この震える星を捉えて
飲み会組は1時間も遅刻したため、ゼミ合宿の詳細について話しあって解散したのは17時近かった。
ナポリタンは立腹していた。
「星が爆発するのに悠長。鳴海、オマエこそどうでもよいと思っているのではないか」
鳴海は反論できなかったが、さすがに日常生活をすべて放りだすわけにもいかない。
駅のコンコースを渡りながら「思ったんだが、俺以外の人間に頼る気にはならなかったのか?」とたずねてみる。
「まず我、見える人間である必要。かつ旭の知っている人物。オマエだけ」
「……後者の条件が、前者の条件をぶっこわしてるな」
「ソノとおり。旭の知りあい、かつ我見える人間、オマエしかいなかったのだ」
「ユウキさんに見えればよかったのにな」
「ふむ、たしかにな。ユウキ賢い。だがヤツはムリだ。幸福から遠い」
鳴海は意表をつかれた。すると「勘違いするな」と訂正された。
「意図、ちゃんと理解しろ。サルの進化系よ」と触手がひざの裏をたたく。
「オマエが幸福だとはミジンも思わぬ。我、幸福ワカラヌ。だがオマエは違う。ユウキも違う。旭も違う」
「違うやつばっかりだな」
「そうだ。だから難題。ムズカシイ問い。真面目に取りかかれ」
マンションのセキュリティはナポリタンが解除した。エレベーターに乗りこむ。低い機械音の中で、鳴海は考えこんだ。
幸福になるのは難しい。
それは心にすとんと落ちる言葉だった。
辞書の定義からすれば欲望の充足こそが幸福だ。その点からいえば自分は幸福だ。就職が決まり人生のモラトリアムを謳歌している。
「でもオマエは幸福ではない」
そうかもしれない。不意に思う。
エレベーターが静かに止まる。扉が開いて、無機質な廊下が現れた。
チャイムを押すと旭が出迎えた。鳴海は「よう」と片手をあげた。
廊下の左右に部屋があり、扉が開いていた。前に来たときは閉まっていた。ベッドとクローゼット、そして白い布がかけられた一メートルほどの物体が見える。
のぞき見はよくないと思いなおして、リビングに入る。旭はチェアに腰をおろして固まっていた。
「アンタさ。ひまなときとか、なにしてんだ」
すると彼はこちらを見つめ、口をゆっくり開いた。
話しださない。
心配になって「おい」と声をかけると、ようやく「その話だが」と言葉を発した。
「趣味、ある。でも時間が早い」
「時間?」
「そう。時間」
「趣味の時間が決まってるのか」
旭に趣味があるとは意外だった。しかし明るい報告でもある。なにかをしたいと望むのは、欲があるからだ。
「君もやる」
「は?」
「君は言った。ぼくに主体性がない。君にぼくの主体性が伝達できていないのは、ぼくの不備。だから伝える」
いたたまれない気持ちになって「それはすまん。言葉のあやだった」と謝罪する。
「ちょっと苛ついてたんだ。俺の作戦ミスだった。主体性うんぬんってのは、べつに気にしなくていい」
そもそも宇宙人に主体性を期待していない。そう考えていると、旭が首を横にふった。静かな目だった。
「主体性がない。そう思う原因、君がぼくを人間だと認識していない点にある」
鳴海はひるんだ。しかし旭の言葉は、あくまでも穏やかだった。
「ぼくは人間。ナポリタンと共有した磁場を持っているが、肉体と精神は地球人で人間。だから理解を望む。ぼくには主体性がある」
人間だと認識していない。そのとおりだった。
彼に向けていた目線、投げつけた言葉を思いだす。体から力が抜け、後悔が襲った。自分の考えていたことに愕然とする。
旭はふいに立ちあがって、ダイニングキッチンに入った。
鳴海はやかんに火をかける背中に歩みより、深呼吸をした。口を開けた瞬間、旭がふりかえる。
「晩御飯。君も食べる」
鳴海は言葉をのみこんだ。
カウンターの上にカップラーメンがふたつ並んでいた。足元の段ボールを見る。カップラーメンを段ボールにもどす。
「ちょっと待ってろ」
ぶっきらぼうに言うと、旭は首をかしげた。
