常識範囲内の悪事をした男
翌日の午後、鳴海と旭はユウキの家を訪問した。結局、昨夜は遅くまで天体観測に興じてしまったのだが、今日こそは作戦を立てなければならないと頭を抱えていると、ナポリタンに「ユウキに相談してみたらどうだ」と提案されたのだ。
「ヤツ、旭のコトよく知っている。前提知る、大事だぞ」
「ユウキさんに聞くのは良いと思う」と旭も同意した。「物知りだから」
「聞きたかったんだけど。あの人はいったいなにしてる人なんだ?」
鳴海がたずねると、旭は「なにしてる人」と不思議そうにおうむ返しにする。
「仕事とかさ。部屋にいっぱい、その……マンガがあったけど」
「ポルノマンガ家」と旭は即答した。「おっぱいに定評があると言っていた」
「……あ、そう」
今回も例の女性が鳴海たちを出迎えたが、彼女はなんと素肌にエプロンを着用していた。
「あの女性は彼女さんなのか。それともアシスタントの人なのか」
鳴海は表情を微動だにさせない旭に小声でたずねる。
「わからない。たぶん彼女」
「たぶんって」
「ずっといるから、たぶん彼女。でもわからない」
彼らは以前と同じ席に通された。ユウキは今回も腕から先しか登場せず、人差し指を立てて「なにか計画は実行した?」と話しかけてきた。
恥をしのんで計画の実行と失敗について話すと、女性が「それっていい考えねえ」と頬に手を当てた。
「合コンって大変な社交場ですもの。旭ちゃんは社交したほうがいいわ」
「そうだね、旭はどうだったの」とユウキがたずねる。
「学んだ。交流方法。社交術。独特な方法だった」
「アレは独特だよねえ。専門技術が必要だよ。ま、僕は専門外も専門外なんだけど。あははは」
「私もそうだわ! アハハハ」
鳴海は脱線しそうな会話を引き戻そうと「次は別の方法をとりたいと思っているんです」と言った。
「旭のやり方というか、スタンスを無視していたと思ったので」
「でも欲望を喚起するのは正しいと思うよ。実際、旭は楽しかったでしょ?」
「楽しくはなかった」
「あれ、そっか。でも方向性としては合ってるんじゃない」
鳴海はユウキを訪ねた意味を疑いはじめた。旭は彼を物知りであると言ったが、真昼間から引きこもるポルノマンガ家から、まともなアドバイスが得られるとは思えない。
「僕は変人の自覚がある。変人の意見は、ときとして常人の意見よりも的を射ている」
「俺、なにも言ってないですけど」
「平日の真昼間から家にいる大人の意見なんか参考にならないって顔してたよ」
鳴海の背中に冷たい汗が流れた。
「まあ聞いてよ。僕なりにいろいろ考えてね、1番の問題に気づいたんだ」
「はあ」
「思えば旭はそこそこ幸福な生活をしているじゃない。それなのに、なぜ彼が現在の状況で幸福ではないのか。それが問題だよ」
「……いまさらだが、アンタは今の自分が幸福だと思ってんのか?」
「たぶん」
「旭、幸福でナイ。幸福であれば我々の波長、統一。通信成功するのだ」
「つまりアンタは、自分はおそらく幸福だと思っている。だがこの麺類はそう思っていない。というか、本当はそうではないと主張していると」
ナポリタンに冷たい視線を送る。
「単純に主観と客観の問題なんじゃないか? アンタが幸福じゃない幸福じゃないって言うから、自信を失わせているんじゃ」
「鳴海、ナマイキかつ愚か。我は客観ではない。主観なのだ」
「磁場を共有しているから? わかんねえな」
するとユウキが「宇宙人がなにを言ってるのかわからないけど」と話しはじめた。
「欲望の充足って観点からみると旭は幸福なはずなんだよ。彼がしたいこと、やりたいことは叶っているんだ。ほら言うだろ。青い鳥は家にいるって」
「青山旭って名前だもんねえ、たしかに家にいるわあ」
「そうそう。旭は自身の幸福に納得していないだけって可能性がある。そしてその納得のためには、それこそ合コンに行くとか、相対的な情報が必要なんじゃないかな」
「相対的情報」と旭がくりかえした。
「チルチルミチルは旅に出て外の世界を知る。それで家にいる青い鳥を発見する。それと同じさ」
ユウキの手が得意げにこぶしを作った。
「鳴海くんに知らなかった世界を教えてもらえば、幸福の再発見ができるんじゃないかな」
