第10話 英雄の空ー23
どれ程走ったか?
林の中を走るたびに、熱っぽい意識が揺れる度に、
体にずっと忘れていた疲労と激痛が戻ってくる。
意識が体から剥離され、
少しづつ地面に落ちて行く。
感覚で分かる、
精霊の秘薬はその効力を失いつつある。
ガッ、ドサッ
何に、つまづいたのだろう?
俺は地面に倒れ込んだ、受け身を取ろうとしたが、
上手く出来ず右手を地面にぶつけるのが精いっぱいだった。
転んで倒れ込んだ拍子に二つの物が体から離れ落ちる。
小さな動物と、『精霊の法衣』だ。
「キー、キー!」
「ハア、ハア、野生の動物ってのは、気楽なモンだ、
片目を潰されているくせに、ハア、ハア...うるせえったら無え」
荒い呼吸の合間に強がった皮肉を呟く。
何も起きなかったかの様に、
俺の精神は平静を保っている振りをした。
本当はあんな恐怖を、あんな敗北を、
俺の心は振り切れないままだ。
あの教会からどれくらい離れただろう?
動かなくては、このまま倒れていては死ぬだけだ。
俺は泥と血に汚れた『精霊の法衣』を拾う。
肩で何とか息をしてそれを左腕と体の間に挟み込む。
立ち上がり、もう一度走り出す。
そうだ、これで良い、この方が俺らしいんだ。
俺は死にかけの女から貰った聖なるボロ切れと共に走っている。
もはや自分が何から逃げているのかも分からない。
逃げ切ったら俺はこのボロ切れを売って、明日も生きて行くんだろう。
この虚しさの中を延々と。
もうすぐ川に着く、その川を辿ればいずれ村に着く、
だが、はっきりと分かる、本当は分かっている、俺の体は多分もう...
意味を失った人生、
意味を失った体、
俺は何故走っているんだろう?
心を殺して、ただ走る、思い出す、あの地獄の感覚を。
それはどこか懐かしい静けさだった。
ー世界中が、その罪に落ちた まるでそれを望んでいる様にも見えた-
基本的には平気だ。
だが時々、時々私の心は折れそうになる。
あの子に、もう一度あの子に会いたい。
あの子に抱きしめて欲しい、泣き崩れそうな私の心を、
ほんの少し、心を休ませる止まり木が欲しい。
でも幻だ、私はあの子に会うべきでは無い。
もう、二度と。
ーお前は解き放った 人は運命に沈むー
...そうだ、運命。
箱が開かれるのは運命だった。
古臭い言葉だが、あの箱には良く似合う。
頭が、ぼやける。
風が心地良い、
冷たい空気が体に染み込む。
内からの強い魔力に焼かれた体が少しずつ生き返る様だ。
ぼやけた視界で周りを見ると、ここは静かな林の中。
私は、その林の中をただユラユラと歩いていた。
一人だ、
ここには私に対する無尽蔵の憎悪も、敵意も、殺意も、
何も無い。
ここで残りの人生を過ごすのも良いかもしれない、
静かな林で、静かな人生を。
木の実を取り、狩りをして、川で水を汲み。
この林を1人というのも寂しいものだろうか?
何か動物を飼おうか?
故郷には年老いた猫がいた。
あの男は逃げ延びただろうか?
ゼタ、ネズミのゼタ。
おかしな男だった、
飄々(ひょうひょう)としている様で妙な所に拘り命を張って私と共に戦った。
私は大してあてにしてなかった。
どこかのタイミングで逃げ出すだろうと、
それが普通だ。
だがあの男は留まり戦った。何故だろう?
楽しかった、少しだけ。
減らず口ばかりの捻た男だったが。
あんなに誰かと話をしたのは久々だ。
私にしては口数も多かった。
またどこかで会う事があるだろうか?
涼しい風は私の前髪を揺らして遊ぶ。
鳥の鳴き声が聞こえる。
とても綺麗な声だ。
林の合間から刺す様な日差しが目に当たる。
次第にぼんやりとした意識もはっきりしてくる。
そうだ、ここは林の中、そして私は、
私の両手は、
赤く、赤く、とても深い濁った赤色。
「そうだ、逃れようが無い...」
私の体はとても深く濡れていた。
体全体がおびただしい血に染まっていた。
ーそれは 災いが詰まった箱だったー
そう、始めてしまった。
この旅には救いも、安らぎも無い。
(お前の、お前のせいじゃないか!?)
