宇宙哲学におけるパスタについて
1週間後。鳴海はバイト後、理央の家に向かっていた。彼女は学生アパートで気ままな1人暮らしをしており、今日の夜は彼女と楽しむ予定だった。よく晴れた夜だ。通り道に神社があり、敷地を大きな桜の樹がぐるりと囲んでいる。その木陰の奥に本殿があった。先日、改修工事を終えた社は立派な緋色の屋根を光らせている。
境内には人影がない。鳴海は足取り軽く参拝道を歩いた。理央はいつでも彼を歓迎した。
「オクビョウモノ」
足を止める。参拝道にそって植えられた銀杏の樹は枝が邪魔だったのか、何年前かに切り落とされてしまった。その無残な断面に、なにかがうずくまっている。オレンジ色のミミズのようなものだ。
「旭や、オクビョウモノが来たぞ」
鳴海は数歩後ずさった。それはうごめいている。金属タワシをトマトソースの満ちた鍋に突っこんで、ゴミ箱に廃棄したような見た目の何か。塊の中にはピンク色や緑色がきらめいている。
彼は息苦しさを感じた。動物にも人間にも見えない。だが動いている。恐怖に冷や汗が出る。あきらかにこの世に存在してはいけない類のものだ。
つんのめりながら逃げだすが、木の根っこに右足をとられた。膝から地面に突っこみ泥だらけになる。背後からひび割れた笑い声が聞こえた。
顔をあげると白いTシャツを着た若者が立っていた。
アイツだ、と鳴海は思った。あのとき買ったTシャツを着ている。青ざめた死人の顔で、こちらを見おろしている。
「大丈夫」
若者は壊れたレコードから出たような単調すぎる声で、そう言った。
「ダイジョウブ? ダイジョウブと聞いたのか、旭」
しわがれた声が若者にたずねた。
「ダイジョウブに見えるぞ。五体満足。腕、足、頭、ついている。血液、出ていない。脳みそが少し悪いようだが」
触手が鳴海と若者のそばに近寄ってきたので「やめろよ」と鳴海は叫んだ。「からかうんじゃねえよ。警察呼ぶぞ」
「目も悪いな。ケーサツなど呼ぶ必要ないのだ」
「からかう」若者が不思議そうにくりかえした。「からかう?」
鳴海は彼らから視線を離さずに、身を起こした。ホラー映画のさまざまな場面が走馬燈のように駆けめぐる。
「佐々木鳴海よ、話を聞け」触手がうごうごと動いた。
「オバケ、幽霊、化け物、関係ない。エイリアン、近いのだ」
鳴海は顔面蒼白になった。まさに自分がそれを考えていたからだ。触手は楽しそうに左右に揺れている。
「エイリアン?」とかすれた声でたずねる。
「我、エイリアン。ソノとおり? ソウでもない。ただ佐々木鳴海。オマエが理解しやすいように呼ぶ。我が望むのは、地球人の佐々木鳴海に青山旭を幸福にしてもらう。それだけ」
樹々を風がざーっと揺らした。
触手は歌うように「さもなくば、この星、サヨウナラだ」と続ける。
「サヨウナラ」と若者がくりかえし、発音の妙を不思議がるように首をかしげた。伸びすぎた髪が右目にかかった。
「サヨウナラって、どういう意味だよ」と鳴海は体をこわばらせた。「なんだよ、UFOで連れていくのか。はあ? 意味がわからん……」
「ちがう。小規模すぎる。サヨウナラは地球人。オマエたち」
「は?」
「青山旭が幸福にならない。地球人、のこり座標……地点、5支点硝化、三、地点。交錯。絶滅」
「はあ?」
「2019年、3月1日ってこと」
若者が口をひらいた。
「第5支点硝化は、第5次元から認識される、この太陽系におけるパンスペルミアの終了地点」
「ぱん……」
「パンスペルミア」
「佐々木鳴海。オマエが青山旭を幸福にする。地球は救われる」触手が近寄ってきた。「来い。我は理解している。オマエは理解していない。理解させる。強制だ」
「ちょ、やめろ! 離せ! この麺類!」
ぽかんとする鳴海の腕に触手がからんだ。手足を縛りあげられ、まるであやつり人形のようだ。
「旭、手伝え」
どうやらこの若者が青山旭のようだ。パニックになる鳴海の脳内で、ピカンと豆電球がついた。
「まて、もしかしてアンタ、原小の青山旭か」
青山旭はうなずいた。
「君は原小学校に通っていた佐々木鳴海」
