ひとりぼっち同士の私たち
平穏な日々が続いた。秋の木漏れ日が後を引きずっていたが、いつのまにやら神社の葉はすべて落ちていた。
鳴海の体調はすぐに回復した。その翌日のバイトも翌週のゼミにも、普段どおりに参加した。理央と離れた席につくと仲間たちから事情をたずねられた。「俺が合コンと相席居酒屋に行ったのがきっかけで別れた」と説明した。呆れられたが、それだけだった。
卒業論文もなんとか書きあげ、卒業を待つのみの身体となった。
12月30日、22時30分。彼は年内最後のアルバイトを終えた。
「なるちゃんは結局卒業旅行、どこに行くのさ」
マフラーに凍りついた口ひげを乗せた店長がたずねた。
「それがまだ決めてなくて」
「ええ、なんでよ」
「面倒くさくなっちゃったんですよね」
「いい若者が嘆かわしいなあ……なんなら俺と行く?」
「店長は、この店からまだ卒業できないですからね」
分かれ道に来て「よいお年を」と言って別れる。凍える空気に肩をすぼめながら、青みがかった田舎道を歩いた。
『MANJYOKU』の窓灯りは消えていた。結局今年度中に扉のたてつけは直せなかった。
店内は暗かった。古い油のにおいがぷんと鼻につく。鳴海は眠れる肉食獣のようなテーブルの間をすりぬけて暖簾をめくった。
すると厨房からぬうっと影が立ちあがった。懐中電灯が顔を照らしだし、彼は声にならない声をあげた。
「なんだ鳴海か。おかえり」
影の正体は哲夫だった。両手にゴム手袋をはめている。
「……なにやってんの」
「見てわかるだろう。掃除だ、掃除」
哲夫はオーブンのふたを閉め、手袋をはずした。
「まだメシ食ってないのか」
「まあ、うん」
「ちょっと待ってろ」と言いながら、コンロに火をかけて、冷蔵庫からハンバーグのタネを出す。
「それ明日のだろ」
「いいだろう、たまには」
「でも」
「俺がいいんだからおまえが文句言うことじゃない。ほら、父親の親切は素直に受けとれ」
犬を追いはらうような仕草で客席に追いかえされる。しぶしぶカウンターについた。
鳴海は不審に思っていた。自分のために食事を用意してくれたことなど数えるほどしかない。佐々木家の食事は母親と子供の当番制だった。父親の料理を口にするのは、客の余した冷めたものだけだ。
蛍光灯の明かりがもれる厨房から肉の焼ける音がした。哲夫の薄い頭髪がカウンターから見えた。
白飯を自宅のキッチンから運ぶと、ハンバーグプレートを両手に乗せた哲夫が出てきた。
「自分も食べんの?」
「俺が焼いたんだ。あたりまえだろ」
哲夫は鳴海のななめ後ろのテーブルについた。首をひねりながら、もうひとりぶんの白飯をよそって席につく。
鉄板の上でハンバーグがぱちぱちと鳴っている。格子の入った焼き目にデミグラスソースが染みこんでいく。いんげんのソテーはつやつやと光り、ナポリタンは鉄板からあふれそうになっていた。
「盛りすぎ」
文句を言って、両手を合わせる。なんだかんだ言いながらも空腹だった。
ハンバーグは熱かった。美味かった。
「聞いたか」
急に哲夫が話しかけてきた。
「なにを」
「おねえちゃん、2月から吉田さんと東京で暮らすんだと」
「ここだって都内だけど、一応」
「こんな場所、東京のおまけみたいなもんだろ。もっと都会の方だよ」
彼はため息をついて「由美がなあ」とぶつぶつくりかえした。
「なに、さみしいのかよ」と鼻で笑う。
「よかったじゃん、もらい手がいて」
「さみしいっつうかなあ、時は流れるもんなんだって思ったよ。おまえもこの年になればわかる。あっちゅうまだぞ、あっちゅうま」
「ジジくせえな」
父親とこれほど長く会話をするのはひさしぶりだった。
「おまえも今年中には家を出るしな」
「まあ、いつまでも家にいるわけにはいかないだろ」
ここからでも通勤はできるが独身寮に入るつもりだった。実家暮らしのほうが金が浮くことは承知だ。奨学金を返さなければならないし貯金もしたい。
それでも家には、もういられなかった。
「まあ、おまえはどうでもいいんだよ」
「どうでもいいってなんだよ」
「しっかりしているから。どこでもやっていける」
鳴海は黙った。哲夫はナポリタンを飲みこんだ。
「母さんと俺の子とは思えないくらい、しっかりしたよ。まあ由美も加奈子もきちんとしてるけど、鳴海はなあ。大学も行ったし、いいとこに就職するし、母さんが鼻高々だ」
「気色悪いな、なんなんだ」
鳴海は椅子に座りなおした。居心地悪かったのだ。
「由美も加奈子もおまえも、どこにでも行っていいって言ってんだ」
「はあ?」
「おまえらがずっと店にいてもうっとうしいし。チビッ子のときはいいが、でかぶつが三人もいると困る。好きなようにどこにでも行け」
「……言われなくても」
鳴海はむすっとして食事を再開した。
「由美なんか新婚旅行でスペインに行くらしいぞ。おまえもせっかくなんだから、どっか行かないのか」
「行かない」
「どうしてだ」
