(7)
長い沈黙が訪れていた。時刻はもう深夜と呼んでも十分差し支えない時間であるのに、とばりの頭は冴え切ったままだった。居住まいを正したままの巽と、神妙な顔つきの空夜に挟まれて、居づらさから軽い咳払いをしたのはリンだった。
「あー、まあ、そないややこく考えんといて、気楽に仲良うしようや」
自分がついた深いため息によって、とばりは自分が今までひどく緊張していたことに気づく。強張った頰を手のひらで二回強く音が出るように叩くと、三人は一瞬目を丸くして、次に顔を見合わせて苦笑した。とばりと同じように、彼らもまた少なからず気詰まりしていたのようだ。
威勢良く立ち上がったリンにつられて、とばりも思わず立ち上がる。長身だな、とは思っていたが、リンの背丈はとばりの頭一つ分はゆうに大きく、体つきも合間って華奢な巽よりも大きく見えた。とばりの慌てた様子を見て、リンはにやけ笑いをする。
「とばりちゃん、ほんまにちいちゃくて可愛らしいのお」
撫でようと伸ばされた手を反射的に避けたとばりを見て、空夜は耐えきれないと言わんばかりに吹き出した。その様子が相当頭に来たのか、リンはぶつぶつと文句を言っている。それでも空夜に手を出さないのは、とばりの手前か、巽が冷たい目で二人が何かしでかさないか監視しているからか、どちらかだ。
「さて、帰りましょうか。とばりさん、何か必要なものがあればお持ちください。こちらにあるものの大半はあちらでも揃いますが……」
「あちらには、本はありますか?」
「ああ、本、本ですか。楓さまもお好きでした。人より長い時を生きる妖は、本を書いたり読んだりすることは滅多にないんですよ。生きているうちに、本に書いてあることの大半は経験できてしまいますから」
「そう、ですか」
少し逡巡したのち、そんなに大荷物になってはいけないと、とばりは読みかけだった本を一冊だけ持っていくことにした。もしかしたらもう二度と戻ってはこれないかもしれないのだ。物語の続きが気になって眠れないのは、なんとも歯がゆい。それにあまりに大切なものを持ちすぎると、寂しくなってしまうかもしれない。本を一冊だけ持っていきたいとそのことだけを巽に伝えると、彼は快く了承してくれた。
二階にある自室に戻り、文机の上に置いてあった本を手に取る。殺風景な自室の中は薄暗く、どこか物悲しい雰囲気があった。これからの未来に対するとばりの不安を映し出しているようだった。とばりは少し迷って、同じく机の上に飾ってあった大きなりぼんを手に取る。嫁入り前に、サチがくれたものだ。明るい朱色のそれは、とばりには色や形が派手過ぎて身につけたことはなかった。それは薄暗がりの中で淡く発光して、とばりを引き止めるようだった。このまま流されて彼らについて行ってしまってもいいのだろうか、という考えを、激しく頭を振って振り払う。彼らについて行く以外に道はないじゃないか。それに、ついていこうと心を決めたのは何を隠そうとばり自身じゃないか。とばりはその朱色のりぼんを懐紙に巻き直した鈴と一緒に袂に仕舞う。そこがじんわりと暖かくなっていくような気がした。
紫乃の部屋に戻ると、空夜が敷布に巻いた紫乃を抱いて立っていた。
「おかえり、早かったね」
その横には巽とリンが立っている。様子がおかしいのは、リンが化け物たちに向けていた短刀を巽が持ち、今まさに自分の二の腕を切り裂こうとしているところだった。慌てて駆け寄るとばりを巽が笑って制する。
「あちら側に戻る時の穴を開けるにはこうするんですよ。約束を交わした一族の血が必要ですから。今回は少々人数が多いので大変ですが……」
巽は柔和な表情のまま慣れた様子で二の腕を切り裂く。傷口からごぷりと溢れた赤い血が、伸ばした腕を伝っていく。溢れた血は細い指先を伝い、畳にポツポツと赤い染みを作っていった。じわじわと染みていく血の様子をぼんやり眺めていたとばりの体を、突然リンが自身の体に密着させるように引き寄せたので、とばりは思わず身をすくめる。
「いや、いやらしい意味やないねん。慣れてへんとちょっとびっくりするっちゅうか」
言い訳のようにリンが言ったのと、床がぐらりと歪んだのは同時だった。結局立っていられなくなって、とばりはリンの体に抱きつく形になる。世界が回っていくようなひどい酩酊感に、吐き気を催しそうになった。風もないのに髪の毛がなびく。空気が、匂いが、音が少しずつ変わっていく。目を閉じているためどうなっているのかは分からなかったが、落ちているような、登っているような奇妙な感覚だった。水の中の無重力状態に少し近い。すごく長い時間だったようにも、一瞬だったようにも感じられる時間が終わると、とばりは再び畳の上に立っていた。
