彼の皿一杯の人生
佐々木鳴海は優れたアルバイターである。
大きな不足もない代わりに、これといった特徴のない街、それが鳴海の暮らしてきた場所だった。
バイト先であるリサイクルショップは住宅地のそばにポツンとあって、人々にささやかな消費の楽しみを提供している。彼はこの店を愛していた。実家から自転車で20分の距離にありながら時給1000円、夜22時からは深夜手当がつく。割りのいい職場だ。彼は効率的で、刺激的ではないが平凡すぎず、安定している場所が好きだった。
鳴海は買取査定の途中だった。リサイクルショップでやらなければならない仕事は色々とあるが、どれもさして慌てる必要のないものだ。猛暑の8月、金曜日の18時はちょうどよい客入りで、冷房の効いた店内は静かだった。
「麺がべちゃべちゃなわけだ」
口髭をこすりながら話しているのは店長だった。
「スパゲッティって芯がちょっと残ってるのがおいしいでしょ。でもうちの奥さんのは、べちゃべちゃなのよ。あれじゃスープパスタだよ」
「作ってもらってるブンザイで文句言っちゃだめですよ」半笑いで答えるのはレジの前に立つパートの主婦だ。「店長、料理できないでしょ」
「そうだけど。でもさ、ナポリタンなんて、麺を茹でて、具材とケチャップで和えるだけでしょ。もうちょっと美味しく作ってくれても……」
「だからそのだけが手間なんですって。文句あるなら自分で作ればいいじゃないの」
店長は唇をとがらせて「ねえ、なるちゃん。どう思う?」とふりかえった。
鳴海は小さなため息をついてから「なんですか?」と聞きかえした。
「ナポリタンって料理にしちゃ簡単なほうだし、俺たちでも作れるよね?」
鳴海はすこし悩んだそぶりを見せてから「ナポリタン、けっこう難しいですよ」と答えた。
「味が染みこんでないと、うまくないじゃないですか。だから麺を寝かすんです。べちゃべちゃなのは正しいんですよ」
主婦は感心したようにうなずき「若者は違う」と感心した。店長は肩をすくめるだけだ。レジに客が来たので鳴海は会話から離脱した。
「たいへんお待たせいたしました」
客は華奢な若者だった。顔色が悪くむっつりとしている。この手の根暗そうな若者は、よくこの店によく現れる。鳴海はスキャナーを手にとりTシャツのタグに目を落とした。
視界にオレンジ色のなにかが現れたのは、そのときだった。
鳴海の頭に思い浮かんだのは毛糸だ。細くて長く、絵本の中でおばあちゃんが惨たらしい色のセーターを編むためにカゴに入れている毛糸。ただし毛糸はじっとしているものだが、その「何か」は蛇がのたくったように鳴海の手に近づいていた。凍りついた手からスキャナーが落下すると、それは引っ込んだ。
若者は、ゆっくりとスキャナーに目を落とした。角度を変えると、なかなかきれいな顔をした若者だった。ただ能面のような顔のせいで生身の人間というより、人形のように見えた。
鳴海は硬直した体をなんとか動かして、落とし物をひろった。
「申し訳ありません、手がすべって……ポイントカードはお持ちですか」
客は首を横にふった。「540円になります」と言いながらTシャツを袋に入れる。カードがトレイに置かれ、そして鋭く鳴海の首元に飛んできた。
間一髪だった。鳴海は声にならないと叫びをあげて仰け反り、カードを避けた。カウンター内部に落下し、カラカラと乾いた音を立てる。
氷河期のような沈黙がおりた。
やがて「すみません」と掠れた声がした。想像より低い声だった。
「手、すべって」
客は視線をカウンターに落としたまま、そう言った。鳴海は混乱していたが「こちらこそ失礼いたしました」と返してカードを拾った。裏表に返してみたが、何もおかしなところはない。
オクビョウモノ、としわがれた声が聞こえた気がした。
客は何事もなく買い物を終え、店を出て行った。
「どうしたのよ」と店長が話しかけた。「ゴキブリでもいた?」