「ユウキさんは作戦の方向性がまちがっていないと思うんですね」
「うん。思っていない。旭には幸福の比較対象がないんだ。だからそれを与えてあげるのは大事だと思うよ」
主観と客観の問題、と彼は笑いまじりに言った。「人から見ればひどい生活でも幸福な場合もある。逆もしかり」
「アンタは? どう思う」
「ぼくもそれでいい。経験つむ。学ぶ。大切なこと」
「よかった。学ぶ意欲があることは、なによりも大事さ……ところで」
急に話の矛先が変わった。
「学ぶ意欲ついでに旭にお願いがあるんだけど」
「なに」
「次の仕事で使う資料のチェックをしてほしいんだ。スペルが合っているか不安でね。バイト代あげるからやってくれない?」
「わかった」
旭はすぐに立ちあがり、すたすたと二階へあがっていく。ユウキは「いつもの所にあるからね」と声をかけ「ああいうの得意だからさ。よく頼んでいるんだ」と説明した。
「そうなんですか」
「なにをするのがいいかな?」
「え?」
「旭が経験してなさそうなこと。合コンはベストチョイスだったと思うけど」
「ああ。そうですね」鳴海は考えこんだ。
「大学生らしいことは、あまり経験していないかもしれないですね」
「大学生らしいことかあ。学業に励む、ゼミへ行く、サークル活動、そこで育まれる友情、そして恋愛。裏切り、愛と死」
「エロティックねえ」
「本当だね。大学生は世の中で一番エロティックな生き物かもしれないね」
鳴海は、この空間に自分しかまともな人間が存在しないと察知した。
「いや、それは誤解が」とひかえめに言う。
すると「違うんだ!」との叫びと共に、腕がふすまに叩きつけられた。鳴海は若干のけぞった。
「エロスとは生のこと。大学生は生き生きとしている。つまりエロティックの神髄とは、強くたくましく生きるということだ」咳払いが聞こえる。
「その点、旭は生気がない。だから君が彼と仲良くしてくれると、僕はとてもうれしい。ありがとう」
「あ、はい。こちらこそ」
「でもひとつ問題がある。わかるかい」
「わからないです」
わかりたくもないですとは言わなかった。
「君が本当はエロい大学生ではないことだよ」
「……」
「君が本当はエロい大」
「いや、聞こえてます。生きている実感ってことですか? そういう意味でならエロい大学生ですよ、俺は」
「否、否、嘘をつかなくていい。君にはエロスがない。というか君から溢れんばかりのエロを感じないんだ。残念ながら」
「感じなくていいです」
「あら、まだ若いのに。もっと頑張ったほうがいいわよ」
「……たしかに生の実感なんてインパクトのあるものは感じないですよ。でも普通に生きてて楽しいですし」
明るい声が「僕はこれでも仕事ができる男でね」と言葉をさえぎった。
「このあいだお姉さんの結婚が決まったんでしょ。おめでとう」
心臓が止まったような気がした。急に空間が引き延ばされ、戸口に乗る指先が五匹の白く細長い芋虫に見える。
「どういうつもりですか」
なんとか声にした言葉は、情けないほど乾いていた。
「脅しているんだよ」とユウキは軽快に言った。
「脅し?」
「君に旭を傷つけてほしくないから。あと地球がなくなると僕も困るからかな」
「こんな真昼間から引きこもってるポルノマンガ家のくせにですか」
「おっとついに言ったね。そうだよ。真昼間から引きこもっているポルノマンガ家でブ男で極度の対人恐怖症でおまけに童貞でも、生きていたいと思うんだよ」
「そこまで言わなくても……」
「本当のことだから。旭は僕の甥っ子だから傷つけられると困る。僕は生きているのが楽しいから地球がなくなると困る。君の問題っていうのはね、なんだかわかるかい」
鳴海は答えなかった。
「君が、本当は地球がなくなっても困らない側の人間なんじゃないかってこと」
部屋に鋭い音が響いた。女性が紅茶のカップを皿に強くぶつけたのだ。彼女は「あらあ、ごめんなさい」と謝った。鳴海はたゆたう琥珀色の液体を見つめた。
「そんなことないです」
「いろいろ調べてみたけど鳴海くんって結構な努力家みたいだね。就職先は大手総合商社。ゼミ、バイト先、サークル、どの場所でもある程度の地位にいるし可愛い彼女もいる」
ユウキは軽快に話しつづける。
