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夜雨と妖

 雨が降っていた。夕方に降り出した雨は日が沈んだのちも止むことはなく、鋭い刃となって振り続けている。それはまるで全身を細い針で絶えず刺されているような痛みで、鬱蒼とした山の中をかける少女の細い体躯に容赦なく降りかかっていた。


年端もいかない少女は名をとばりという。とばりは、ひどく混乱していた。世の中には理不尽がある。常識に反するような出来事や、理屈では説明できない事象が数多く存在していることも知っていた。ただ、その理不尽やら理解の境地を超えた出来事が一変に自分の身に降りかかるという唐突を、いまだに理解できずにいた。


とばりは、ひどく動揺していた。息を吸うたびに肺は膨張して肋骨を圧迫する。足元の悪い山道に、吸い込む空気の陰鬱さに、徐々に呼吸が浅く早くなっていくのを感じていた。さらに、擦りむいた膝は足を踏み出すたびにじくじくと鈍い痛みを与える。


自然と早まる呼吸を抑えるために立ち止まって胸を抑えると、雨とは違う温かなものが頰を流れるのが理解できた。秋の寒さに指先はかじかみ、体は冷え切って小刻みに震えている。水と泥でぬかるんだ獣道に足を取られてなんども転んだ。早く早くとはやる気持ちとは対照的に、足はもつれてうまく動かず、得体のしれぬ恐怖が彼女の体を蝕んでいた。


つい数時間前まで、とばりは本当にただの16歳の少女だった。


◆◇◆


 鈴を鳴らすような声、とはよく言ったものだと思う。真っ黒で青みのある髪は艶やかで、唇は椿のように赤い。楚々とした美女、とは確かに彼女のことだろうと、とばりは小さくため息をついた。ここが浅草で、彼女が華族の令嬢で、清楚可憐な見た目に似つかわしくないじゃじゃ馬じゃないならば、きっと毎夜、街では彼女を巡って命の取り合いが行われている頃だろうと思う。


「とばりちゃん?」


 黒々とした大きな目が、少し呆れたような色を滲ませながらとばりを覗き込む。とばりが慌てて咳払いをすると、彼女はまさに先ほどとばりがついたような小さなため息をついた。そこには少しのからかいが含まれているような気がして、とばりは少し心外である。


「また妄想? とばりちゃん、本当に好きよねえ」

「さっちゃん、違うよ。少しぼうっとしていただけ」

「ふふ、それを世の中では妄想と云うのだよ」


 そう言ってサチは色っぽい仕草で首を傾げて見せた。彼女のそれはこの年頃の女子にしては胸焼けするほどに色気があった。それはそうだ。まだ恋もしたことのないとばりに対して、サチは色恋どころか旦那様がいる。さらに言えば、彼女はその旦那の子を身籠っており、あとひと月すれば母親になる。愛おしそうに自分の腹を撫でるサチの細い指に、とばりは目を細めた。勿論親の決めた結婚相手だったけれども、結婚してからのサチは幸せそうだった。十六そこらで嫁入りすることは、此処らの田舎では珍しいことではない。もともとマセた性格のサチだったが、嫁に行ってからというものサチの早熟さには拍車がかかっている。


「妄想とか読書もいいけどさあ、もっと恋、しなきゃ。命短し恋せよ乙女、っていうでしょ?」

「ヒトヅマが云う台詞じゃないよう」


 ここは浅草ではなくて、それどころか東京から遠く離れた田舎だ。実のところとばりは自分の住んでいる山間の村が東京からどれくらいの位置で、どれくらいの距離に属しているのか正確に把握している訳でもない。この場所には、はいからも文明開花もない。めまぐるしい速度の時代の変化も、慌ただしく過ぎていく流行も何もない。とばりの思い描く都会の知識は、全て本の中から抽出したものだ。けれどとばりは、東京から遠く離れた田舎町の、さらに人里離れた山奥に住むこの生活を結構気に入っていた。


 あまり家を出ることのないとばりにとって、サチは唯一の友人だった。とばりの住む家は村の裏山の奥にある。人嫌いの祖母の影響かあまり人は寄り付かず、週に一度か二度、生活に必要なものを買いに山を降りる以外に、村の人との交流はほとんどない。とばり自身も、あまり人と関わるのは好きではなかった。ただそんな中でサチだけは、今でも昔と変わらずにとばりに会いに来てくれる。


「さっちゃん、こんな足元の悪い山で、道中転んだらどうするつもり? 何かあったら心配」

「多少は運動しなきゃ。それにウチにはお義母さんがいるから窮屈なの」


 サチは今度は大げさにため息をついて、視線を窓の向こうに向けた。自然ととばりもそちらに目をやると、窓越しの空はどんよりと曇っていた。雨が降るかもしれない。


「とばりちゃんには”暁の君”がいるものねえ」

「もう、何年前のことだと思ってるの」

「たった一度の逢瀬……燃えるような赤毛の運命の人! 伯爵家の長男である彼は祖父母の時代から決められていた許嫁との婚姻の準備を進めながらも、田舎の村娘との報われぬ恋に身を焦がすのね……」

