(6)
サチの家を後に、リンに従って歩みを進める。リンはまるでその道筋がわかっているように、とばりの家に向けて歩いていた。きっと、空夜や巽も同じ場所にいるのだろう。先ほどの戦いの衝撃が抜けず、とばりはぼうっと思考に霞がかかった状態の頭のままのろのろと歩みを進めていた。
「とばりちゃん、大丈夫? 寒ない?」
雨脚は少し弱まっているようだった。ぱらぱらとまだらな雫がとばりの肌を濡らす。先の雨で乾いていない着物は重く、とばりの体力を奪っていくようだった。リンの問いかけにうんともすんとも言わないとばりを見かねて、リンは着物の上に羽織っていた羽織を脱ぐと、とばりの肩にかける。それは返り血のせいで血の臭いがしたが、リンの体温を残して温かかった。
「サチは、この村のみんなはどうなるのでしょうか」
ポツリとこぼした言葉に、リンは唸る。傷ついた村は、この先どうなるのだろうか。どうなってしまうのだろうか。そんなことを”妖”である彼に聞いても仕方ないとは思っていたが、そうせずにはいられなかった。
「完全に安全とは、言い切れんかな。命の保証もできん。……ごめんやけど、俺らはとばりちゃんを守るのが役目やから、この村のことまではなんとも」
「そんな、無責任な」
その声はいかにも悲痛そうであったし、力のないとばりはこの状況では彼らに頼り付き従うしかないことはわかっていた。けれど突然の理不尽に、未だ夫の生死も家族の安否もわからず暗がりで震えるサチを思うと、責めるような言葉をぶつけずにはいられなかった。
「どうして私を守るなんて言うのですか。いったいあなた方はなんなんですか。おばあさまは何を私に隠して……」
「約束したんや。俺らは、約束を守るためにとばりちゃんを守る。今はそれしか言えん……何を言っても、言い訳になってしまいそうやから」
”妖”はいつもとばりの近くにいた。紫乃以外の肉親を持たないとばりにとって、幼少の頃はよき遊び相手となっていた。成長してからそれらが普通ではないとわかったとばりは、出来るだけ見ないよう、関わらないように目を背け、耳を塞いできた。それでも妖たちはいつでもとばりに干渉しようと、隙があれば何か仕掛けようとちょっかいを出そうとしていた。しかし。
「私、妖が人を食うなんて知りませんでした」
その言葉にリンが足を止める。
複雑そうな感情を内側に秘めたまま、彼は小さく笑った。もしかしたら、そう見えたのはとばりだけだったかもしれない。
「みんながみんな、そうやない」
染み付いた血の臭いは、そう簡単には消えない。リンも空夜も、あの巽という男ですら、微かに染み付いた血の臭いがした。再び歩みを進め始めたリンに従って、とばりも歩き出す。妖が皆そうなのか、そうでないのかはわからない。けれど戸惑いなく少年の腹に穴を開けたリンに、躊躇いなく同胞を切り裂ける空夜に、とばりは恐怖を抱かずにはいられなかった。人と同じ姿形をしていても、彼らはやはり村を襲った化け物と同じなのではないかと、その考えが浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。
ふと顔を上げた時、そこにあったのはとばりの家だった。夜が長すぎた。昼過ぎに、ここでサチと談笑をしたことが、遠い昔のように感じる。家の中はシンと静まり返っており、ため息すら憚られるほどの緊迫感があった。朦朧とした意識を引きずりながら、とばりは無意識に紫乃の部屋へ向かう。予測した通り、そこには布団に寝かせられた紫乃と、巽、空夜の姿があった。
「空夜、村は」
「……半分くらいかな」
「私の力が及ぶ範囲には、幻術をかけておきました」
何が半分か、なんて、言われなくともわかる気がした。半分、失ったと考えるか、半分、助かったと考えるか。そんなとばりの肩をリンがそっと押し、紫乃の傍に座るように促される。布団に寝かせられた紫乃の顔には、白い布がかけられていた。
「とばり様」
巽を責める気にはなれなかった。ただ底冷えする悲しみがとばりを襲っていた。特別愛された訳でも、手をかけられた訳でもない。ただ紫乃は、とばりにとって唯一無二の存在だった。とばりは気づいていた。とばりが気づいた時点で紫乃が虫の息だったことも、背負って玄関先に飛び出した時点で、その心の臓は止まっていたことも。その体躯が冷め切っていることを受け入れたくなくて、巽にその体を引き渡して駆け出したことも。声を張り上げて泣くことすらできなかった。紫乃の死から逃げた自分があまりに情けなかった。
「とばり、紫乃は村中に術をかけていたよ」
特に感情も籠っていなさそうな淡々とした声で、空夜が言った。その声に顔を向けることなく、とばりはうなだれる。
「おばあさまは、知っていらしたんでしょうか」
「知らないのは君ぐらいのもんだ」
