【幕間】脅威
四つ指をつき、未だ沈黙を守る男の言葉を待つ。深く呼吸を続けるのは、意識をやらないためだ。人の世と妖の世の移動をした身体は重だるく、疲労が骨と肉に食い込んでいくようで、少しでも気を抜けば意識を持っていかれそうだった。
「話せ、巽」
男が口を開く。男は、巽の主人であり、九尾の一族を統べる現当主だった。顔をあげることなく、巽は口を開く。男には悪戯にひとをいたぶるようなことはしないが、慈悲深くはなかった。
「我々の想定よりもあちら側の綻びは進んでおりました。千珠の力が到達するはずの領域にまで、野妖の被害が及ぶほどに。事態は急を要します」
「娘は?」
「無事でございます。紫乃さまは、私がたどり着いた時には、もう」
千珠家と九尾は、対の存在だ。双方が双方を監視し、決して崩れることないよう、壊れることのないように影響し合ってきた。紫乃の死は、その長年守られてきた沈黙に亀裂をもたらした。千珠家の綻びは九尾が埋めなければならない。それがこの世界の決まりごとだった。
「遅すぎたんだ。紫乃は殺され、千珠の血は途絶えた。間も無く世界の均衡は崩れる。この言葉の意味がわからないほどお前は莫迦じゃ無いはずだ」
「恐れながら申し上げます。あちら側で、リンが白魔の一族と見られる少年と遭遇しています。取り逃がしたそうですが。村を襲っていた野妖からは、妙な気配がしたと空夜から報告を受けています。人の世に迷い込んだ野妖をそそのかし、紫乃を殺す手引きをした妖がいるのは間違いないでしょう。そしてその妖は、”門”を開くことができるはずです」
「七柱の中に手引きした者がいる。そして白魔と繋がっていると、そう言いたいのか」
「はい」
男がひどく苛ついていることは、報告のためにこの部屋に馳せ参じた時から分かっていた。賢い男だ。巽よりもこの里の誰よりも、ずっとずっと先を見通している。千珠が滅んだしわ寄せは確実に九尾の一族に迫る。その責任を負わされるのは間違いなくこの男だ。この男はそのことにーー急いているのだ。
「白魔の里に仁音をやれ、動向を探らせる」
「御意」
「娘を私の元へ寄越せ」
男の言葉に一瞬だけ肩をひくつかせた巽は、作り笑顔を貼り付けたまま深々と礼をする。
「とばり様については、私に一任させてはくれませんか」
「あの男の命令に、お前が逆らったことなどないと聞いたがな」
「昔の話です」
「巽よ、お前はいつまで亡骸に縋っているつもりなんだ」
男の言葉に、巽はそれ以上言葉を発することはなかった。それは明らかに主人へ対する反発であり、謀反だ。しかし男は表情をひくりとも動かさなかった。細長い目が睨め付けるように巽を見る。巽は頭を下げた状態のまま、少しも動かなかった。
「勝手にしろ」
嘲笑に近い笑いを口元に刻むと、男は巽から視線を外した。そして視線を戻す。そこにはもう、巽の姿はなかった。
「報われないな」
その言葉は、柔らかい闇の中に溶けて消える。
戦いの匂いがした。血の気配がした。少しずつ狂っていた世界の歯車が、音を立ててずれていくのが聞こえていた。