日清戦争 -13 英船の盾
時は遡り
1894年7月25日 豊島沖
古志大隊長自決の2日前。日清両国は開戦の時を迎える。
日本が清国に最終覚書を突き付けた。これは条件付きの宣戦布告である。回答期限は7月24日。25日以降、事実上、日本の艦隊が清国艦隊を攻撃する権利を得た。ただし、この覚書の存在を他国は知らないので他国は日本が開戦に際しての法的問題を解決していることを知らない。
これに合わせて日本の艦隊は23日佐世保を出港。いつでも交戦できるように動く。
そして25日。豊島沖にて日本国艦隊の一部…新鋭の高速艦艇のみで編成された第1遊撃隊所属最新鋭巡洋艦3隻が清国兵を輸送する民間船の露払いのために進出してきた2隻の清国艦艇と戦闘状態に突入した。
豊島沖海戦の始まりである。
陸にも聞こえるほどの砲声。それが、この海戦の号令となった。この砲声は日清どちらのものかは論争を生んだ。どちらが手を出したのかということだ。日本側の資料は清側からの砲撃があったとしている。
しかし、それ以前の話がある。先に戦闘態勢に入ったのは日本艦隊であるという事実だ。
当時の艦船に搭載されている動力は現代のエンジンと比較して即応性が極めて低い。停船状態から機関始動にかかる時間は長ければ丸1日かかる船もある時代である。この始動時間だけ見れば下手すれば帆船のほうが有利なくらいである。そのような時代、巡航速力から戦闘速力までの加速ですら相当の時間を必要とした。
そのため、敵艦と思われる艦艇と遭遇した際に速力を上げる行為は戦意ありの意思表明に等しい。
しかも、日本艦隊は地形的優位の確保と加速時間を稼ぐために2回の180度回頭を行っていた。
この行為は清国艦隊の混乱を生む行為である。
いわば腰に下げた拳銃に手をかけた状態に等しいといえよう。まだ、銃を抜いたわけではないが。
一種の挑発行為ともいえよう。その点では日本側に多少の非がある。が、これについては条件付きの最後通牒により、開戦の口実はあったので問題ない。
戦局は史実通りに動いた。
それは清国政府に雇われ、仁川に1000名を超える清国兵を輸送中の英国の商船『高陛号』を拿捕、その過程で清国兵に乗っ取られ、指示に従わない同船を東郷平八郎が艦長を務める防護巡洋艦『浪速』が撃沈する事件『高陛号事件』も発生した。
日本側の損傷
被弾あるも不発弾。損傷軽微、戦傷者・戦死者ゼロ
清国側の損害
防護巡洋艦 広乙 沈没
旧式砲艦 操江 拿捕
兵員輸送船 英国船籍 高陛号
軍艦乗員、輸送艦人員含め1100名以上の死亡