「……おい空夜」
わかっている。空夜のその言葉が悪気がないことぐらいは。とばりを責めるつもりがないということもわかる。ただそこには、「とばりは知らなかった」その事実が横たわっているだけだ。
「やめてください、リンさん。空夜さんもやめなさい」
にらみ合い、今すぐにでも殴り合いそうな2人を横目に巽は落ち着いた様子でため息をつく。巽はきっと尋ねればなんでも教えてくれるだろう。とばりは、恐る恐る口を開く。口の中が喉まで乾いて仕方なかったのに、口をついて出たのは存外にくっきりとした声だった。
「教えてください。知りたいんです」
今、この日常に何がおきているのか。紫乃の身に何がおきたのか。一体紫乃はとばりに何を隠していたのか。巽の表情は硬く、にらみ合っていた2人もそろそろと視線をとばりに移した。
「この世には人よりも強く、野蛮で、美しい、妖という生き物が存在します」
巽は、細く息を吐き出す。とばりは唾を飲み込もうとしたが、乾いた喉がゆっくり上下しただけだった。
「人と妖は住処を分けて暮らしています。二つの世界の間には”壁”がありますから、普通の妖は往き来することはおろか、人の世の存在すら知りません。人も、妖の世の存在を知らない者がほとんどでしょう。しかし我が九尾の一族、そして、紫乃さま、とばりさま。あなた方の血縁である千珠の一族は、例外でした。壁の平穏を守り、壁の守護のために生きる。それが我々の務めです」
「九尾……」
九つの尾を持つ狐の妖ですよ、と巽は誇らしげに微笑んだ。
「紫乃さまは、懸命に一人で世界を守られていました。以前お会いした際には……あなただけは、普通の娘のようにただの人としてお育てになりたいと、そう仰っていました」
巽は無念そうに顔をしかめると、とばりの右手を見やる。とばりの右手に収まっていた錆びた鈴たちが、居心地悪そうにじり、り、と音を立てた。ずっと握りしめていた右の手のひらはじっとりと汗をかいている。
「人と妖は交わってはいけない。その禁忌を破ったのは、あなたのご両親でした。あなたの母君、楓さまは紫乃さまの後継者、そして父君、煉慈さまは、九尾の一族を治める長でした。あなたが生まれて、煉慈さまは当主の座を捨て、人の子と共に、人として生きていくことを決めました」
自分の胸を打つ心臓の音がやたらと早くて、この凪のような沈黙の中で聞こえてしまわないかと心配だった。
「けれど世界はそれを許さなかった。あなたがお生まれになって、お二人が人の世に移り住んでしばらく、楓さまは亡くなられます。煉慈さまも消息を断ちました」
ずきりと胸が痛むような気がした。紫乃は両親の話を一度もしたことがなかった。そういうものなのだと、とばりも聞くことはなかった。顔も名も知らなかった両親が、今確かな輪郭を持って重い真実をとばりに与えてくる。震える指を隠すようにぎゅっと握り込んだ。
「紫乃さまはあなたを人の子として育てましたが、それも限界でした」
「私は、どうしたら」
「紫乃は死んだ。仕方ないことだよ。だから次は、僕らが守るんだ」
思いもよらない言葉に顔をあげる。
「君の存在は世界に隠さないと。世界から守らないと。そうしないと殺される。楓や紫乃のように」
「あなた方は、私に命をかけるというのですか」
そうだよ、とそれが当然であるかのように空夜が頷く。
「どうしてそこまで」
「僕らの恩人がそれを望んだんだ」
「それだけの理由で?」
その言葉に空夜は少しの間驚いたように目を丸めたが、照れたようにはにかんだ。
「それだけの物を、僕らは彼に与えてもらったんだ」
三対の眼がしっかりとこちらを見つめている。疑惑と不安と戸惑いて暗く染まっていく胸中に、真っ直ぐに射し込んで来る光のように鋭い眼光だった。とばりは自身の出自を嘆けるほどにまだ自分の身の上を受け入れられない。世界のことも妖のことも、まだ飲み込んで消化できるほどに頭は追いついていない。けれど、この数時間ですら体を張ってとばりを守ってくれた、彼らのことだけは信じてみたいと思った。
「生きるんだ、とばり。生きる覚悟を決めてほしい」
「けれど私のせいで父と母と、おばあさまが」
「君の父が、君に生きていてほしいと望んだんだ。だから僕らはこうしてここにいる。それだけで君を守る理由になる」
この時のとばりには、まだ分からなかった。この日、この雨がもたらした悲劇が、これからとばりに降り掛かる悲劇のほんの断片に過ぎなかったことを。自分の存在が、どれだけ異端であったのかを。世界に背くことがどれほどの重罪になるかを。そして、この時の彼らがどれだけの覚悟でとばりの手を取ったのかということを。差し出されるままに重ねた手は暖かく、まるで全て悪い夢のようだと錯覚してしまいそうになる。それはこの時も、このずっと先でも変わらなかった。