「なんでもなにも、行きたいところもないし」
「韓国は?」
父親をふりかえる。彼は口の横についた米粒を取って、
「俺は母さんと行ったのが最後だけど」と軽く言った。
「ええっと、30歳のときだから……もう20年以上まえか。お姉ちゃんが母さんの腹の中にいてな。江陵へ行ったんだ。ばあちゃんたちに会いにな」
鳴海は父親の顔面をじっと見つめた。
「おまえ、コーヒー通りって知ってるか。俺もこのあいだ知ったんだが。若者に注目されてるんだってよ」
「へえ」
「で、俺は90年代にコーヒーをあそこで飲んだわけだ」
「ふん」
「先見の明ってやつだな」
「うまかったのか」
「さあ」と彼は肩をすくめた。
「おぼえとらんな」
じゃあ意味がないじゃないか、と鳴海は思った。
「夏だったから海水浴場に行ったんだ。でもその日は肌寒くてな。母さんは海に入りたがらなかった。しょうがないから近くでコーヒーを買って、ぼーっとしていた」
「あんまり楽しそうな旅行じゃないな」
「まあなあ。海なんてどっから見ても一緒だと思ったよ」 彼はうれしそうに言った。
「広くてよ。天気は悪いし、寒いし、風が強くて波の音がうるさかった。日本の海も広いし寒いし泳ぐには向いてない。どちらにしろ母さんの機嫌は悪い」
「そりゃ同じ海なんだから」視線を落とす。
「変わんないだろ」
哲夫は「鳴海はそこからつけたんだぞ」と不意に言った。
「なに?」
「だから鳴海って名前は、海が鳴るって書くだろ。どっちから聞いても海の音なんて一緒だ。そういうやつに育ってほしかったから鳴海ってつけたんだよ」
鳴海は呆然として、それから顔をしかめた。
「小学校のときは、鳴子温泉でつくった子だからって言ってなかったか」
「そんなん嘘だ」
「それを教師に話して困らせた、俺の小学生時代に謝れよ」
「いいじゃないか。いま知ったんだから」
それからふたりは黙々と食事を終えた。皿洗いは鳴海がした。哲夫はケロリとした顔でいなくなった。
自室に戻り、布団に倒れこんで目を閉じた。おもむろに携帯を取りだし、電話をかける。
6回ほどコールが鳴った。諦めかけたころ「はい」と、かぼそい声が聞こえた。
「……鳴海?」
「ごめん、急に」鳴海は体を起こした。
「元気か?」
「元気かって」理央の声は戸惑っていた。
「まあ元気だよ。鳴海は?」
「俺もわりかし元気だけど」
「どうしたの」
彼は深呼吸をした。「あのさ」と話しだす。
「ごめん」
電話ごしにザーザーと音が鳴っている。
「たしかに理央の気持ち、ぜんぜん考えてなかった。俺は」
「なんであやまるの」
彼女は震え声でさえぎった。
「俺は理央の不安とか嫌がることを想像していなかった。本当にごめん」
見えない相手にむかって頭を下げる。断続的に息のつまる音が聞こえた。
「もう連絡もとっちゃダメだって思ってた」彼女はぽつりと言った。
「謝っても許されないだろうって、もう話しかけもしちゃいけないって思ってたから」
「うん」
理央はしゃくりあげていた。
「ごめん、本当に」
彼女の姿を想像する。学生寮の一室で、クッションを抱きしめて泣いているのだろう。なにかに押しつぶされそうな背中は、ひとりぼっちだった。
「だいじょうぶだよ」
言葉に意味はなかった。ただ安心してほしかった。もう取り返しのつかない物事だと思ってほしくなかった。
「だいじょうぶだから」
お互いの呼吸音がゆっくりと続いていた。理央の気持ちが落ちついたことを見計らって「それでな」と切り出す。
「言わなきゃいけないことがあるんだ」
彼女が息をのんだ気配がした。そして覚悟を決めたように「言って」とうながした。
「別れたいんだ」
言葉は小さな針のように鳴海の胸を突きさした。
「電話で言うことじゃないと思う。でも、今言わないと間にあわない気がしたんだ」
「……わかるよ」
理央の泣き笑いが脳裏にうかんだ。
「鳴海のそういうとこ、好きだよ」
俺は理央の、そう言ってくれるところが好きだった。そう思ったが、彼はなにも言わなかった。言ってはならないと知っていた。
「ありがとう。いま言ってくれて。年が明けてからじゃ気分悪いもんね」彼女は無理やり明るい声を出した。
「新生活の年だし。せっかくなら新たな気持ちで始めたいじゃん」
「そうだな」
「……あのさ鳴海」
「うん」
「鳴海はいいやつだよ、本当に。本当にそう思っている。男の人としてじゃなくて人間としてもすごく尊敬してた。だから」
彼女は言葉をつまらせた。
「むりかもしれないけど。これからも友達でいてください」
指先で携帯のマイクをおおった。それから深く息を吸う。
「あたりまえだろ。理央はいいやつだから」
電話が切れた。頭をひざのあいだに挟んで、顔を覆う。がばりと立ちあがる。コートを羽織り、財布と携帯をポケットにいれて階段を駆けおりる。
外に出ると強風が髪をまきあげた。真夜中は冬そのもので、だれかが悲鳴をあげているようだった。彼は暗闇に向かって走りだした。




