北京動乱編-4 援軍派遣
更新入れる前に…寝落ちしてしまった…
北京 1900年5月29日
公使たちは狂乱状況にあった。だが、その対応会議が開かれたのは翌日の29日だった
これは仕方がない。電信設備が破壊され襲撃された民間人が北京に逃げ込んでようやく状況を把握したのだから。
「清国政府に鎮圧を求めるしかないな。」
大使の一人が口を開く。
「バカな!!清国軍を信じられるというのですか⁉我々を守る戦いで真剣に戦ってくれるとは思えません。日本との戦争のように敵前逃亡が続出するだけです。」
その言葉はフランス大使のスティーブン・ピションだった。柴五郎に情報を吹き込まれた大使である。
彼は柴五郎に吹き込まれて以降、日清戦争を調べていた。特に「清国の勝利に疑いなし」ともいえる平壌攻防戦では指揮官の敵前逃亡したせいで大敗した。
さらには自国の海軍提督クールベが当時の戦艦50隻と10万の陸軍を投じても半年かかると言わしめた旅順要塞は完全に敵前逃亡によりろくに戦わずして陥落したことを改めて知った。勝者に勝因なく、敗者に敗因しかない。それが日清戦争だ。
いくらあの時よりも武装面で強化されようとも根本は同じである。
「援軍を呼ぶしかない。いや入れておくべきだったんです!!」
先日の会議で無視された自分の意見をもそこでぶつける。援軍を呼ぶこと自体は有用な意見だったが、恨み節に近い発言は不毛だった。
「北京に外国の軍隊を入れる訳にはいきません」
反対するのは当然清国の人間だった。がその意見は無視されるか論破される。
「直ちに清国軍を出動させて義和団を鎮圧せよ」
論破の内容を一言でいうとこうだった。
「善耆殿。」
清国の代表として会議に参加していた人間は愛新覚羅 善耆という名だった。その彼に声をかけるのはこれまた柴五郎。
「柴中佐。」
彼は後世には親日家として記述されている人物であるが、もっと有名な表現がある。東洋のマタ=ハリと評された女スパイ川島 芳子の実父である。
「至急、軍を使って義和団から守らねばありません。今なら間に合います。曹州教案の二の舞は防がねばなりません。」
善耆の顔が驚愕にゆがむ。
曹州教案はドイツが中国から膠州湾を租借する際に侵略の口実を与えたドイツ人宣教師の襲殺事件のことである。
これを前例に今回の事件を口実にさらなる侵略を生まぬように早急に対処すべきというのだ。
「わかりました。早急に主上にお伝えいたします。」
善耆は動揺とともにその場を立ち去る。
(知っているのか…例の密約のことを…その結果旅順をも奪われたことをも…少なくともかの国は信用していかんようだ…)