「いえ、なんでも……」鳴海は冷や汗をぬぐった。「ああ、その、虫が飛んできて、びっくりしただけです」
「ええ、やだ。蜂か、何かかしら」と主婦が眉をひそめると、店長は虫を探して宙をキョロキョロ見渡した。
翌日、鳴海は大学へ向かった。さえぎるものがなにもない炎天下の道を行き、校内の奥にある建物を目指す。もう講義を取っていなかったため、1週間に1度程度しか訪れないが、あいかわらず無駄に広い学校だと彼は思った。やる気のない建築家が作った建築模型のような場所だった。
暑さにあえぎながら階段をあがり、七階にある教室に入る。菓子をむさぼっていた学生たちが、いっせいにふりかえった。
「理央、おめでとう」
まず鳴海が声をかけると、快活そうな女子学生が勢いよく立ちあがって、腕のなかに飛びこんだ。
「ありがとう!」
満面の笑顔をうかべて、肩にひたいをこすりつける。想像以上の反応に彼は少しギョッとしたが、すぐにその背中をなでて「よかったな」と言った。
「おい、ここでいちゃつくな」
「今くらい許してって」理央はふりかえって舌を突き出すと、鳴海を見あげて目をぱちぱちさせた。そっと腕を外し「あとでな」とささやく。
「金融だっけ?」
「理央が銀行、鳴海は総合商社。安定志向だよねえ、ふたりとも」
理央は笑いながら「安定が大事でしょう。貧すれば鈍するのよ」と返す。
鳴海たちが所属するゼミは、経済学部経済学科のなかでも就職に有利なゼミだと知られていて、男6人女2人で構成されていたが、全員が大手企業の内定を得ていた。理央はこのゼミで最後の就活生だったのだ。
「安定安定っつーけど、そんなに安定もしてねえよな」と自嘲したのは、今年の春には既に大手メーカーの総合職内定を得ている田中だ。
「大企業に入ったからって、安心できねえよ。このあいだも、なんだっけ、どっかのデカイ企業が下請けの外国人労働者に訴えられて、大変なことになったじゃん」
「ああ。あったね。そこに内定が決まってるやつは可哀そうだよなあ。配属がそこになったらどうする?」
「まあ、今後は改善されるだろうからいいんじゃねえの?」
「まずさ、そういう人材に頼らなきゃいけない会社って時点で嫌だろ。とすると人材不足の今、ホワイトカラー以外全滅」
呑気な意見に、鼻を鳴らして人差し指を立てたのは、業界三位の出版社に入社が決まっている相沢である。
「大学出て、それ以外に選択肢あるか?」
「おい」鳴海は携帯をとりだした。「合宿はどうすることになったんだ。結局9月6日か?」
「あ、わりい。その日は俺がダメになった。幹部候補生の交流会みたいなのがあんだって」
「なにそれ、すげえじゃん? 早速役員とメシか」
「そうなんだけどさ。やっぱり自分の売りこみ会らしい。怖いだろ。そこで気に入られなかったら幹部候補からポイッだよ。普通に入社するやつらと同じポジションになる」
「そりゃ大変だな。それじゃあ6日は無理だ」
「先生に聞いたら、21日ならいけるかもって」
「おっけー」
「でさあ、アイツ、外資系ねらってたやついるじゃん。やっぱり落ちたらしいぜ……」
また就活の話題にもどっていく。同じ学科の学年一位だった○○は就活を終えていないらしい。××はあそこの内定を蹴って秋にかけるそうだ、うんぬんかんぬん。
ばかげている。鳴海はひそかに眉を寄せた。他人のことに口を突っこむ暇があるならば、早く予定を立ててしまいたい。
合宿の予定が決まったのは、それから2時間後だった。雑談に花を咲かせる仲間たちを後目に、鳴海は席を立った。
「悪い、俺バイトだから」とリュックを背負うと、理央が「わたしも行く」と立ちあがる。ふたりして教室を出ると、彼女は「ねえ、あの言い方ひどくない?」と憤慨した。
「外国人労働者が悪いみたいな言い方だったわ。差別のつもりじゃないんだろうけど、もしさ、そういう人が聞いたら、いい気持ちにはならないよね」
