日清戦争 -1 出陣の時
新シリーズです
というか主人公なしの作品がはやらないのかな?と思い作成。
1894年 6月10日 仁川
第5師団隷下 混成第9旅団所属 先遣隊
所属 新兵 田中 義三 (18)
大日本陸軍は朝鮮出兵に対して1個旅団を派遣する。しかし、編成を戦時編成とした。これにより兵力は2千から7000ほどに増大した。しかし、戦時編成にするために平時においては兵士ではない予備役兵を呼集。いわゆる動員を行っている。そのために数日ではあるが、派遣が遅れている。
そのために、あまり知られていないが、朝鮮出兵の初動は大使館の警護を担当する海軍陸戦隊や警官隊が主力となったおよそ430名が最先鋒であった。
「絵描き!!兵役期間中に戦場送りたあ災難じゃん。」
しかし、この物語の時系列では若干違う。20名ほどの陸軍兵士が追加、最先鋒は450名となった。全員が第5師団で、大半が兵役中の訓練兵であった。
「何で砲兵を志望せんかった?小僧は周りから切れ者といわれとるんじゃろ?じゃなかったら兵役から1年たっとらんのに戦場送りにならんかったじゃろう」
その20名に兵役の前倒しという名目で陸軍に志願した田中義三2等卒がいた。
「しゃーないだろ。旅団長閣下に聞かれちしもうたんや。言い出しっぺが出兵しなならんじゃろ。それに余り者の3男は学校にも行かせてもらえん。」
彼がこの戦場に来た理由がこれだ。たまたまつぶやいた『情報無き戦は無謀。地図だけでも手に入れるべき』という独り言、『先遣隊を送るべき』という独り言、『兵役中の兵士を引き抜くべき』という独り言。これが兵役中兵士から兵士を募り、熟練兵を隊長に情報収集のために現地に派遣することが立案された。
なお、この独り言を言った直後、旅団長に名を聞かれ、それにこたえてしまったのが運の尽きといえるだろうか?周りからはそう見られている。
なぜなら彼だけが志願ではなく、要請によって出兵させられている。彼の発言が元で編成された先遣隊。それに言い出した者が参加していなかった場合の風聞はどうだろうか?ということを気にして旅団長がわざわざ隠密裏に面談(この時、先遣隊編成についての意見をも聴取) して戦場に送り込んだのだ。
「その言葉遣いどうにかならないか?わかりにくうてしゃーない」
田中の言葉は昔から変といわれていた。だが、意味は通じる程度だった。
「言葉がうつりおった」
周りの兵士の一人が笑う。それが伝染して周りも笑う。
「昔からこの口調じゃ。」
その発言も笑いを誘う。
彼は転生者だからだ。前世はおよそ100年以上未来の漫画家だった。それは絵が得意であるということがあだ名の由来だった。
「さてと。歩こうか。」
「歩兵の本分は歩くことなり。」
日本陸軍の兵役は20歳から。しかし、志願で17歳から行うことが可能。大抵、兵役1年目の初年兵は相撲部屋のごとく古参兵からの指導が入り、苦労するが、田中は17歳に兵役を前倒している上、何事もそつなくこなしており、若くして前線に向かうので案外かわいがられている。