護り手たち
意識が浮上した時には、体と脳が繋がっていないようにちぐはぐで慌てた。すぐに意識と肉体が繋がっていないのは寝起きのせいだと思い出す。覚醒してしばらくは天井の木目が違うことに違和感を覚えたが、すぐにここに至るまでの一連の出来事が頭の中を駆け抜けた。どうやら、タチの悪い夢ではなかったようだ。
小窓から差し込む光は暖かく、もう十分に日が昇りきっていることを示している。昨晩がどれほど遅く寝付いたのかは記憶にないが、今が昼をとうにすぎていることは容易に予想できた。何となくだるいような体を引きずって布団を持ち上げると、枕元に着物が用意されているのが見えた。とばりが自分では決して選ばないような、薄桃色の下地に数種類の花があしらわれている。広げていると、腰のあたりまで模様が入っていた。少し派手な色だな、と思ったが、帯は柘榴色でそれほど明るくもない。
準備したのはおそらく央だろう。湯浴みをした時もそうだが、あまりに用意周到にいろんなことが準備なされているものだから、物怖じしてしまう。せっかく用意してもらったものを無下にするわけにもいかず、さらに他にも着物を持っているはずもなく、とばりは大人しく着物を身に着ける。着物に合わせてサチからもらった派手な色のりぼんをつけようかとも思ったが、何だか気恥ずかしくて、昨日身につけていた色の褪せた組み紐で簡単に髪を結った。
部屋にいるのも何だか落ち着かなくて、とばりはそわそわした足で部屋を出る。戸を開けてすぐのところに央が跪いていたのは驚いたが、廊下に出たところで屋敷のことも詳しくないとばりは央に言われるがままに屋敷を案内してもらうことになった。
「こちらが皆様でお食事を召し上がる大広間でございます」
結局のところ方向感覚に聡くないとばりには、一度説明されただけでは覚えることができるわけもなかった。それでも紹介したいという央の行為に甘え、ついて回って、どれほど経っただろう。少し疲れを感じ始めたところで、縁側に座る人影に気づく。その人影を見つけるやいなや央は片膝をつき、こうべを垂れる。その様子にとばりも自然と背筋がしゃんとした。
「あの子の気配がすると思ったら、あなただったのね」
その人はにっこりと人の良さそうに笑ってとばりを見る。腰まである長い髪は色素が薄く、腰からは央や仁音と同じように尾が生えていた。本数は4本で、彼女がころころと笑うたび揺れる。綺麗な人だ、と思った。睫毛は上向きで長く、縁取られた大きな瞳は宝石のように陰りがない。
「こんにちは、とばりちゃん。立ってないで、隣に座りなよ」
「ええと」
先ほどまでとばりの傍に膝まづいてこうべを垂れていた半ばの姿はもうない。気を使ってくれたのだろうか。気後れして少し離れたところに座ったとばりとの距離を、彼女はぐいと近づける。慌てる隙も見せずに彼女はその整った顔をずいととばりに近づけた。好奇心できらめいた瞳がとばりの顔をまじまじと見つめている。まるで何かの痕跡を辿るかのように。
「本当に楓ちゃんに似ているのね。でも、気配は煉慈にそっくり」
「あの……」
「あれ? 紫乃ちゃんは名前も教えてないんだっけ? 楓ちゃんはあなたの母親で私のお友達。煉慈はあなたの父親で……私の従兄弟、かな」
距離の近さに怖気付いてしまうことを伝えると、彼女は笑って離れる。楓と煉慈。今までその存在すら薄れていた両親の影が、少しずつ輪郭を帯びて現れて行くようだった。
「順番が逆だったかしら。私は依。とばりちゃん、よろしくね」
す、と差し出された手を握る。細くて滑らかな手は意外なほどに冷え切っており、ぎょっとする。よく見れば、明るい声色とは対照的に透き通った肌はどこか青白く、その頰には血色がなかった。
「あなたに会えて嬉しい」
依はにこやかに微笑むと、とばりにお茶と茶菓子を勧めた。熱いお茶は受け取ったが、茶菓子は丁重に断る。昨日の夜から何も口にしていないというのに、腹が空かなかった。それどころか胸と胃のあたりがムカムカと焼けたような違和感がある。そのことを伝えると依は少し考えた仕草をした後に大丈夫よ、ととばりの肩を撫でた。
「体がまだこっち側に順応していないのね。あと数刻もすれば慣れてお腹も空くようになるわよ」
その言葉にやはり、自分は異界に来てしまったのだということを思い知らされる。眺めた空は青く、頬を撫でる秋風は少々冷たい。土の匂いも草の匂いもほとんど変わらないが、なにかが決定的に違う気がした。そのことにとばりは落胆している気がしたし、悦んでいる気もした。
「あなたに見せたいものがあるの」