「そうだな」鳴海はどうしたものかと考えた。理央がこの手のことに憤るのは、よくあることだった。そして言い方を間違えると、自分も怒りを買うことになる。「そういう人たちのおかげで生活が支えられているって、まだ気づいてないんだろ」
「だよねえ。みんな、よくわかっていないよね」
彼女はしばらく腹を立てていたが、やがて彼の手をつかんで「ごはん、どこで食べる?」とたずねた。
校舎の上に太陽がうかんでいた。夏の夕方が眩しいのは、なぜだろうと鳴海は考えた。昼間は暑いだけで姿を見せないのに、この時間になると、やたら自己主張の激しい空だ。彼は空を見上げたまま「悪い。バイトだから」と告げた。
理央は怪訝そうな顔をした。
「バイトなの? なんだ、ウソだと思ってた。最近、働きすぎじゃない?」
「卒業旅行があるだろ。金ためないと」
「そんなの親に借りるか、学生ローンでも組めばいいじゃん。どうせ働きだしたら、ろくに遊べないんだから」
鳴海は苦笑して腕をぬきとった。
「そうかも。でも行くって言っちゃったからさ。また今度な」
彼女は丸いほおをふくらませたが「わかった。我慢する」とうなずいた。
理央と駅で別れた後、鳴海はやれやれと目をまわしながら電車に乗って地元へ帰った。最寄駅は絶賛開発中で、ここ十年でずいぶんと栄えた。居酒屋やレストランが立ち並び、駅裏に大きなショッピングモールができた。
しかし少し歩けば化けの皮がはがれる。集合住宅と昔ながらの家屋、畑が入りまじる田舎町へ、ただの地道な生活だけがある場所へ変貌するのだ。
20分ほど歩くと川沿いに、いくつか雑居ビルが建っていた。その隙間に押しこめられた家屋の前で立ちどまる。壁はもともと白かったが、今は使い古されたホワイトボードのように薄汚れ、赤い屋根には鳩のフンがこびりついている。ゆがんだガラス窓には『レストラン MANJYOKU』。
鳴海は戸を勢いよく開けた。
デミグラスソースのあまい香りが鼻をつく。店内はアメリカンダイナーと昔ながらの食堂の内装が混在している。ビニール加工済みレースをかけたテーブル席が4つ、カウンター席が3つある。
皿を片づけていた小柄だがしっかりした体格の若い女性がふりかえった。髪を短く切り、使い古しのエプロンの下に着たTシャツを肩のところまでまくっている。
彼女は鳴海を見やると「それ食っていいよ」とカウンター上の鉄板を指さした。返事もしないでリュックを席に放り投げると、厨房にいた人物が「そこじゃなくて部屋で食べてちょうだいよ」と声をかける。シンクで洗い物を続ける手首はとても華奢で、見るからにおとなしそうな女性だ。
鳴海は二人の姉を交互に見てから「客いねえじゃん」とフォークを手にとった。
「そうだけど」
「お姉ちゃん、父さんが牛乳買ってきてって言ってたけど」
「あっ、そう。なるちゃん、あとで行ってきてくれる?」
「なんで俺が」
「暇でしょあんた。いいから」
鳴海はムッとしたが、だまってハンバーグを食べ始めた。
鉄板はとっくの昔に冷めていたが、ハンバーグはまだ温かく、肉汁がもれると微かに湯気がたった。付け合わせは、いんげんのソテーとナポリタンだ。しなしなのピーマンとパスタをまとめて口に放り込むと、気の抜けた柔らかい小麦粉がケチャップと一体になって溶けていった。幼いころから嫌になるほど食べた味だった。彼は店長と主婦の会話を思いだし、ついで妙な客のことも思いだした。あの毛糸のような気味の悪い幻影はナポリタンに似ていた。
「ねえ加奈子ちゃん。吉田くんに電話かけてきてもいい?」と長女の由美が不意に言った。「今日会う予定だったんだけど、行けそうにないから」
「なんで? 行けばいいじゃん」
「お母さん、帰ってこられそうにないんですって。20時から団体さん入ってるから、お父さんだけじゃ回せないでしょ」
