(2)
「……」
今、とばりが対峙しているのは狐の屋敷の離れと呼ばれるところだ。屋敷の裏手から、少し山の方に進んだところにある。昔は屋敷として使われていたそうだが、屋敷を建て替えることになった時に一部分が残され、今も使われているのだという。少し壊されて母屋よりも小さく古いとはいえ、大きな屋敷だ。
あの紅葉の見える丘で、風が冷たくなる時間まで過ごしたのちに、迎えに来た央に依は強制的に連れ去れてしまった。なんでも依は体が弱く、長時間の外出や冷たい風に当たることは厳禁なのだそう。いつも穏やかな央の顔が今日は心なしか怒っているように見えた。夕食まで時間があるからと、依に勧められたのがこの離れと呼ばれる場所だった。なんでも空夜やリンたちが暮らしている場所で、彼らは基本的にここで寝食をするそうだ。
声を出して問いかけるべきか、それとも呼ばれてもないのに急に来たら迷惑か、と逡巡していると、後ろから馴染みの声がかかる。
「あっれー? とばりちゃんや。こんなところで何しとんの?」
振り向けば二匹の蛇を肩と腕に巻きつけさせたリンが、ひらひらと手を振っていた。
「リンさん。羽織、ありがとうございました。今、央さんが洗濯をしてくれていて」
「ええよええよ。気にせんとって。いやでも嬉しいわあ。とばりちゃんが来てくれるなんて。上がってく? 散らかっとるけど」
とばりが是とも否とも言わない間に、上機嫌のリンに背中を押されて屋敷の中に足を踏み入れた。中は母屋よりも少し暗く、じっとりとしているような気がした。お邪魔します、と声をかけて草履を脱ぐと、玄関から一番近い部屋からひょっこりと空夜が顔を出した。
「いらっしゃい、とばり」
空夜は中で、糸のような物を紡いでいるようだった。綿花のようなものが入った籠から、糸車を使って器用に糸を紡いでいるようだった。綿花や糸からは彼の首に巻いている包帯と同じようにハッカのような匂いがする。なんだろうと覗き込むと、空夜は見えやすいように場所をあけてくれた。
「ごめんね、今リンのせいでじめじめしてるんだ」
「寒むなると乾いて敵わんわぁ。ほら三郎、四之助、散歩は仕舞いや」
リンが身体に巻きついている蛇を床に下ろすと、空夜は露骨に嫌そうな顔をして腰を浮かせた。二匹の蛇はリンの服の中に潜り込むと、もぞもぞと何度か身体をくねらせておとなしくなった。
「蛇は……?」
「ん? 俺の中におるで」
なんのことは無いようにいうリンに、訝しげな表情を向けるとばり。その表情に気づくと、リンは恥ずかしそうに頭をかいた。
「あ、言ってへんかったっけ。俺、蛇飼ってるんよ。俺も蛇やけど」
「身体の中で?」
「そうそう。八匹」
「八匹……」
改めてリンのことをまじまじと観察するが、蛇が入れるような隙間はないように思える。首を傾げるとばりに、リンは得意げになって服を脱ぎ捨てた。そんなリンの様子に、空夜は呆れたようにはいはいと声をかけた。
「ほら、鱗」
筋肉のよくついた逞しい身体にきらきらと光る白い貝殻のようなものがついているのが見えた。鱗と同じように、リンの肌は透き通るように白い。胸のあたり、脇腹のあたり、腕の途中、と、その鱗は数箇所に固まってついている。髪をかきあげた額や、首の後ろにもあるのをリンが得意げに見せてくれた。
「鱗があるから鱗。覚えやすいやろ? 舌も長いねん、ほら」
関心したようにじっと鱗を観察していたが、途中で男性の裸体を撫で回すように見てしまったことに気づいて、とばりは顔に火が集まるのを感じた。慌てて手で顔を覆うが、時すでに遅し。
「ご、ごめんなさい!」
「え? なんで?」
「……年頃の女の子なんだから、少しは気を遣いなよ」
「あ、そうなん? すまんな。そんなら俺の部屋に来る? こないだ脱皮したばっかの皮、あんで。結構キレイに剥けてん」
「脱皮……」
脱皮もするのか、リンは、とばりの思っているよりもずっと蛇なんだなあ、と指の隙間からリンを伺いながら思う。依も言っていたが、妖は人に似ていても人とは全然違う。依や央も尻尾が生えていたし、妖の一族はみんなこうなんだろうか。
「空夜さんってなんの妖なんですか?」
「鴉天狗と鎌鼬だよ。人間だとなんて言うの? アイノコ? ってやつかな」
空夜はそう言うと、右手を開いて見せた。そこからは五本の短刀ほどもある黒い爪のようなものが伸びており、そこでとばりはあの山で化け物を切り裂くために用いていたのを思い出して合点が行く。
「僕はどっちでもあってどっちでもないよ。そういう妖」
空夜の表情に自嘲が混じったのは一瞬だけだった。その表情をとばりは見逃さない。聞いてはいけないことを聞いてしまったのかと狼狽えたとばりに、空夜はすかさず気にしないでよ、と笑いかけた。
「まあみんな、ここにおるのは大なり小なり、事情を持ってる奴らやから」
「みんな?」
服を脱ぎ捨てたままどっかりと座り込むリンに、空夜が小言を言う。ついでに肌がキモいとか、湿気をもっと落とせとか、散々な言われようだった。空夜は蛇が嫌いなんだろうか。親子のような二人のやり取りを微笑ましく見ていると、玄関の方から乱暴な音がした。
「お、おかえりさん」
バタバタと乱暴な足音につられて振り返ると、背丈が低いわりに眼光が鋭く、よく鍛え抜かれた身体を持っている男が立っていた。いや、男の子、といったほうが正しい言い方なのかもしれない。彼は全身に汗の玉を吹き付けていた。茶色い目がとばりを怪訝そうに見る。口は真一文字に結ばれていた。問題なのはそのことじゃなかった。彼の姿がふんどし一丁の、ほとんど裸体と相違ない格好だったからだ。