ついておいで、というと依は立ち上がる。草履を持って来ていないとばりは慌てたが、とばりの足の大きさにぴったり合う草履を依に手渡される。これもやはり央が用意してくれたものだろうか。依の足取りは意外なほどに早く、少し気を抜けば置いていかれてしまいそうだった。依が腰掛けていた縁側は屋敷の裏手にあったようで、その先には小さな丘のようなものが見えた。丘の頂上に続く小道を、依は迷うことなく進んでいく。
「楓ちゃんとも、ここをよく歩いたの。懐かしいなあ」
色のない風が依の頰を撫でた。あっと声をあげる間も無く、依の髪が巻き上げられる。それはまるで、白い生糸が細く風に絡まっていくようだった。どこからか風に紛れて甘い匂いもする。こんもりとした丘の頂上に着くのは早かった。
「おいで、とばりちゃん」
「これは」
そこにあったのは、墓だった。暮石と呼ぶにはあまりにお粗末な、いびつな二つの石が並んでいる。片方は少し古びたように見えたが、よく手入れされていた。もう片方は盛られた土がまだ新しく、つい先ほど墓としての形におさまったばかりのように見えた。二つの墓の周りには、白い小さな花がびっしりと植えられていた。
「楓ちゃんと紫乃ちゃんのお墓」
墓石には名前は刻まれていなかった。けれど二つの魂が丁寧に扱われたのが、綺麗に手入れされた周囲の様子からも伝わってくる。思わず膝をつくとばりの肩を、依は優しく撫でた。
「私、妖って生死に対する思いはないのかなって思ってました」
とばりの目には、紫乃の死や、命のやり取りに対して、彼らがあまりにも淡々としているように見えた。それが少し怖くて、悲しくて、心のやり場に困っていた。嬉しいのか悲しいのか、綺麗な二つの墓へ、そこに埋められているであろう紫乃へ、涙が込み上げてくる。紫乃のために泣くのは初めてだった。死を悲しむ心の余裕すらなかったのかもしれない。
「私たちは、失うことに慣れすぎてるから」
「どうして?」
「妖はね、ずっとずっと終わらない戦争をしているの。里を焼かれ、親を殺され、何もかも失ったって、それでも戦ってるの。リンや空夜もそうよ。身寄りのないあの子達を、煉慈が拾ってこの里に住まわせたの」
依は髪をかきあげると懐から茶菓子を取り出すと、墓の前に備える。手を合わせる依にならって、とばりも両手を合わせた。
「とばりちゃん、妖が死ぬところを見たことがある?」
囁くように依が言う。とばりの脳裏によぎったのは、昨日の夜、空夜に切り裂かれた化け物たちが切られたところからぼろぼろに崩れていくところだった。頷くとばりに、依は切なそうな顔で続ける。
「私たち妖は、死ねば体は残らないの……とばりちゃん、こっちにおいで」
依は、立ち上がって土を払うと大きく伸びをする。腰から生えた四本の尾が花のように揺れていた。依に手を引かれるままに、花を踏まないように足を踏み出す。丘から下を見下ろしたとばりは、はっと息を飲んだ。
「きれい……」
思わず口に出したとばりに、依は満足そうに笑いかける。
「楓ちゃんもここから見る景色が好きだったの」
「ここは?」
「九尾の一族の里よ。私たち妖はね、種族ごとにこうして里を築いて暮らしているの」
そこから見下ろすことができたのは、小さな里の様子だった。おもちゃのような家々が黄色い茅葺き屋根を寄せ集めるように並んでいる。里の周りを彩っているのは紅葉した木々で、里に彩りを添えるように赤くその葉を揺らしていた。
「煉慈は、この里と、九尾の一族を収める当主だった」
家々の間を縫うように、小さな人影が見え隠れしている。それは大人のような大きさのものも、子供ほどの背丈のものもあった。耳を澄ませれば笑い声が聞こえて来そうだった。小さな手が見下ろすとばりたちに気づいて大きく手を振る。振り返した依の表情は暗かった。
「父のこと、恨んでますか?」
「どうして?」
「父は当主の立場を捨てて、母と生きることを選んだと」
顔も知らない父の影が残酷にとばりに降りかかる。父が責任ある立場だったこと、そして母のためにその立場を捨てたこと。何も知らなかったとばりでもわかるくらいに、父の行動は自分本位なものだと思った。
「しょうがないじゃない。好きになっちゃったんだから」
「依さん」
「とばりちゃんはまだ恋を知らないからわからないのよ。全てを捨てても一緒にいたかった、あなたのお父さんとお母さんの気持ち。誰かを好きになれば、わかるかもね」
悪戯っぽく笑う依に、とばりはぎこちなく笑みを返した。悩んで俯くよりも、そうするのがいいような気がした。
「とばりちゃん、みんなをよろしくね。あの子のことも……」
「あの子?」
その言葉に依は答えずに、小さく笑った。