日清戦争 -17 戦地帰還
元山(朝鮮半島東部の港湾)
1894年8月25日
史実では27日に元山に上陸した第3師団の半数の一部は史実より2日早く史実よりも多くの日本人人夫と共に上陸した。作戦目標たる平壌へ向けての進撃を開始した。
この中には負傷し、後方に送られたが、志願してまた戻ってきた田中義三一等卒も含まれていた。
田中一等卒の復帰はタイミング的な問題(第5師団主力の輸送時期に遅れた) 関係で第3師団の兵の第1陣の元山支隊への合流となった。
これには田中が日清戦争のきっかけとなった東学党の乱に際し、在留邦人の警護のために派遣された部隊に随伴した少数の陸軍兵士であったこと、同時に民間人のふりをして戦場となると予想される地域への潜入偵察を行った人間の一人であること等が考慮されての配属だった。
ただし彼自身、この時点での戦闘能力を全く期待されていない。何しろ負傷も完治していない病み上がりの兵士であるためである。
そして戦地からいまだ遠い地域にあることから彼の持っている情報というものは役には立たない。
そこで彼はまた輜重兵として日本人人夫の指揮をしている。そこで用箋挟をもって走り回っている。
そこには不思議なものがあった。
開けるな危険と書かれた4斗樽だった。それも20では聞かない数だ。
「危険じゃぞ。かかったら一生ものの火傷、目に入ったら失明、蒸気を吸ったら下手したら死ぬじゃろうな」
と壮年の男に言われた。それが何か、それで何をしようとするかを聞いた時、田中は最優先で運ぶべき代物と判断した。
「これは戦局を決定する力です。」
元山支隊長の佐藤大佐を説得した。
樽は厳重に荷車に積まれた。それは現地調達が困難で誘爆の恐れがある弾薬類よりも厳重に積み込まれた。荷役の人夫はあえて老年者や家長になる可能性のない次男以降や家族のいないものがあてがわれ、弾薬とは別系統の危険があるような物質であることが知らされたうえで破格の給金が積まれた。
これも確実にこの物資が運ばれる必要があるためである。
そして、元山支隊は到着した部隊から順次、出発した。目標は 平壌 20世紀後半には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮) の首都となる都市である。
平壌 南 第9混成旅団 主力
1894年 9月12日
平壌付近へ一番乗りした部隊はかつて田中が所属していた部隊。第9混成旅団だった。他の支隊に兵を回したためにこの時点の兵数4000程度である。
さらに師団主力としてさらに4000、支隊として2000、第3師団から元山に上陸した2000。合計1万2000それが日本軍の総兵力だった。
その一方、清国軍の兵力は牙山の戦いでの敗残兵を含め、中国本土からやってきた総計1万5千。
平壌は川と地形と城壁を有効活用した城塞都市である。清国は十分な物資と共に立てこもるという優位な状況だ。
しかし、この清国側では籠城して徹底抗戦する将軍と朝鮮を放棄して十分な補給が受けられる本土での持久戦を主張する将軍との意見対立が深刻だった。
ただし、この双方が目していたのは持久戦だった。日本との戦いを長引かせることにより、欧州諸国の介入を待つというのが根本にあった。
日本が列強の介入を恐れていることは見透かされていたということは否めないだろう。更に、日本が攻めあぐねていると見えた途端、朝鮮政府は既得権益守護のためにも清国側に寝返る可能性も高い。
実際に朝鮮政府の裏切りは見え隠れしており、日本はそれを抑えるために早急な清国主力との戦闘による勝利を求めていた。




