日清戦争後 -01 終始の詰目
詰+目で明治以前の当て字表現でけじめと読みます。けじめの表現は大半がひらがな表記ですが、漢字にした場合の表現は多岐にわたります。
ただし、その中でもこの話を考えこの表現にいたしました。
1895年 5月8日
戦争は終わった。下関における日清講和条約の条文では批准(国家としての正式な同意) と同時に戦闘行為が中止され、3カ月以内での撤兵が求められた。
ただしその以前より前線での戦闘状況は事実上の終戦状況であった。批准が遅れたのは3国干渉の影響である。この戦争の結果、列強は清国が眠れる虎ではなく張子の虎であることを知り、さらなる介入を行おうとする。その際に日本は邪魔であった。
日本はイギリスを中国利権の分配協力者として味方にこの介入を防ごうと動いたが、すでに遅かった。
イギリスは中立を宣言。味方はいない。
結局、3国干渉に関して要求を呑む。その代価についての交渉はまだ終わっていない。
「田中。どうするつもりだ?各人の推薦もある。士官学校に行かんのか?」
撤兵に関しての物資輸送の調整をしていた田中義三のもとを訪れた立見尚文少将は聞く。
「通常の士官学校の入学は12月とお伺いしています。」
「君なら幼年学校の入学6月でも行けるはずだ。」
「幼年学校生は3年間(日清戦争直後5年間に延長。) 同じ釜の飯を食った連中です。その中に実戦経験のある私を放り込めば…どうなるか…確実に浮いた存在になるでしょう…」
「うーん確かにそうだ。」
「中学からの入学した人ならば私とギリギリ同年代です。兵卒上りも同時に入学するのが通例。なので12月から行きます。その前に私にはやらなければならないことが…ありますので。」
「そうか…」
広島
「台湾についての動きです。清国は条約に違反する動きを見せています。すなわち、台湾独立を3国干渉のように列強の援護のもと認めさせようと動いている模様です。」
日清戦争の講和条約たる下関条約では内容の中で台湾の割譲について問題があった。
下関条約時に台湾は日本が占領下においている領域ではなかったのである。
この領域を確実に日本に引き渡す必要があるのだ。
だが清国側はこれに不備がある。まず現地への説明不足。住民も日本人になることは全く知らなかったのである。
もう一つは独立運動。しかも清国人役人主体になって列強を巻き込んで行われた。
まさに条約に違反する行為であろう。
「軍を出して平定するしかない。」
日本軍部ではその判断を出す。
「台湾にいる兵力はこれまでの清国軍を考慮すれば脆弱でしょうが、これまで大陸に出兵し、前線を張っていた部隊は疲労がたまっているだろう。」
日清戦争に際して日本は外征兵力のほとんどを動員した。当時編成されていた師団第1~6師団は全て大陸に出払った。
「ならば出せる部隊は一つしかない。やんごとなき方の経歴にも花を添えられるだろう。」
「…近衛師団…か…。」
唯一この戦争で大きな出兵を経験していない部隊。各地の優秀な兵士を選抜して編成された部隊。それが近衛師団だった。
山口県 古志邸
「あの人の死を無駄にしないでください。」
田中は謝罪行脚をしている。この戦争中に世話になり、且つ死んでしまった方々にである。
まずは引責自決した古志だった。真っ先に士官学校への推薦状を書いた人間でもあり、その推薦状は事実上の遺言状だった。これほど重いものはない。
「わかっています。士官学校での志願先は輜重兵科を希望しています。私が大隊長の死を語り継ぎます…。」
二宮忠八 大陸。
「大島旅団長にも事実上断られてしまった…飛行器の製作には金がかかるんじゃ!!」
二宮は悩む。
「田中の奴はどうしておるじゃろうか…」
ふと思い出すは戦場でできた友人。同じ夢を目を輝かしていった奴だ。
「そういえば…奴の連絡先を儂は知らん…」
……根本的なミスを犯していた。
京都 島津製作所
「君が父上の言っていた若者か…」
平壌戦にて墜落死した島津源蔵の故郷である京都で、彼が創業した会社を田中は訪れている。
「助けられず申し訳」
「当の本人が志願して戦地に赴いたのだ。それがたとえ君の新聞記事が原因だとしても行くと判断したのは当人だ。」
島津源蔵の名を襲名した2代目島津源蔵は首を横に振りつつ言葉を遮る。
「しかし…」
「そのような遺言だ。あと、これは父の意思を考えて君に渡したいものだ。」
渡してきたのは封筒だった。
「これは…」
「金じゃ。」
「これは受け取れません!!」
「恩賞金じゃ。変なことに使うよりも空の夢に使ってもらった方がよか。父上も喜ぶじゃろう。」
「しかし…」
「空の夢。我々も協力したい。」
「ならば恩賞金はそれに使ってください。私の手元にあるよりもそのほうがよろしいかと…それである人を…あ…」
どうやらこちらも同じ根本的ミスを犯していたようだった。
島津源蔵の恩賞金についての史実。
今回、島津源蔵に与えられた恩賞金は史実において平壌戦で活躍した原田重吉という兵士に与えられた恩賞金100円および勲章が観測気球による戦術行動により、活躍できなかったためにその気球を持ち込み、自ら操縦した島津源蔵に与えられた。
勲章は死後の授与という形になった。
原田は戦後、恩賞金を酒に費やし、溺れ身を持ち崩す。
なお、この100円というのは現代の200万円に相当する。