「鳴海がやるでしょ」
「はあ?」
平皿から米つぶをこそげ取っていた鳴海は顔をあげて「俺、今日ホールのはずだけど」と文句を言った。加奈子は弟をにらみつけた。
「あんた肉焼けるでしょ。お姉ちゃんはデートなの」
「いいわよ。わたし残るから」
遠慮する由美を加奈子が押しとどめる。
「いいから。あ、それか吉田さんここまで連れてくる? 彼氏価格で提供してあげるよ」
由美は戸惑ったように視線を泳がせ、鳴海をみた。
「わかったよ」これみよがしにため息をついて見せると、由美はホッとして「わかった、じゃあふたりに任せる」と言った。
近所のスーパーで買い物をすませて店に戻ると、玄関先で父親の哲夫と加奈子が扉を揺すったり叩いたりしていた。どうやらまた扉が閉まらなくなったらしい。
「おかえり、買い物ありがとうな」と哲夫が言う横をすり抜けて、厨房の奥にかかった暖簾をくぐった。ここから先が居住スペースになっている。
鳴海は冷蔵庫に牛乳を入れると、ちりとりと箒を手に玄関にもどった。いまだに家族がもたもたしているのを見かねて力を込めて扉を閉めると、中から加奈子の文句が聞こえた。
外を掃きながら自宅の姿をながめる。すすけた白壁はお世辞にも裕福とは程遠い。
18時半頃、団体客が店に押しよせてきた。近くの大学に通う学生たちだ。
「なるちゃん、ハンバーグおいしい!」
常連の女の子が親しげに話しかけると、厨房に立っていた鳴海は「ありがとう」と微笑んだ。
「この店初めて?」と会話が聞こえる。「安いし美味いからオススメだよ」
見ると、先輩らしき男子学生が後輩に自慢げにしていた。
「街に出て食うより安いし、それにここ店長さんもいい人だから」
「そうですね、美味しいです。でも、だいぶ変わった名前のお店ですね……」と後輩が店内を見渡す。「まんじょく、って洋食屋さんっぽくないというか」
「ああ、それはね」料理を運ぶ哲夫が笑って話しかけようとする。鳴海はハンバーグをひっくり返しながら、口をはさんだ。
「まんぞくって書こうとしたんだけど、それだと陳腐だから」
常連の女子学生に向かって「それにイントネーションが可愛いだろ?」と投げると、彼女は「そうかも」と喜んだ。哲夫は苦笑を浮かべて会話を聞いていたが、やがて仕事にもどった。
女子学生たちは20時すぎに店を出ていった。そのあと店には立ち代わり客が出入りし、閉店ぎりぎり、最後の客かと思われたのは、ツイードのスーツを着た母親の敏江だった。
彼女はよろよろと店に入り、鳴海が厨房に立っている姿を見て目を丸くしたかと思うと、にっこりした。
「そっか、今日は由美が吉田さんとお出かけだったものねえ」
鳴海は不機嫌そうにハンバーグにソースをかけて、皿をカウンターに置いた。
「2番」
加奈子が皿を2番テーブルのサラリーマンへ運ぶ。くたびれた背広の彼も常連客で、敏江と話しこんでいたのだが、食事に手をつけると「鳴海くんはお父さんの味をしっかり受けついでいるね」と話しかけた。
「ですって、鳴海」
「はあ、そうですか」と鳴海は呟き、シンクに皿を乱暴に重ねた。にらみあげてきたのは加奈子だ。
「ちょっと。皿が割れるでしょ」
「うっせえな。文句あるなら、加奈子が洗えよ」
「はあ?」彼女は悪態をつきながら皿を手にとった。「あたし明日早番なんだけど」
加奈子は近所の大学病院で看護師として働いている。
「そんなら姉ちゃんに手伝ってもらえばよかっただろ」
「それは無理でしょ」ため息をついて店の外を見る。「だいたい結婚したら、おねえちゃんだって出ていっちゃうんだからさ」
「まあ、そうだろうな」
「吉田さんって料理できるのかな」
通りがかった哲夫が「こら」と、たしなめた。「由美には言うんじゃないぞ」
「言わないよ」
彼女は唇をつんと突き出して皿を洗った。鳴海は父親から顔をそむけて、早く客がいなくなることを願った。