鳴海は、若者が見ず知らずの他人ではないと分かって、少しだけ安心した。一縷の望みをかけて、
「青山、この麺類に俺を離すよう言ってくれないか」と頼んでみる。
「麺類」
「……この宇宙人」
「麺類ってなに」
会話のテンポが合わない。苛だちまじりに「このナポリタンもどきの化け物に、俺を離すように言ってくれ」と言いなおす。
「ナポリタン」青山旭は触手を見た。「君はナポリタンなのか。知らなかった」
すると触手は、げげげげ、と老人が痰を詰まらせたような笑い声をあげた。
「知らなかったのか。我はナポリタン」
「なるほど」
結局、手足は解放されなかった。
十分後、鳴海は混乱から回復する暇も与えられず『アナザーウェイ』の隣にある喫茶店に連れていかれた。泥だらけの膝を突きあわせるのは、棺桶の中が似合いそうな青山旭と、二本の触手を腕のように伸ばしているナポリタンもどきである。
「見えていないのか。こいつのこと」
注文を取りに来た店員は、泥だらけの鳴海には注目したが、より珍妙な触手には目もくれなかった。宇宙人は鳴海をバカにしたかのように哄笑するだけだった。触手は縦横無尽に動きまわり、三角柱のメニュー表を浮かばせて遊んだり、旭の髪をいじっている。
「旭、鳴海に説明してやれ」
この触手のどこに口があるのだろう、と考えていると「そんなモノ我にはないぞ」とまたもや思考を読まれる。鳴海はぞっとして、なにも考えないように努めた。
「ごめん」と青山旭はあやまった。
「迷惑をかけるつもりない。ただナポリタンが、君に頼むのが良いだろうと言った」
「ちょっといいか」と片手をあげる。「こいつは本当にナポリタンなのか?」
「先ほど知った。彼はナポリタン。君が指摘した」
「ああ、うん。そうなんだけど」
「ナポリタンは人間ではない。ご想像のとおり」
「ご想像どころか、ごらんのとおりって感じだが」
「でもナポリタンは宇宙人でもない。宇宙の外から来た。もう一個の宇宙、地球に相当する軸で誕生した生命の進化系。高いエネルギーを有する磁場を身体にふくむ。銀河の外と内を渡る。不要な星を処理する役割がある」
「はあ」
「昔、彼らの誕生を再現する計画を実行した。環境の似た星を探して種をまく。アミノ酸、塩基を水に入れて培養。生命が発生。計画は成功。彼らは地球人を見守った」
「……はあ」
「想像力、過去や未来をぬきとる作業にすぎないのだ」とナポリタンが触手をかかげた。
「進化を再現する過程を、オマエらは想像とよんでいる」
「時間が経過する。実験の最終段階に入る」と旭がつづけた。
「歴史の再確認がとれた。この宇宙でも生命は生まれる。よって実験場は不要。処分される。実験場の現状観察に訪れたのがナポリタン」
「つまり、地球がなくなるって言いたいんだな」
「そう」
鳴海は大きく息をついた。とても信じる気になれなかった。先ほどまで穏便な気持ちで、いつも通り理央の家に向かっていたはずだ。ドッキリ大成功の看板が現れてもおかしくない。
「意味がわからないんだが」と鳴海が頭を抱えると、旭が口を開く。
「1999年8月1日。ナポリタンは、ハワイのマウナ・ケア山に降りたった。そこで当時新婚旅行で天文台群を観光していた青山夫妻の息子、青山旭と衝突事故を起こした」
「おまえと?」
「そう。衝突したときに、遺伝子がナポリタンの磁場の影響をうけた。青山旭は、3次元上の身体にナポリタンの磁場を共有した」
「磁場っていうのは」
「ナポリタンたちは強力な磁場を体内に持つ。人間の磁場よりもかなり強い。その電磁波の周波は独特。通信を行う。青山旭は通信が不可能。でもナポリタンの通信に影響を与える」
旭はかすかに顔をしかめた。
「今年の3月1日までに、ナポリタンは仲間たちに計画の延期を申しでる予定。そうすれば地球の破壊は延期。しかし、今のままでは無理」
「なんでだよ」
「旭が幸福でないからだ」とナポリタンが言った。
「我々の磁場、共有されている。旭、我と同じ波長で負のエネルギーを発生させる。旭が幸福でないゆえ。幸福でないから地球が不要、そう思うのだ」