「妄想が過ぎるよ、さっちゃん」


 それは今から半年前のことだった。村人は気味悪がって近寄ろうとしないこの山奥に、不意に現れた一つの人影。それは明け方のことだった。その夜はなかなか寝付けず、諦めて家の周りを軽く歩いていた時のこと。木々の隙間から覗いた赤に、目が離せなかった。降り注ぐ暁光の煌めきが、遠くからでもわかる逞しい体躯を照らしていた。肩まで付きそうな髪はつむじのあたりは夜に紛れるほどの黒なのに、毛先にいくほどに燃えるように赤く、まるで夜明けのようだと思ったのを覚えている。一言も言葉を交わしていない。ただ一瞬だけ、鋭利な刃物のような切れ長の目と、とばりの視線が重なった。本当にそれだけだった。その瞳の奥の深く暗い感情に、心が揺さぶられたのを覚えている。とばりはまだ、ひとを好きになた経験がない。けれどその一瞬の出来事はまるでーーーー


「恋だね」

「さっちゃん!」

「だって今のとばりちゃんの顔、まるで恋する乙女みたいだったよ」

「きっと旅の人よ。このご時世に腰に刀を差していたし、きっと辻斬りか訳ありの……」

「そんなの、ますます燃えるじゃない。人斬り権兵衛と少女の一時の淡い恋!」

「もう、そんなのじゃないってば」

 実際、今の今まで”暁の君”の存在なんて忘れていた。”暁の君”を初めて見た朝のあと、サチの所に走ったとばりは、寝ぼけなまこのサチに、開口一番に自分の身に起きた出来事のことを話した。男性の話なんてまるでしたことがなかったとばりに、サチは嬉しそうに抱きついて、彼に”暁の君”という呼び名をつけたのだった。勿論そのあと、”暁の君”は一度も見かけていない。今では幻だったのかもしれないと思っているぐらいだ。


「あのね、清一さんは優しいし、私今、とっても幸せよ。でもすこーしだけ、とばりちゃんが羨ましいな。こんな普通がずっと続いていくと思ったら、ちょっとぞっとしちゃうもの」


 とばりは、「私はさっちゃんが羨ましいよ」と言う言葉を喉奥に潜めたまま、小さく頷く。日常を歩むものは、その変わらない日常の脆さも有り難みもわからないものだ。とばりもその時が来るまで、自分の日常は壊れることなく、永久に続いていくものだと思っていた。


 とばりの日常は、サチたちが言うような「普通の日常」とは少し違っている。紫乃と二人で住む山中の家はあまりに大きく立派で、この田舎の村にはあまりも似つかわしくない。没落した華族だとか、とばりの父が公爵で死んだ愛人の子とその祖母を山中の別荘に匿っているとか、根も葉もない噂が広がっているが、紫乃にその真実を確かめたことはない。物心ついた頃にはもう既に父と母はいなかったし、紫乃もそのことを積極的に話そうとはしなかった。聞いてはいけないような気がして、とばりも両親のことについて訪ねたことはない。ただ一度だけ、紫乃がいつも厳格そうに刻んでいる皺を緩めて「とばり、あの子に似てきたね」と話したことがある。それが顔も知らない母のことだと、とばりはなんとなく察したのだった。


 だから、サチのような世間一般的な少女の当たり前が少し羨ましい。けれどそれはお互いに思っていることだから、あえて口にしたりはしなかった。さらにとばりは、自分は村で暮らしているいわゆる普通の人々とは少し違うと薄々気づいていた。


「ねえ、触ってもいい?」


 サチはとばりの唐突な申し出に一瞬目を丸くしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。


「もちろん」


 とばりは立ち上がると、サチいの傍に膝をついてなだらかに突き出した腹に触れる。そこは温かく、それでいて要塞のように硬かった。確かにそこに小さな命が宿っていることが、指先から伝わってくる。とばりはサチの腹に右の耳を当てて、呼吸を整える。目を閉じると、深く息を吐きながら耳を澄ませた。とばりには、生まれつき不思議な力がある。それは五感の鋭さだったり、他の人が感じないこと、見えないものを見ることができるという超常的な力だった。紫乃を含め、この力のことはサチ以外は知らない。


「うん。元気な男の子だよ。とても母親想いの子だから、きっと安産になる」


 その言葉に、サチは顔をパッと明るくして、とばりの手に自分の手を重ねた。どうぞ、彼女のお産が無事に何事もなく終わりますように。大切な友人のこれからがどうか、幸せでありますように。そう願いを込めながら、とばりは反対側の手でサチの手をぎゅっと握った。


◆◇◆


「じゃあね、さっちゃん」


 サチを村の入り口まで送ったあと、とばりはすぐに踵を返した。この村にあまりいい思い出はない。長居はしたくなかったし、村人とはできれば顔を合わせたくなかった。時刻はもうほとんど日が落ちた頃で、自宅に戻る頃にはとっぷりと日が暮れているだろう。サチが義母に説教を食らわなければいいけれど、とため息をつく。


 今日はやけに山が騒がしいな、と思った。

 山には”人ではないもの”が住む。そしてこの世にはそれらは当たり前のように紛れている。とばりは幼い頃から”人ではない何か”を見ることができた。それはとばりにとって水のように風のように、当たり前にそこにあるものだった。それらは当たり前のように人間と共生していて、花のように草のように穏やかに暮らして居る。しかしそれらの存在は、普通は認知できないものなのだと知った時、とばりは無闇に口に出すことをやめた。


 ポツリ、と頬に一滴の雫が落ちた。胸騒ぎと少しの違和感を感じながらも呼吸を整えて気持ちを落ち着かせる。夜に降る雨は絶望を連れてくる。そんな古い言い伝えが頭をよぎったが、そんなのはまっぴらごめんだと、半ば反射的に首を振った。



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