「ここは……」
「狐の屋敷です。疲れたでしょう。お部屋をご用意していますから、おやすみください」
巽の二の腕の傷はすでに塞がっていた。
とばりはぐるりと部屋を見渡す。だだっ広い大広間のような場所だった。殺風景で、普段から使われているような生活感は感じられなかった。ずっと遠くに見える円形の飾り襖は少し間があいており、夜が垣間みえていた。昼間は緑が見えるのだろうか。息もできるし、音も聞こえる。吸い込む空気や音、匂いの全ては確かにどこかが違うような気がしたが、どこが違うのかははっきり分からなかった。首を傾げるとばりを横目に、巽は二回、手を叩く。
「っ……」
それを合図にどこから現れたのか、黒い忍び装束のようなものに身を包んだ男女が現れた。面食らって後ずさるとばりに、片膝をついた二人は頭を下げる。彼らの腰からは、淡黄蘗色の毛に覆われた尾が二本ずつ生えており、ゆらゆらと静かに揺れていた。まるで獣の尾のようだと思った。
「仁音と央です。この屋敷にいる間は央がとばり様の身の回りのお世話をします。央、とばり様をお部屋までお連れしてください」
「はっ」
央と呼ばれた女性は巽に頭を下げると、とばりへ体を向けた。深い紺色の布に覆われて口元は見えなかったが、橙色の目は静かに細められていた。正確な年齢は分からないが、恐らくとばりよりも上だろう。体に張り付くような服を着ているせいでいやでもそのふくよかに突き出した胸と、筋肉で締まったくびれと足に目がいく。央は立ち上がってうやうやしそうにとばりに一礼した。
「央と申します。何なりと、お申しつけくださいませ」
「よ、よろしくお願いします」
その横では、仁音と呼ばれた男が空夜から敷布に包まれた紫乃を受け取っているところだった。仁音も央と同じく布に覆われているために表情は見えなかった。仁音はとばりの視線に気づくと丁寧に一礼した。背は高くも低くもない。体つきはリンや空夜に比べるといささか華奢なように見えた。
「とばり様、紫乃さまのお体は仁音が丁重に埋葬いたしますので、ご心配なきよう」
「あの、巽さん」
「何でしょう?」
「様、っていうの、やめていただきたいです。敬語も……何だか慣れなくて」
その言葉に巽は困ったように眉を下げた。顎に手を当てて、ふむ、と考え込む。
「そうは言われましても、あなた様は我が主人のご息女ですから」
「父の……?」
「ええ。私は代々九尾の当主に仕える家系のものですから。でも、そうですね、あなたに不愉快な思いをさせるのもいささか心苦しいものです。……とばりさん、これでいいでしょうか?」
こくりと頷くと巽はそれはよかった、と顔を綻ばせる。何となく気恥ずかしくて目を逸らしたとばりを逃すまいと、央が恭しく手を取った。
「まずは湯浴みを。お着替えはご用意ができております。その後にお部屋にご案内いたします。お腹は空いておりますか? であれば何かお夜食を……」
「ゆ、湯浴みは一人ですよね?」
「いいえ、お背中流させていただきます」
「一人で入れるので大丈夫です! お気持ちだけで……あとお腹もあまり空いてないです。ごめんなさい」
そうですか、と残念そうに眉を下げる央につられて、巽と空夜、リンに挨拶を残してその場を立つ。そういえば、彼らはどこで眠るのだろうか。狐の屋敷はとばりの想像の何倍も広く、何度か長い廊下を曲がるとすぐに自分がどこを歩いていたのか検討がつかなくなってしまった。大丈夫だ、というとばりの制止を聞かずに、風呂場の外で待っていた央に案内されて部屋を目指すも、すぐに風呂場から部屋までどうやって行くのか分からなくなってしまった。しばらくの間は迷いながら生活するしかないだろう。案内された部屋にはすでに暖かそうな分厚い布団が敷かれていたが、驚くことにとばりの以前使っていた部屋と、作りや置かれている家具などほとんど同じになっていた。驚いて見つめると、央は意味深そうに頭を下げる。
「何かありましたらいつでもお呼びください。それでは、おやすみなさいませ」
世界が変わった、なんて実感はほとんどなかったが、全く見知らぬ土地、考えなければならないことが多すぎて眠れないのではと思ったが、その不安は布団に体を横たえた瞬間に消えて無くなった。いろんなことがありすぎて、疲れ切っていたのだろう。緊張の糸がプツリと切れた後の体は泥のように重く布団に沈み込むようで、何か余計なことを考える隙間すら与えないうちにとばりは深い眠りの中へ意識を手放していった。
夢を見た気がした。それは優しい夢だった。
水音のようなものが優しく鼓膜を揺さぶっている。こんなに穏やかな気持ちになるのは初めてで、身体を包み込む闇の穏やかさに、とばりは身体を委ねた。