日清戦争 -34 平穏の時
えー戦争は冬。ま、膠着状態です。なので田中君もしばらくお休みです。
第5師団 第10旅団 立見尚文少将
田中義三一等軍曹(軍曹相当。また出世した) は第5師団の先鋒である第10旅団と共に気球を前に進める。
第5師団の第9旅団は朝鮮への出兵初期から先鋒を続け、最激戦地を戦ってきた。疲労はたまっている。そのために先鋒を入れ替えた。
だが気球は常にある程度前線近くではないと運用できない状況にある。気球といっても縄で地上に固定、風に流されないように垂直に上昇させるしかできないからだ。だが高所…空中観測の利は大きいだからこそまだ前線にいる。
「今の前線は第2軍。大連・旅順の攻防じゃ。わしらのところに来るようなことはあらへん。今の季節攻めるに難しく、守に易くだ。それなのに…攻める?何を考えているのかな…山縣軍司令は…」
第1軍司令部 野津道貫中将
「お体は大丈夫ですか?山縣閣下。」
第1軍司令の山縣有朋は胃を患っていた。その中での第1軍の動き。焦っているのか?
「大丈夫だ。よき薬はもらった。勝利というな。」
山形は苦い笑みを見せる。
「全く…立見に任せている若造。佐藤支隊が間に合ったのは彼のおかげだ。」
今回の戦いの際に佐藤支隊が史実よりも1日早く渡河戦を開始したのは佐藤大佐に田中が意見具申したことが原因だった。
『佐藤大佐。意見具申いたします。1日渡河を早めてはいかがでしょうか?』
『主戦場側面への攻撃に間に合いません。奇襲は必要ありません。我々の存在を意識しながら戦わせるだけで清国は兵力を割かなければならないのです。』
『渡河に時間がかかる気球・砲兵は切り離してかまわないかと。少なくとも現時点で空から見て地形が険しすぎて砲兵の動きが妨げられます。』
以上の意見具申が佐藤大佐と第3師団長桂太郎を経由して第1軍司令官に伝わる。一部の反発意見に関してもすでに封殺されていた。
『奇襲性を期待してはいけない。敵兵が1兵でも敵本陣に佐藤支隊の存在を伝えただけで奇襲は無力化されるでしょう。それよりも確実性を優先すべき。』
奇襲にこだわる参謀には桂はメモを見ながらそう答えたという。ある参謀がメモを取り上げて内容を見てほとんどの反対意見を封殺されていた。
案外、山縣有朋は他人の意見を聞く。その意見を容易に取り入れた。佐藤は桂に鴨緑江の成功の後に伝えた。たった18歳の若造の意見であることをその時山縣も桂も知る。同時に疎ましく思う。阻害される可能性が高い。彼を理解する一部指揮官は悩む。
そこで面識のあり、元の所属に近い立見に事実上預けられた。
だがそれはある意味上層部から遠ざけたという意味もある。
田中は元輜重兵。かつ、自決した長州出身の大隊長古志の遺言に近い束縛により、兵站を無視した行軍をたびたび諫めてきた。それこそ、上官である士官にも当然のごとく嚙みついた。特に古志の遺言を口実にした諫め方は古志と同じ長州出身の第1軍司令官山縣有朋にとってあまりいい思いはしないものだったのだろう。人事に極秘裏に介入する理由にはなるだろう。
山縣有朋は戦術レベルでの意見具申は聞くだろうが、その上戦略レベルの意見具申を聞かないとも取れるかもしれない。
だが、田中にとってはよかったことかもしれない。立見尚文は歴戦の名将。事実上、立見の弟子のような形で暇さえあれば戦術のイロハを教わることになるのだから。
朝鮮南部
同時期、朝鮮南部では厄介な問題が生じていた。日清戦争のきっかけになった農民反乱、その主導をした東学党の再蜂起である。
彼らは日本の兵站部隊や工兵、通信など後方を襲撃する。
だがそれはかつて日本が日清戦争の口実作りに利用した朝鮮の摂政 大院君 彼の暗躍・扇動・教唆による蜂起である。
これが判明すると日本、一部朝鮮系役人が大院君の引退を強制。だがその動きに大院君は引退派の役人を暗殺する。同時に朝鮮王朝の首のすげ替えを画策する。