「不要とは思っていない」と旭は反論した。「なくなっても困らないだけ」
鳴海は悲鳴をあげてのけぞった。ナポリタンが触手を天井近くまで伸ばして「ソレが問題なのだ!」と叫んだからだ。
「旭の感情、我の波長に影響するのだ。どうでもいい、すなわち壊してもいい。ソウ考える。ソレは困る!」
「なあ、よくわからないんだが」と、おそるおそる聞く。正直なところ、まるで理解の及ばない話だったが、このままだまって話の進むに任せていると、とんでもないことになりそうだった。
「なんでアンタ……ナポリタンは地球が壊れると困るんだ。もともと、そのつもりで来たんじゃないのか」
「我々は壊すコトが役割の生命体。個体の磁場を集積させて高エネルギーで爆発させる」
触手が徐々にしぼんでいく。
「我も爆発する。我の星、ソレを生命の終わりとして適格とする。だが我はまだ生きるコト望む」
「つまり死にたくないからか」
「命であるならば、ソウ思うべき。しかし旭は思わない。幸福ではないから。困るのだ」
つまり、この宇宙人いわく人類は彼らの制作物らしい。そして最近になって地球ごと破壊する予定になった。ただしナポリタンは仲間たちに計画を止めるよう要請したい。だが磁場を共有している青山旭が幸せでないため、通信がうまく行かず困っている……。
「わかった」
「理解したのか」
「前提は理解した。いくつか質問があるんだが」
「ナンダ」
「まずどうして3月1日なんだ? その日に地球がどうにかなるってわけじゃないよな?」
宇宙における時間の単位が途方もない尺度で語られることは知っている。この話も何兆光年、何億光年レベルで扱われる物事ならば、仮に3月1日までに通信が成功せずとも、地球の破滅はかなり後の話ではないだろうか。
「馬鹿者、3月1日、その日に壊しにくるぞ。我々、宇宙の外を囲む。監視しているのだ。光の速さで物事を考えるな」
「……じゃあ本当に、俺たちの言うところの3月1日に地球が爆発すんのか」
「そうだ」
水を飲んで心を落ちつけてから「どうして今なんだよ」と質問する。
「はやぶさ2号の着陸が来年予定されているから。小惑星リュウグウに、ナポリタンたちが人間を作ったときの痕跡がある」と青山旭が話した。
「それがもうすぐ発見される予定。宇宙開発に火がつくまえに、彼らは止めたいと考える」
「その痕跡とやらは消せないのか」
「ムリだ。生命を生むに足るエネルギーを消すなど、星を消すよりムズカシイ」とナポリタンが嘆く。
「彼らは地球から飛びたつ何番目かの探査機が、いずれ痕跡を発見すると予期していた」と旭が補足した。
「だからハワイに降りて関係者を観察しようと試みた」
「アンタ、はやぶさ2の関係者なのか」
「父親が出資者のひとり」
鳴海は小学校時代の旭を思いだした。いつも清潔そうな服を着て、裕福な者がもつ独特のオーラを発していた。
「ナポリタンのことは、ご両親は」
「知らない」
疑わしげな視線を旭に向ける。この化け物の存在を信じたくはないが、実際に目の前にある存在を否定することはできなかった。
「知らないまま、この年までやれるもんなのか」
「あまり会わない」
そのときコーヒーとカツサンドが運ばれてきた。鳴海はコーヒーを喉に流しこんで物思いにふけった。
地球が3月1日に滅ぶ。頭のなかでくりかえしてみる。目をぎゅっとつむって、開けてみる。先ほどから何度も確認したが、夢ではない。
旭は巨大なカツサンドを丁寧に食べながら、
「これはナポリタンの主張。ぼくは君に迷惑をかけるつもりがない。君にその気がないなら構わない」と言った。
「もう十分迷惑なんだがな。第一、仮にすべてが本当だとして、おまえの一存で地球の滅亡がかかっているわけだろ」
「そうなる」
「そうなる、じゃなくてだな」
「3月1日までには幸福状態に行きつける。問題ない」
鳴海はため息をついて「もう1個質問いいか? あ、青山にじゃなくて、そこの麺類のほう」とナポリタンを示した。
「幸福、幸福ってくりかえすけどよ。なにが原因でこいつは幸福じゃないんだ。俺にその原因がどうにかできると思ったから、声をかけたんじゃないのか」
