日清戦争 -26 命令違反
日本艦隊は発砲しない。十分接近してから砲撃を行うつもりだった。
しかし、一部の艦が圧倒的破壊力を持つ砲弾に対する恐怖により、激発同然に反撃の射撃を開始する。しかも各艦が各自で標的を選んだ。そのため1隻ずつ集中砲火にて撃沈させるという戦術はできなかった。
その点では清国艦隊の統率が取れていると言えたかもしれない。旗艦の射撃が行われると同時に各艦が射撃を開始したのだから。
さらには本来、通報艦として活動すべき西京丸、赤城も戦闘に参加し始める。
戦闘に参加するということは敵味方ともに有効射程内で行うということだ。つまり、通報艦として運用するべき距離よりも戦闘隊列に接近。煤煙や艦の死角に入る等の影響が出やすくなる。更にもとは民間船であった西京丸。速力が劣り、清国主力艦隊よりも低速な赤城まで砲撃に参加することになる。
しかも、西京丸の運行船員は民間船時代と同じ。バカ山…いや樺山は民間人を危険にさらしていることになる。
赤城の戦列参加に関しては猪突猛進で知られていた樺山が我慢して遠距離での通報艦に専念していたのであれば赤城も我慢して戦闘に参加しなかったかもしれない。赤城で失われた人命、失われそうだった人命を考慮すればそれがどのように裏で評価されたかはわからない。だが彼がそののちに戦場に出ることはなかったのだけは事実だ。
敵に接近し始めると敵弾が当たり始める。だがどの砲弾も大きな被害を生むが致命的な被害を生んではいない。日本の砲撃が本格化しても清国艦隊の被害…特に主力の装甲艦の被害は薄い。小口径砲ではその装甲を貫徹することができないからだ。
しかし、横陣の端の船は装甲艦ではない船や装甲の薄い船だった。それらの艦には多数の砲弾の雨が大火災をもたらした。
だが、時間が経つにつれて日本艦隊の状況も悪化する。本隊後方2隻、本来戦力外の赤城の3隻が後方に孤立し始めたのだ。
この状況に関しての責任は坪井少将の命令違反の有無が関係してくる。坪井少将が取り舵を取ったことが事前の作戦行動にのっとったものであるか否か。
作者は命令違反を否定する説を支持する。
作者の意見として命令違反が偽造された背後関係を想像してみる。
坪井少将は薩摩閥に支配されていた明治海軍。これは薩摩海軍と皮肉られるほど薩摩閥の影響力は強かった。(一方陸軍は長州閥) 実際に実力の有無に関係なく人材は多く、彼らの活躍がなくして黎明期の海軍は存在しない。その薩摩海軍に珍しく長州閥出身の将軍。更に彼は長州征伐以前の時期には薩摩と長州間での戦闘にて活躍した経験がある。更には従来戦術のすべてを否定し、且つ低速、旧式艦艇すべてを足手まといと表現。すなわち明治維新以来、艦隊を整備してきた薩摩海軍の活躍を否定するに等しい発言でもあり、当然、薩摩閥の人間からいい目で見られていなかった可能性すらある。
責任のなすりつけに関してはこののちの戦闘を見て赤城ははじめとする低速艦では大苦戦する結果を生んだがその原因などに関してのなすりがあった可能性がある点。
さらに坪井少将が戦後に亡くなっていること死人に口なし。責任を押し付けるに好都合である点。
この3点が少なくとも考えることができる。
ともかく、本隊が分断された。本隊と遊撃隊が分断されたではない。これは本隊伊東中将の指揮の失敗である。分断された艦艇には各艦の指揮官はいても艦隊を組織立って運用するに足る指揮官がいない。これでは孤立した各艦は各個撃破されかねない。
某宇宙戦艦アニメ作品のように艦隊司令官と艦長を兼任することはまずない。兼任者があまりに多忙になることが目に見えている。艦数こそ揃えられるが、それ以上に戦術的な動きが阻害される。
高速艦で編成された第1遊撃隊を指揮する坪井少将は高速艦を生かすために速力を上げた。その速度は本隊後方の2隻の最大速力を上回る数字だった。
このことは当然のことである。高速艦が高速を出せないことは自動車の車線を低速で走るようなものだ。妨げでしかない。
その動きに本隊は続いた。いやつられたといってもよかったのではないだろうか?本隊は後方2隻を無視した加速をしたのだ。本隊が後方2隻に合わせた加速をすれば第1遊撃隊と本隊が分断されても2隻が孤立することはなかっただろう。
だが、坪井少将自身も本隊を考慮して本気は出していない。本隊が何とか続行できるだけの加速しかしていない。遊撃隊の性能を生かし切れていないだけではなく、本隊が遊撃隊に続行するという判断をあきらめさせることができなかったともとれるだろう。
本隊と第1遊撃隊双方に頭がある以上、独立して行動したほうがよい状況も存在するということだ。戦闘が佳境になると実質独立した動きになるのだから初めから分断して行動したほうがましだった可能性はある。
これらの戦訓は日露戦争に生かされることになる。
薩摩の海軍が強いのは幕末の薩英戦争に始まる。当時薩摩に強大な海軍は存在しなかったが、薩摩からの砲撃によって英国艦は大損害を受けた。艦隊はわざわざインド迄回航して修理する必要があった。一度殴り合ったことで双方が認め合う間柄となり、薩摩は海軍の整備に英国の助力を期待できた。
特に戦後講和では賠償金としての支払いはできないが軍艦の購入はできるとして取引に成功した。その際の資金は幕府に借りた。
返済は戊辰戦争で銃弾・砲弾でお返ししたうえに廃藩置県により、返しきれなかった分は国に押し付けた。ひでぇな…薩摩…。
 