粛清政治の最中、残存の引退派朝鮮役人、日本の役人で大院君が次に傀儡にすげようとした王族を暗殺事件の首謀者として処罰。同時に失脚させる。
東学党蜂起軍は日本軍と朝鮮政府軍の共同作戦が制圧される。この世界では東学党軍を清国に同調する者によって扇動教唆されたものとして公表した。つまり敵軍として扱った。民衆暴動ではない。清国による民衆の犠牲を考えない非道な作戦であると非難する。
当時には明文化されていない概念だが、彼らは非正規戦闘員となる。彼らには捕虜になる権利すらない。
しかも日本は釜山から仁川への移動中の正規師団をも討伐に投入した。
この反乱が発生した領域は朝鮮の南西部が主である。つまり朝鮮南部の最重要拠点釜山に近い。ここは大陸派遣軍の移動拠点の一つになっていた。
日本には外洋航行船舶…特に制海権がはっきりしていない黄海で活動できるような高性能な船が不足していた。あるだけの船で最前線の第1軍、第2軍への補給を行った。この船舶不足は史実よりもたちが悪い。前線では清国の略奪被害への慰撫に必要な物資も計画に組み込まれたためである。
それは師団の移動にも影響が出た。兵士はただの物資よりも一部の条件においては扱いがある意味楽だった。彼らは自分の足で歩いてくれるのだ。自力で船から乗り降りできる。移動してくれる。
そこで日本は釜山への陸軍部隊海上輸送を継続した。日本本土から釜山までであれば黄海方面への進出ができない船舶…帆船や小型の船でもある程度の輸送はできる。
そこから仁川や平壌まで自力で行軍。朝鮮南部は清国の略奪被害がほぼないので食料の現地調達もできないことはない。そこから前線地帯への船舶輸送を行う。少しでも船舶需要を減らすための工夫だ。
今回の反乱に投入された日本軍はこの釜山から仁川に移動中の兵士や仁川や平壌、京城等で作戦まで待機していた待機部隊だった。
この掃討戦は草根を分けて行うほどの徹底したものだった。懸賞金すらかけられている。
だが反乱の芽をそもそも産ませないためには朝鮮の大規模改革が必要だ。
一部の朝鮮人役人は朝鮮人を主体とした改革を日本に申し出ている。
『遅い…遅すぎるのだ…もう…20年待った…』
だがもう遅い。次の戦争を見る日本国上層部は次の戦争までに朝鮮の改革は間に合わないと判断していた。特に日本は20年前から改革を求め、10・12年前には改革の遅れに伴う混乱で朝鮮在住の日本人が殺害されている…
朝鮮の改革のために福沢諭吉をはじめとする人間が人を育てたが、彼らも清朝双方の謀略によって殺される…
もう待てないのだ…朝鮮も…清国の改革も…日本が列強の侵略から生き残るために
各人いろいろな意見があると思う。明治維新以降の日本の対外政策について。日本は外に出るべきではなかったのではないかという意見もある意味正しい。だがそれは朝鮮、清国の近代化が成功していた場合においてであると私は思う。その場合、日本は朝鮮、中国と協力して列強の侵略行為から東アジアを守り切れたかも知れない。
だが、改革は進まない。改革を志向する者たちは旧体制派の粛清を受け、たびたび挫折する。唯一挫折を乗り越えて近代化を成立させた日本はその経験を輸出しようとするも、失敗。日清戦争前後、日本は朝鮮、清国の改革をあきらめて生き残るために彼らを食らおうとしたのではないでしょうか?
もしもこの時点で彼らを食おうとしなければどうなっていたか、それはかつてモンゴル軍よりも属国兵の多かった元寇と同じだろう。イギリスがインド人を兵士にしたように朝鮮、中国系を兵士に日本を侵略しようとしたかも知れない。
どのような選択肢が正解か不明である。だが、現実問題として日本は世界一の長さを誇る天皇家を現代まで維持している点で、日本は正解の選択肢の一つを引くことに成功したと言えるのではないだろうか。