「ほう、鳴海にしては察しがいい。そのとおりだ。オマエが与えるモノによって青山旭は幸福になりえる」
「だから、その俺が与えるものってなんだよ」
「分からぬ」
鳴海は半笑いをうかべて「は?」と聞きかえした。
「ダカラ分からぬ。オマエにあって旭にないもの。我、地球人ではない。分からない。ただオマエをあの店でよく見た。適格だと感じる。それだけ」
あの店とは『アナザーウェイ』のことだろうか。鳴海はうんざりして「そんなよくわからん理由で協力できるか」と言った。
「わからないモノはしかたがない。我、地球人の幸福、理解できない。オマエらが考えろ」
「いや、ふざけんなよ。そんな理由で協力できねえよ」
「だが協力しないと地球、滅ぶぞ?」
鳴海は何も返すことができなかった。信じられない、と心の中で繰り返すと「目の前にあるものを信じろ」と、またもや心を読まれたので、もはや考えることすら許されないのだと知った。
店から出た後、ナポリタンに再び拘束された。
「もう逃げないから離してくれ」と言っても聞く耳をもたない。耳がどこにあるのかさえ不明だ。あきらめて身をまかせていると近所の駅前に連れて行かれた。
コンコースを横目に人気の失せた住宅街に足を踏みいれる。1分も歩かないうちになんの変哲もない一軒家の前に辿りついた。
「おまえの家?」と聞くと、彼は首を横に振った。
やがて出てきた人物を見て鳴海は仰天した。妙齢の女性だった。黒いキャミソールに包まれた身体はバービー人形のような素晴らしいプロポーションだ。彼女は豊かな髪をかきあげながら「あら、旭ちゃん」とほほえみ、それから鳴海を見た。彼は胸元から目をあわててそらした。
「おともだちぃ?」
旭はなにも答えなかったが、彼女は中へ通してくれた。腕から触手が外れ「入れ」と指図される。やむなく玄関をくぐると、中はモデルルームのように整然とした部屋だった。ただし妙なことに、革張りのソファとガラステーブルが、押入れと対峙するように設置されている。
「ダーリン、旭ちゃんが来たわよ」
女性が物置に向かって声をかけた。すると戸がほんの少しだけ開いた。物置を改造した部屋のようだ。薄暗がりに、天井に届くほど背の高い本棚が見えた。鳴海は目をまるくした。本のタイトルは『LOVE★BODYきらめき初体験』『えっちなお姉さんいたずらな山のこだまよ』『サイパン悲しみのおっぱい』……。
そこまで目を走らせたとき、筋張った人間の腕が背表紙の前に現れた。長い指がピンク色の本にかかって、ぴたりと止まる。5本の指が戸をつかんだ。
「旭、いらっしゃい」
若い男の声だった。指を女性に向けて「お茶、出してあげて」と指示する。
「はーい、ダーリン」
「つれてきた」と口をひらいたのは旭だった。すると人差し指が鳴海をさしたので、どきっとして姿勢を正した。まるで指先に目がついているようだった。
「おやおや。すまないね、指だけで。はは」
「あ、はい。お邪魔しています……佐々木鳴海です」
鳴海は得体の知れない人物に対してどうして礼儀正しくしているのだろうと疑問に思ったが、若い男の声にはどこか人を威圧する響きがあった。
「鳴海くんね。はじめまして、どうぞよろしく。旭の叔父のユウキです」
女性がティーセットを出し、椅子に腰かけて足を組んだ。なるべくそちらを見ないように努める。
「それで、鳴海くんが例の協力者ってわけだね」
「ナポリタンはそう言ってる」
「なぽりたん? そういう名前だっけ」
「さっきつけた」
「あ、そう。まあよかったね、ちゃんと見つかって」
彼はナポリタンを認識しているようだ。鳴海は床を這いずる麺類と、いまだに腕しか登場していないユウキを交互に見た。すると彼は思考を読んだように「ぼくには、それは見えないんだ」と言った。
「宇宙人だっけ? よくわからないけど。旭から聞いてはいる。人を探していたってことも」
「はあ」
「とにもかくにもね、旭に友達ができるのは喜ばしいことだよ。見てのとおり、まさしく宇宙人みたいでね。ぼくも相当な変わり者だって自覚があるけど、この子は輪をかけて変人だからさ。ははは」