「常に幸福の及第点を確保しているって言いかたが似合うね。確実に結果を積みたてるタイプ、絵に描いたような秀才だ。頭がいい。それ以上に要領がいい。これから君にはそこそこ幸福な未来が約束されているだろう」
「そこそこですか」
「自分でわかっているでしょ。それでね、言っておくけれど、そんな程度の幸福なんて存在しない。ね、ぼくの仕事について聞いた?」
「聞きました」鳴海はうなずいた。
「ポルノマンガ家、これは幸せな職業ですか?」
「ああ、幸福だよ。趣味を兼ねている。つまり本業がある。鳴海くん、出産ビジネスってご存知?」
鳴海は眉をひそめた。
「知っていますけれど」
「それなら話が早い。僕はおもに幸福な赤ん坊と母親にまつわるビジネスをしている」
「明確に述べてくれませんか」
セミの飛びたつ羽音が聞こえた。リビングは残暑のうだる陽気に包まれている。
「ハワイに妊婦を送るんだよ」と彼は話しだした。「米国籍を赤ん坊に与えるためにね。出入国と病院の手配。コツとコネを使えばなんてことない話だ」
鳴海の脳内に新聞で見かけた記事がよぎる。
「それは金になりそうですね」
「ああ、なるよ。いい金になる」
ユウキは勢いよく親指を立て、そしてくるりと下に向けた。
「自分の仕事に倫理的問いをぶつける気はないけれど、幸福とはいかなるものか。そう思うことはある。空港に来る母親は赤ん坊の幸福を願っている。多少の見栄や思いこみがあろうと、その行動には愛情がある」
「俺には自分勝手な行いのように思えますが」
「そうかもしれない。でも選択肢を広げてあげるのは愛情表現として合理的だ」
「合理的なものが愛情ですか」
「どう思う?」
ユウキの指から視線をそらす。禅問答の真似事をしに来たわけではない。
「母親たちの多くは日本国籍しか持たない。だからこそ子供に与えてあげたいと思うのかもしれない」
「でもそれは子どもに聞いたわけではないでしょう」
「当然。産まれるまえの子供は口をきけない。つまり親が想像する子供とは、子供のときの自分自身だ」
ユウキの指が力を失った。
「彼らの多くは子供時代を忘れている。国籍なんて便利な道具くらいにしか思っていないかもしれない」
「事実そうでしょう。彼らは日本人だ。国籍が違ってもそうです。ハワイで産まれたという事実は、便利な道具にすぎないと思います」
「本当にそうだろうか」
「どうでもいい」と乱暴に言い放つ。
「そんなの俺たちが議論してどうなるっていうんです」
「国籍とか民族とか人種って、そんな簡単に割りきれるものかな」
「おおげさですよ」
「おおげさなもんか」
鳴海は深呼吸をして「俺には関係のない話です」と告げた。
「でも思うところがあるだろう」
「俺に突っかかって、なにがしたいんですか」
ユウキの声がふと柔らかくなった。
「ひとりの大人として、なんだか心配なんだよね。旭もアレだから見ててひやひやするけど……君もいろいろ大変だろう?」
鳴海は凍りつくような怒りを覚えた。
「顔も合わせたことのない人に心配されるいわれはないです」
一拍の間があく。モグラが穴にひっこむように腕が消え、鼻をすする音が聞こえはじめる。
鳴海はハッとして「すみません、言いすぎました」と謝罪する。
「ううん、僕も突っこみすぎた。ごめんね。非リアのコミュ障だから許して」
落ちこんだ声色で謝罪されると、怒った自分が悪者のような気がしてくる。気まずい沈黙に耐えていると、片手にバインダーを抱えた旭が戻ってきた。
「スペル、3か所間違ってた。マーカーで直したから」
厚い紙の束には英語がずらずらと書かれている。彼が2階にあがって、まだ30分も経過していない。
「早いな」
「見るだけ。楽」と答える旭は得意げでもなかった。
「ふうん、ナポリタンの能力かな」
4本の触手がテーブルに乗り、ふわふわと手遊びめいたことをしている。鳴海はふと思いだした。この宇宙人は心が読めるのだ。
「我、退屈」
なんともいえない気持ちで「だろうな」と返す。このエイリアンの思考もわからない。
「ワカラナイ。そうワカルのはよいコトだぞ、鳴海よ」
「それくらい知ってる」と苦い顔をする。
わからないふりも同じくらい大切だと、ふよふよ動く触手を見て思った。