想像よりは親切な世界なので
理央の怒りは、スイーツをおごる約束によって鎮められた。しかし鳴海は警戒を怠らなかった。女性の不満とはぶり返すものだと姉たちから学んでいた。行動に注意しなければ、いつ前のことを持ちだされるか分かったものではない。
鳴海は査定受付のカウンターで書類を記入する客を見おろしながら、今日こそは彼女の家へ行こうと決意した。
8月15日水曜日。悪夢のような体験から3日たったが、あれから青山旭やナポリタンは姿を見せていない。
「こちらになります」
数枚の小銭をトレイにのせて不機嫌そうな女性にさしだす。彼女は礼も言わずに小銭を財布につめ、大股で店から去った。書類をカウンターの下にしまう。
「今日、なるちゃん早番?」と店長が話しかけてきた。
「そうですよ」
「それじゃあ、今日17時半にあがっていいからさ。1階の掃除だけ頼むわ」
「了解です」
鳴海はモップを漫然と床にすべらせた。日中、子供が走りまわっていたので土汚れが激しい。
レディースコーナーのすみで足を止める。青山旭はジーンズを物色する手を止めて振りむいた。
「……」
子供服コーナーに移動しようとモップを転換させる。一歩踏みだして、前につんのめる。シャツのすそがつかまれていた。
「アンタなあ」とふりかえると無表情が近くにあった。
「謝罪」と彼は静かに言った。
「おじさん、君を不愉快にさせたと反省した。ナポリタンとぼくも無理やり連れまわした。申し訳なかった」
鳴海は黙りこくった。
「もう君に近寄らない。大丈夫」
彼の持つジーンズに目を落とす。身体が細いので男物はサイズが合わないのだろう。
「……アンタさ、金あんだろ? どうしてこんな店で買うんだよ」ふいに気になって質問する。
「たまに来てんじゃないのか、ここ」
よく思いかえすと、以前にも彼らしき人物を見かけた気がした。
彼は「来ている」と答えた。「知りあいがいると、安心」
「知りあい?」
旭はロボットのように首をカクンと前にかたむけた。
鳴海はぽかんと口をあけて「俺は」と言いかけ、すぐに口をとじた。眉間をもみほぐしながらモップに寄りかかる。かつての同級生は、あいかわらずの能面顔だ。
「それ、ケツのところがほつれてるから別のにした方がいいぞ」
ジーンズをラックに戻して仕事を再開する。
視界の端で、旭がほかのジーンズを手にとっている姿が見えた。
アルバイトを終えた鳴海は理央の家へ向かった。ホームは帰宅ラッシュで混雑していた。快速電車に乗って席につく。なぜかため息が止まらなかった。
電車が動きだした。むっつりと目を閉じて到着を待つ。
ジャンパーのポケットがふるえた。理央から電話だろう。早く来いとの催促だと考えて無視する。しかし携帯は生まれたての小鹿のように振動しつづける。たえかねて携帯を取りだす。母親からだった。通話ボタンを押して「おふくろ、いま電車」と言いかける。
「鳴海! おねえちゃん、結婚決まったって!」
近くの客が迷惑そうにした。それほど大きな声だった。
「吉田さんにプロポーズされたって! ねえ戻ってきなさいよ。いま彼、おうちにいるから! 会って、ね、会って! すごくステキな方よ」
鳴海はあわてて立ちあがった。興奮している母親に「今から向かう」と伝え電話を切る。次の駅についた瞬間にホームへと飛びだし、反対側の車両に乗りこむ。
心臓がはげしく鳴っていた。夢心地で駅を出て、来た道をとんぼ返りしながら、理央へ電話を入れる。
「姉貴の結婚が決まったらしくて」と言うと、彼女は明るく「おめでとう」と返した。
「それでさ、いま家に彼氏が来てるらしいんだ。会わないといけないから、悪いけど今日は無理だ」
彼女は一瞬黙った。しかしすぐに「それならしかたないね」と許した。
10分後、ようやく家についた。息を切らしながら扉に手をかける。開かない。気が急いて力をこめる。勢いよく開いた。
厨房に立つ両親と目があった。鉄板を両手にのせた加奈子がふりかえる。席に着いていた由美がほほえんだ。
見知らぬ青年は由美に笑いかけていたが、鳴海をみとめると急に固い表情になって背筋を伸ばした。緊張した面もちで立ちあがり頭を深々と下げる。
「吉田賢治です。お姉さんにはお世話になっております」
慌てふためいて「こちらこそ」と礼を返す。
「やだ、そんなかしこまらくていいよ」と由美が婚約者の腕を引いた。「ほら冷めちゃうと美味しくないから」
「ああ。口に合うかわからないけれど」と哲夫が言った。
吉田はハンバーグを食べると、少々おおげさに「おいしいです!」と叫んだ。加奈子が吹きだしたので鳴海も笑ってしまった。すると佐々木夫人が「こらっ」と怒ったので、自宅の2階へ退散した。
「吉田さん来てるんだから、下で食べなさいよ」
「わかってる」
ぎしぎし鳴る階段をのぼる。昭和めいた廊下の一番右奥が鳴海の自室だ。部屋に入ると気が抜けた。鳴海はリュックを降ろして一息ついた。
彼の部屋は、幼少期からさほど変わっていない。
角のけずれた子供机には、マクロ経済学入門や基本財政学、経済史等の本がファイリングされた資料と共に整然と並んでいる。本棚には推理小説が詰めこまれ、几帳面にたたまれた布団の上に読みかけの文庫本がある。