「ぼくがやる。座っててかまわない」
再びカップラーメンを取ろうとする手をつかみ、気をつけの姿勢になるように身体の横につける。
「俺は買い物へ行く。だからすこし待て」
「でも空腹」
「カップラーメンは今日はやめだ。わかったな」
旭は、かすかに悲し気な顔をして「空腹」とくりかえした。
「だから」鳴海は息をついた。「俺が作ってやるから」
不服そうな彼をリビングに押しやって「おとなしくしてろよ」と言い残し、財布を片手に部屋を飛びだす。
エレベーターを待つあいだに、また主体性を無視しているのではとの疑念にかられる。ナポリタンは「旭は加工したものを食べない」と言っていた。
カップラーメンを食べるべきかもしれない。鳴海はひたいに手を置いて悩んだ。音もなくエレベーターの扉が開いた。
「知るか、そんなこと」
つぶやいて、一歩踏みだす。
旭は言いつけ通りに待っていた。ナポリタンが廊下を這って「ドコに行っていたのだ」と怒った。
「作戦会議するのではなかったか」
「するよ。でも腹ごしらえしてからな」
てきぱきと準備を始める。冷蔵庫に食材がほとんどない一方で、料理道具があることは知っていた。家族で暮らしていたころの名残だろう。
ナポリタンは不審がってウロウロしていたが、やがて「加工するのか」と質問した。
「なに加工する。タマゴ、牛乳、バター。生で食べられるぞ」
「オムライス」
フライパンにバターを落とす。じゅうっと音をたてて、甘い香りが部屋にひろがった。
20分後、テーブルにはオムライスがふたつ並んでいた。皿の端と端が触れあいそうだ。旭は黄色と赤の塊を凝視している。
「食え」
鳴海はスプーンを手渡した。
「オムライスは食ったことあるよな」
「たぶん」
旭は両手をあわせて「いただきます」と言い、おずおずと薄焼き卵を割った。ケチャップで味つけされたごはんが口に吸いこまれていく。
鳴海は平然と食事をするふりをしながら、上目で彼の様子をうかがった。味見したときは美味しく感じた。ご飯が少しべちゃついてるが、総菜の白飯と家の火力にしては頑張ったほうだ。
触手が鳴海のオムライスにべたっと触れたので「なにすんだ」と皿を退ける。
「フクザツな加工方法。混合を加熱、反応。複数の化学物質の調和」
「あのさ、加工じゃなくて料理って言ってくれないか」
「料理。料理は加工だ。反応と調和。興味深い」
鳴海は憮然としていたが、その話に少しだけ感心した。
「鳴海はカガクシャなのだな」
触手が左右に振れた。不意に気がつく。これがナポリタンの楽しさの表現なのだ。
「とすれば、鳴海の家はカガクシャ一家ということか」
「は?」
「飲食店ケイエイをしていると言ったぞ」
鳴海は旭をちらりと見てから「ああ」と言った。
「知ってる」と旭がつぶやいた。
オムライスから味が消えた。
「知ってるって、なにを」
「洋食軒まんじょく。君の家。君は家の手伝いをしている」
「なんで知っているんだ」と硬い声で問う。「だれかに聞いたのか」
「違う。行ったことがある」
鳴海はいよいよ驚いた。
「いつ行ったんだよ」
「ずっとまえ。小さいころ家族で行った。父親と母親がほめていた」
旭はオムライスを食べおえた。「ごちそうさまでした」と手を合わせ、
「おいしかった」と言った。
小学生のとき、家が飲食店であることは鳴海の自慢だった。友達のほとんどはサラリーマン家庭だったので、父親の職業がとても特別に感じた。彼の作るハンバーグはチェーン店よりずっと美味しい。そう思っていた。
「つけあわせは」
からっぽの皿を恨めしげに見ていた旭が顔をあげた。鳴海は外を見ていた。
「ナポリタン」
肩の力をぬく。
「そっか」
皿を片づけていると旭が動きだした。寝室からガチャガチャと音がしている。さきほど話していた趣味にまつわることだろうかと考えていると、外へ出ていってしまった。
「アイツなにしてんだ」
テーブルの上に被さっているナポリタンにたずねると、