あの少女は泣いていた。
私はこの罪を悔やんではいない。
だからと言って最早笑って生きてはいけない。
私は残りの人生を下を向いたまま生きて行かなくては。
そして全ての魔神をこの手で殺さなくては。
そうしたら、全てが終わる。
私のこの胸の箱と一緒に、静かに消える。
ーそれは 開けてはならない箱だった-
誇れるものでは無いだろう、
沢山の怨嗟と悲しみに耐え、何も出来ずに旅を続ける、
それでも、
私はこの罪に、後悔は無い。
やっとたどり着いた、川に、
これを辿って行けばやがて村に着く。
川だ、そう、この音は、この匂いは。
この姿勢では良く見えない。
だが、倒れてしまう前に、確かにその輝きを見た。
川に着いたんだ。
バックダールは言っていたな、
騙し騙し体が動いているだけだと。
反動か。
「キー!キー!」
「う、うる、せえ...
体が、もう...」
「キー、キー...」
そいつは、今までの生意気な鳴き声とは違う、
どこか情けねえ声を漏らし俺の顔を覗き込む。
「てめえは、もう、どっかいけ...
ここはまだ...危険なんだよ」
「キー、キー」
そいつを睨み付ける。
だがそいつは俺を残った片目で見つめて動こうとしない。
「行け、縁も所縁も無い...てめえに、
連れ合いで死なれる筋合いは、無え」
震える右手を振ってウサギモドキを追っ払う。
「キー、キー!」
本当に生意気な奴だ、俺の手を避けその場を動こうとしない。
「失せろ!てめえなら一人で生きていける。
この性悪が...」
ダメだ、目が霞む、
意識が...
「キー!キー!キー!」
「おや、あれは?」
「ばあさん、あんまり端に寄るんじゃねえ。
ばあさんは目が悪いんだから。
船から落っこちるぞ?」
「おじいさん、あそこ、よく見てください。
人が倒れていますよ。助けてあげなきゃ」
「ばあさん、ありゃ行き倒れだぁ。
あんなにボロボロで、もう死んでるよ。
それより早く川を下っちまわねえと、俺達が危ねえ。
「そうですかねえ、でも...」
「さっきの嵐は普通のものじゃ無えよ。
とんでもねえのがこの辺りに来てる。
早く息子夫婦の町へ逃げなきゃな」
「キー、キー...キー、キー!」
「あれ?何でしょうねえ?
ウサギがあんな所に。」
「うるせえ...俺を、俺を...見る...な...」
「お、おじいさん、あの人生きてますよ!」
「なんだあ?」
「今動いたんです。手が少しだけ。
生きているんですよ!あの倒れている人!」
「生きてるぅ!?ばあさんの目はアテにならねえからなぁ」
「で、でもね、今確かに...」
「...チッ、しょうがねえ。ばあさん船を寄せるぞ!」
「まったく、重てえ死にぞこないだったぜ、
船が危うくひっくり返るところだ。
で、どうなんだ?婆さん」
「そうですねえ、外側のケガもそうですが、
随分と無理をしてきたみたいですねえ」
「婆さんでも無理そうか?もしそうならここに置いて行こう。
可哀そうだが荷物になるだけだ」
「いいえ、何とかなりそうですよ。
...不思議な人ですね、この人は随分と精霊に助けて貰った様ですよ。
その精霊たちがこの人の周りにずっと漂っている。
この人に精霊魔法の素養がある様には見えませんが。
ひょっとしたら、この人の命には
何か大きな意味があるのかも知れませんよ」
「大きな意味なあ、そんな大層なツラ構えには見えんが。
まあツキに恵まれてるのは確かだな、ウチの婆さんに拾われるとは」
「この人の周りの精霊達に力を貸して貰えば
私の年老いた精霊魔法でも何とかなりますよ」
「キー、キー!」
「おいおい、死にぞこないのオマケに
変なの連れて来たな?
何だこいつ、魔獣の子供か?
それにしちゃあ気の抜けた顔だなあ」
「キー、キー!」
「コラ、動き回るんじゃねえ、
危なっかしい。
お、なんだ?
生意気な奴だな、俺に向かって舌出しやがった。
まったく、可愛げの無え荷物だな」
ーそも、人はみな呪われて生まれてきたー(賢者の回顧録、真書)
これにて序章が終わりになります。
長くなりましたがこれまでのお付き合いありがとうございました。
近日中に活動報告にてご挨拶をさせて頂きます。
その折りに今後の予定もお知らせしたいと思います。
これからも宜しくお願い致します。




