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 どれぐらい長い間そうしていたんだろう。不意に訪れた異様な気配に顔をあげると、リンが寸分の隙間なく閉められた戸口に向かって短刀を構えている。右手で鈍く光る刀身をこめかみの前に構え、左腕はとばりとサチを守るように後方に広げられていた。悪役のようににっ、と笑みを刻んだリンは、視線をとばりに向ける。


「とばりちゃん、蛇は好き?」

「え?」


 いうが早いか、リンの背骨の部分が盛り上がり、別の生き物のようにうねうねと動く。思わず身を引いてしまった。リンの体から分離したそれは、肩を這って袂から飛び出した。地面に落ちたそれは、月の光を写したような、真っ白な蛇だった。太さはとばりの二の腕ほどはあるか。ひ、と小さく声を漏らしたサチを背中をそっとさする。


「一太ァ!」


 リンの声に呼応するように蛇は身をくねらせ、その首をもたげて戸口を睨みつけた。チロチロと出し入れされる長い舌だけが赤い。威嚇、敵意、好戦。その鋭い目は人間のように感情の色を灯していた。まるでまだ見ぬ敵に立ち向かうように。くねる身体はとばりとサチの身を守るようだった。

 

 生唾を飲みこむ。雨に紛れて風が吹く。その刹那。轟音を立てて戸口が外へ吹っ飛んだ。リンが悪態をつく。サチの体を庇うように身を乗り出したとばりは、そこに立っている人影に息を飲んだ。


「子供……?」

「見た目は子供やけど、……っち、よりによって白魔かいな」


 その人影は下手をすればとばりよりも小さいのではないかというほどに小さく、線も細かった。年の頃で言えば、九つか十ぐらいか。もう少し幼いかもしれない。青白い髪と肌が薄暗がりに輝くようだった。臨戦態勢のリンと蛇を飛び越えて、虚ろな瞳がじっととばりをまっすぐに見つめていた。


「そこを動かんとってな……ッ」


 リンは短刀を振りかぶり、少年の肩を切りつける。


「浅い……ッ」

 鮮血が飛び、リンの体に撥ねた。白い蛇は床を素早く移動し、少年の細い右足に絡まりつく。少年はゆっくりとした動きで視線をリンに移すと、右足を蹴り上げ天井まで飛び上がる。蹴り上げられた拍子に地面に打ち付けられた蛇は、ジタバタとのたうち回ったのちに恨めしそうに少年を見上げて牙をむき出した。少年はまるで肩の痛みなど感じていないかのように両腕を振り上げた。その両手には透き通った刀身が握られている。それはガラスのようで、柄がなく、少年の手のひらすらズタズタに引き裂いていた。


 振りかぶった二つの刃を交差させ、リンに襲いかかる。動きはしなやかでありながら強靭で、そして捉えきれないほどに早かった。刃を振り、天井まで戻る。打つ。引く。打つ。部屋の中に刃と刃がぶつかり合う金属音と、リンの荒い息遣いが響く。少年は息すら乱していないようだった。


 リンの、切れ長の眼光が少年を捉える。刃と刃がぶつかり合って一瞬体制を崩した瞬間、リンの手刀が少年の脇腹に勢いよく食い込んでいた。爪が柔らかい肌をえぐり、内側の肉を引き摺り出す。少年の口から鮮血が溢れ出し、腹から血とはらわたが吹き出す光景に、とばりは思わず目を逸らした。視界の端に映り込んだリンの瞳が金色の残像を残しているのを見て、果たして彼の眼はこんな色だったかなと疑問を抱いたのは一瞬だった。


 倒れてもおかしくないほどの深手を負った少年はそれでも軽々飛び上がると自身の身体を見下ろして首を傾げた。リンに追撃させる間を与えず、少年はいま一度刃を振り下ろすと、その攻撃を受けたリンが態勢を整える前に身を翻して開け放たれた戸口から飛び出した。一瞬のことだった。家の中に残されたのは彼の流した血だまりだけだった。リンは一度だけ戸口の先を睨んだが、追いかけることはなくすぐにとばりの元へ駆け寄る。


「大丈夫か、とばりちゃん。……なんやったんや、アイツ」


 リンも同様に血まみれだったが、そのほとんどは返り血によるもので彼自身の血はあまり流されていない。安堵の表情を浮かべたとばりに、リンは小さく礼を言う。


「ありがとうな、心配してくれて。でも、俺強いから大丈夫やで」


 するすると床を這った蛇が、甘えるようにリンの右腕に絡みついた。間近で蛇をまじまじと見つめたことはなかったが、その赤い目はつぶらで人と同様に感情があるように見えた。


「嫌いでは、ないです」

「ん?」

「蛇、嫌いでは、ないです」


 その言葉にリンは一瞬目を丸くすると、さも嬉しそうに笑った。例えば、彼らが本当に妖だとして。そしてこの村を襲ったのが妖だったとして。彼らが体から蛇を出したり背中に翼が生えていたり、異形であることには違いないのだが、その異形に対する畏怖と彼らの無条件の優しさを受け入れている部分が、胸の中に混在していた。


 震えるサチの手を強く握る。怪我を負っていないのに、指先は氷のように冷たく、呼吸は浅かった。この出来事がサチの心に心的外傷を及ぼしたのはいうまでもないだろう。

「さっちゃん」


 とばりはサチの膨らんだ腹に触れる。サチ自身は錯乱状態で気づいていないのかもしれないが、その腹の中に芽吹いた命は確かに小さな鼓動を続けていた。意識を集中させれば、とくとくという小さな音がとばりの耳に届く。


「何も心配いらない。この子は元気だよ」


 サチの目から堰を切ったように涙が溢れ、とばりの着物を濡らしていく。それは確かに安堵の涙だった。おいおいと声をあげて泣くサチに、リンが薬指ほどの大きさの小瓶を手渡す。中は薄い桃色の液体で満たされていた。


「毒は薬になる。お嬢ちゃん、これは俺の蛇の牙から抽出した毒から作った薬や。体の自然治癒力をあげる。飲みすぎたらあかんけどな。人間なら、この瓶の半分の量でええやろ。応急処置は済んどるから、旦那さんの目が覚めたら飲ましたりい」


 恐る恐ると言った様子でサチはリンから小瓶を受け取る。リンがその微笑みを絶やすことはなかった。小瓶の中で液体は、ぴちゃり、と小さな音を立てた。


「空夜の方、終わったみたいや。行こう、とばりちゃん」

「行くって、一体どこへ」

「帰るんや、俺らの場所へ」


 時刻は零時を回っていた。突然の絶望に襲われた村。それを包む宵闇すら、死人のように静まり返っていた。染み渡るような心細さを抱いたまま、とばりは立ち上がる。もしかしたらこれが今生の別れになるかもしれないと、一度だけサチの方を振り返って。彼女の顔は、深い夜に呑まれて伺うことはできなかった。


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