「準備だ」と返ってきた。
「なんの」
「セッカチだな、鳴海よ。余裕をもて」
旭はすぐに帰ってきた。肩にトートバッグを下げ、毛布をかかえている。
「外、行く」
「外?」
「屋上に行く。寒いから」と毛布を渡される。
旭に続いて鳴海も外に出た。ナポリタンもついてきた。
彼らは非常階段をのぼった。立ち入り禁止の貼り紙がされた扉の前に、例の隣部屋にあった白い布をかけられた物体があった。旭はポケットから鍵を出した。
「どこで手に入れたんだよ、それ」
「もらった」旭は鍵を開けた。
「モラッタのだ」とナポリタンが笑ったので、それ以上は聞かなかった。
音もなく扉が開き、物体をかついだ旭と鳴海も中に入った。夜風が前髪をかきあげた。
無機質な風景だった。柵がないため足元が心もとなく感じる。防水シートの貼られた床はてらてらと輝き、アンテナは魚の口のようにまぬけな形をしていた。
鳴海はこわごわと足を進め、屋上の端に近づいた。平凡な夜景だった。空には細い月がかかっており雲は一つもない。
旭は屋上の中央に毛布をひき、物体から布を取りはらった。1メートル弱の天体望遠鏡が登場する。鳴海は機械の調整をする旭をまじまじと観察した。
「すわって」と旭が言った。
「天体観測か」
「そう。土星の環を観測する」
「そんなの見えんのか」
「簡単。あっちが南」
旭は接眼レンズを覗きこんだ。鏡筒の位置を調整しハンドルをいじる。鳴海は隣にあぐらをかき、夜空と旭を交互に見た。
「ソラは広いだろう、鳴海」
ナポリタンの触手が上にぐんぐん伸びた。
「実は果てのあるソラだ。だが広い広いソラだな。我、ココが好きだぞ」
「屋上のことか」
「読解力がナイ。コノ星から認識するソラのことだ」
「発見した」旭の声は、かすかにうわずっていた。「よく見える。そう思う」
鳴海は望遠鏡の前にひざをつき、野生動物に触れるときのように、そっとレンズに目をつけた。
「なにも見えないけど」
「目が慣れていない。だんだんわかる」
暗闇を注視しつづける。すると黄色いゴミのようだった光に輪郭が出てきた。
「ちょっと待って。ずれたかもしれない」と旭が肩を押した。調整をする指先は、いつものぼんやりとした動きと反対に素早かった。
「今度こそ大丈夫。そっとやる」
「わかった」
鳴海はうなずいた。振動させないように、ぴったりとレンズに目を当てる。声にならない声がでた。そこにあるのは、理科の教科書で見たままの星だった。
「環がある!」と興奮して叫ぶ。
「そう。土星には環がある」
「見えるよ。環。あれが土星なのか」
「あれが土星」
「え、すげえ」
あまりにもくっきりと見えるので、対物レンズに視線を向ける。すると「目に見えるモノ、信じないのはバカ」とナポリタンが嘲笑した。「紙をくっつけているわけではナイ」
鳴海は耳を赤くした。
「わかってるよ。でも、こんなにハッキリ見えるものだと思ってなかったんだ」
「ちゃんとある。もっと良いレンズなら模様も見える」
鳴海は再度、土星の存在をたしかめた。嘘の世界のようだった。優しいだれかが、近しい場所にそっと土星を置いて、自分に見せているような気がした。
「信じられないと思う。でもちゃんとある」
旭は両手を後ろについて空を眺めていた。
「これは父親が購入した。3才のとき。ナポリタンと衝突するまえ。宇宙人がいたらいいなと思った」
鳴海は目を見開いた。旭が笑ったのだ。
「ちゃんとある。ぼくの主体性もそう。認識しづらいと思う。でも存在する。それは君に伝わっただろうか」
鳴海はなんとなく正座をした。「伝わった」とうなずく。
「土星はあるんだな。初めて見た」
「ある。見えていないだけ。見せることが重要」
「ありがとう」
その言葉は自然にこぼれおちた。
「見捨てないでくれて、ありがとうな」
屋上に風が吹きすさんでいた。旭のうつろな瞳に土星があった。
言葉がさらわれたかもしれないと思ったが、それでもよかった。