることが出来たのだがそれもすぐに終わってしまったのだ。
「演奏をやめろ!!」
それこそがあの男の乱入。いきなり止めろと叫ぶなりその男は下手だの何だのと文句をつけて詰め寄ってきた。後方から大股に近付いてくる男に周囲も唖然として注目をしている。やがて我に返った前の方の観客のおじさんたちが明らかに理不尽な物言いの男を止めようと動いてくれたのだ。
「おい!何してるんだ!?」
「誰か警吏を呼んでくれ!」
突然の出来事に混乱しているといつの間にか目の前に来ていた男は目障りと言いながらシャディアの楽器を奪おうとしてきた。そこで初めてシャディアの身体は反応し、すぐさま荷物を抱えて走り出した。
ヤバイ。
本能的な自己防衛が働いたのだ。周りの観客が止めるのも聞かずに男が追ってこようとしたのでそのまま止まることなく全力疾走する。それが今も続いている状態なのだが、やはり男はまだ諦めていないようだ。
「一体何だっていうのよ。」
混乱に苛立ちが入り始めたがとにかく逃げることが先だとシャディアは人混みの中を突っ切ることに決めた。下段の噴水広場ではその場で食べれるようなものが売られている屋台が多いようでそれなりに賑わっている。上よりもこちらの方が人通りが多いようで少し逃げ辛くなったのは誤算だった。
でもこの条件は向こうも同じはず。人混みに紛れ逃げ切れるかもしれないとシャディアはうまくあの男の視界から逃れらる筈だと気持ちを切り替えた。走りながらも楽器を布包んで袋にしまい、人の波に逆らうようにしてどんどんと突き進んでいく。
「待て!」
どうしてここまで執着するのだろう。ただの絡みならここまでする理由はない、一体何があの男を突き動かすのか理解ができなかった。逃げ切らないと何をされるか分からない、そんな恐怖も感じて身体に力が入ったその時だった。
「きゃっ!」
「おっと!」
何かにぶつかって転びそうになった身体を足で踏ん張ろうとする、それがいけなかったようだ。
「痛っ…!?」
嫌な感覚を足首に感じてシャディアは目をきつく閉じた。なんとか転ばずには済んだが、無傷というわけにはいかなかったらしい。やってしまった、そう心の中で呟いた時だった。
「失礼、大丈夫ですか?」
俯き加減だった視界に差し伸べられた手が入り誘われるように顔を上げる。そこには真面目そうな青年の顔があった。この人にぶつかったのか、そう理解すると共に謝罪の言葉が自然と出てくる。
「すみません。急いでいたもので…。」
「畜生、どこいった!!」
まるでシャディアの言葉に被せるようにあの男の叫び声が強く耳に響いた。油断していた分、衝撃も強かったようで無意識に身体が跳ねる。声の音がさっきまでよりも近い、距離が縮まっているのだ。
「ほ、本当にごめんなさい!あのっ先を急ぎますので!…っ痛!」
逃げないと、そう思って足を踏み出そうとすれば右足に痛みが走りそれも叶わなかった。てっきりその言葉通りまた走り始めるのかと思っていた青年はシャディアの異変に気付いて首を傾げる。
「大丈夫ですか?」
「へ、平気です。お構いなく。」
手を出して断りの仕草をしながら何とかして逃げようとした。だがしかし。
「…いっ!!」
それでも足の痛みが邪魔をして思うように前へ進まない。足を強く痛めてしまったのだ、でもそんなことを言っている場合ではない。早く、早く逃げないと。
「待て!女!!」
あの男の声がだんだん近付いてきている。聞こえていないのに常に叫ばれている様な圧力を感じて心臓がばくばくと音をたてた。想像以上に痛みを訴える足を無視して進もうとするが、焦る気持ちから足が絡まりそうになり走るどころか上手く歩くことさえままならない。
「行け…シャディアっ!」
心の底から鼓舞をして自分を奮い立たせながらそれでも前を目指した。あの男に捕まっていいことなんかある筈がない。せめて身を屈めてやり過ごすなりなんなりして抵抗しなければいけないのだ。意地でも逃げ切ろうともがくが、いきなり背後から肩を抱かれて引っ張られてしまった。
「…わっ!」
「失礼。」
捕まった、そう全身の血の気が引いた瞬間頭上で聞こえた声に違和感を覚える。声の主は建物と建物の間にある小路にシャディアを連れ込むと壁になる様に通りに面した側に立った。
「…え?」
何が起きている?そんな疑問符が浮かんだと同時に、荒い足音が聞こえてあの男が近付いてくる気配を感じ取ってしまった。思わず身構えて荷物を抱える手に力が入るが、その足音は何でもなかったように通り過ぎていく。
それでもまた近くで立ち止まり苛立つような言葉を吐いて周囲から怪訝な目で見られているようだった。
「畜生…どこ行った!!?」
この通りは行き交う人が多い。誰かとぶつかったのだろう、シャディアに向けた様にその相手にも難癖をつけたようだが執着はせずに再びシャディアを探し始めた。それはシャディアの中で恐怖に変わる。あの男は確実にシャディアに強い執着を示しているのだと。
また遠くの方で苛立つ声を上げているのが聞こえるが緊張が解けることはなかった。