カーテンレールに洋服カバーにつつまれたスーツが吊られている。来年の4月まで眠る予定だ。彼の心がふいに空っぽになった。4月は来ないかもしれない。
ノックの音がする。「なに」と声をあげると、由美が素早く入ってきた。
「なるちゃん、急にありがとうね」
彼女は満面の笑みを浮かべていた。
「べつに、よかったな。いい人そうで」
「うん。吉田さんにはちゃんと説明してあるから、あんまり心配しないで。それだけ」
彼女は「はやくごはん食べましょ」と鳴海の背中をおした。下では両親と加奈子が吉田を囲んで食事をしていた。
「閉店したのか?」とたずねると、
「まさか。吉田さんがお客さんだよ」と哲夫がにやけた。
吉田は終電ぎりぎりまで店にいた。加奈子や敏江から質問ぜめにあって狼狽していたが、けして嫌な顔はしなかった。義兄として弟と仲良くしたいのか吉田はよく鳴海に話しかけてきた。それが非常にむずがゆかった。
吉田と由美を見送って、自室へ戻った。時計の針は0時を指していた。
携帯を見ると「新しいお兄さんはどうだった?」と理央からメールが入っている。
「いい人だった」と返す。
液晶を眺めていると青山旭の顔がよぎった。鳴海は眉間にしわをよせた。
知りあいがいるほうが安心する、と彼は言っていた。
妙な話だ。俺はおまえの知りあいじゃない。友達でもない。そう思ったことが彼に伝わっただろうか。あの奇妙なナポリタンの能力を、やつも持っているのだろうか。
鳴海は色あせたカーペットを両足でこすった。
生まれてこのかた、この家で暮らしている。進学を機に家を出ようかと考えたが、金を貯めるために実家暮らしを選んだ。奨学金を借りてまで経済学部に入ったのも就職のためだ。将来のために人脈を作ろうと考えて、あちらこちらに顔を売った。そして就職に有利な人気ゼミにすべりこんだ。3年生まではNPO団体を手伝う一方でイベントサークルの幹部を勤めた。就職活動の準備を完璧にこなした。第一志望の内定を得たのは当然だった。特に感慨もなかった。
来年には社会人だ。貯めた金でアパートを借りて、ひとり暮らしをする。ようやくこの家からおさらばできる。
鳴海は幸福に満ちた由美の顔を思い浮かべた。
姉ちゃんもそう思っているのだろうか。
唇が甘い。親指でぬぐうと、デミグラスソースが付いていた。
彼は立ちあがった。リュックを背負って部屋を出る。
「鳴海、どこ行くの?」と洗い物をしていた敏江が驚き顔でたずねた。「知り合いん家」と言い捨てて、外に出る。
人っ子一人いない住宅街をぬけ、暗い河にかかる橋のような横断歩道を渡る。汗がこめかみを伝う。
街灯に照らされた影が一足先に神社へと駆けこんだ。
「地球人、ナゼ走る。地球が丸いと知らぬのか」
しわがれた声がした。縦横無尽にひろがった枝の影が触手と重なる。オレンジ色の化物は神社の門番のようだった。
「急ぐ理由があるのか。だれかウマレタか? それともシンダか?」
触手をにらみつける。ユウキの家へ向かっていたのだが、なぜナポリタンがここにいるのだろう。
「理由がある。ダカラ、我来た」なにもかも理解していると言わんばかりに、触手が肩をすくめるような動きをした。
「迎えにきてやったのだ。感謝しろ」
考えを読まれて非常に不愉快だったが、鳴海はむかつきを抑えて、
「おい、麺類」と口をひらいた。
「ナンダ」
「本当に3月1日で地球がなくなんのか」
「なくなりはしないぞ。高エネルギーの集積によって砕けるだけ」
「砕けちったら俺たちは死ぬだろ」
「生命の行方か? さあ、我にはワカラヌ」ナポリタンの声が高くなる。
「ワカラヌ故、我、生きたい。死ぬよりも生きるほうがワカル」
鳴海は頭をかいた。
「あいつが幸福になればいいんだな」
「幸福。ソノとおり。青山旭は幸福ではない。幸福を見いだせば、負のエネルギー、発生しない。我、通信成功する」
「わかった」ひとりうなずく。「わかったよ」
「ほう」
「いまアイツはどこにいるんだ」
ナポリタンはずるずると這って、敷地の隅にあるベンチに近づいた。青山旭は夜空を見上げていた。UFOの到着を待ちわびる宇宙人のようだった。
彼はゆっくりと鳴海に顔をむけた。表情が微弱な電気を流されたように動いた。
「おい」すたすたと歩みより、仁王立ちする。
「旅行券をもらうことにした」
彼は宣戦布告をする政治家のように言った。
「バイトとはいえ、やると決めたらとことんやるからな。アンタもちゃんと協力しろ」
「協力」
「ああ。サービス業が効果的に仕事をするには、客の誠意ある態度が不可欠なんだよ」
「知らなかった」
「バイト経験ないのか、アンタ」
「ない」
「じゃあ覚えとけ。あの変な叔父さんとこ行くぞ」
旭はベンチから動かなかった。
「君は協力する。ナポリタンがそう言った。だからぼくも来た。でも」彼は首をかたむけた。
「なぜ?」
鳴海は宙を見上げた。先ほどまで気にも留めなかったが、今夜は月の大きな夜だ。
このテンポの一歩ずれた同級生を幸福にする業務は、これまでやったどの作業よりも、非常に手がかかりそうだった。
「サービスに理由はない。店員の親切は素直に受けとれ」