「アハハハ」と女性が高い笑い声をあげた。
頭痛がした。旭はニコリともしていない。
「それで、どうやって彼を幸福にする予定なんだい? プランはあるのかな」
ふいにユウキの手のひらが開いた。鳴海は彼らの強烈なインパクトに面食らっていたが、ようやくわれに返って、
「申し訳ないんですけれど、そもそも俺は……」と口を開く。
「ああ、ちょっと待って」とユウキが言葉を断ち切る。
「把握しているよ。君にメリットが提示されていない。そういうわけだね?」
「メリットとかじゃなくて。そんな妙なこと引き受ける気はないんです」
「信じていないから? でも君にはその宇宙人が見えているんだろう?」
「そうですけど、でも」
「そりゃ僕も突飛な話だって思ったよ。でも見えているものを信じないで、なにを信じろっていうんだろう? 僕より君のほうが、よっぽど信頼に値する証拠をつかんでいるんじゃないかな」
「信じる信じないの問題じゃなくて、俺がやる理由は」
「そう。つまりメリットの話だ。正解」
鳴海は口を閉ざした。にらみつけたくとも、眼前にあるのは腕だけだ。
「ハニー、あれを」
女性が弾かれたように立ちあがり、リビングの片隅にある棚の引きだしから厚い封筒を持ちだした。
「このあいだもらったやつで良かったわよねえ?」
「うん。それを鳴海くんに」
さしだされた封筒を受けとる。旅行会社の名前が印字されていた。
「仕事の関係者からもらってね。でも僕は旅行とか行かないし。君にあげてもいいよ」
うろんげな目で戸口を見る。「開けてごらんなさいな」と女性が急かす。確認すると中身はなんてことのない旅行券だった。鳴海の心臓がはねた。ゼロが四個。何枚、いや何十枚あるのだろう。
「それだけあったらヨーロッパ一周くらいはできるかも」
ユウキがのどの奥で笑った。
「卒業旅行シーズンでしょ。僕って世の中の役に立ってないからさ。学生の支援をしてやるくらいのことは、たまにしてやりたくなるんだ」
「まあダーリンったら。すてきね!」
「でしょ?」
ナポリタンが旅行券を一枚とり「太っ腹。さすがユウキ」と言った。
「学生さんでそれだけ稼ごうと思ったら、けっこう大変でしょ。たいした金額じゃないけど支援したげるよ。あ、飛行機とかも手配してあげてもいい」
「……バイト代ってことですか」
「そういうこと。前払いで20枚。成功したら30枚追加。成功条件はそうだな。旭に幸せになったと証言してもらおう」
「証言って」
「この子は嘘つけないから、それで十分さ。いい条件でしょ。宇宙人うんぬんはともかくとして協力してあげてよ。一応かわいい甥っ子なんだ。仲良くしてやって」
5本の指が左右に振れて、最後にサムズアップした。
鳴海は旅行券を穴のあくほど見つめた。これだけの金額があれば卒業旅行の心配はしなくてすむだろう。現在のアルバイトに加えて短期バイトをしようかと迷っていたが、その必要もなくなる。
旭をうかがう。なにを考えているのか分からない顔で宙をながめている。
鳴海は封筒を机のうえに置いた。「悪いですけど、やっぱ無理です」と立ちあがり、早足で玄関に向かう。
「あらぁ」と女性が言い「あれれ」とユウキが言った。旭は目をかすかに見開いた。
「こら! ドコに行く」と怒った触手が伸びてきたが「ナポリタン、だめ」と旭が止めたので無事に家を後にできた。
鳴海は駆け足で夜道を進んだ。だれかが追ってくる気配はなかった。太い息をついて後悔する。やはり受けとればよかった。立ちどまって携帯を見る。
「げっ」
理央から大量のメッセージと着信が届いていた。時刻はとっくに21時をすぎており、彼女の激しい怒りは想像に難くなかった。
頭を抱えながら、とぼとぼと道を歩む。空はいつのまにか曇ってしまい、星一つ見えなかった。先程までの狂乱が夢のように思えた。
いや、夢だったのだ。鳴海は自分に言い聞かせた。0の並んだ旅行券が名残惜しく頭から離れなかったが、戻るつもりは到底ない。これまでもいつだって堅実にやってきたのだ。