その2.”俺”という人間の概要
最初に書くべきことは、やっぱり自分についてだろうなぁということで。
高校生の時にムックの『大嫌い』を聞くまで、俺は自分の感情というものが分からなかった。分からないというより名前を知らないから区別や分別のしようがなかったと言った方が正しいかもしれない。
小学生中学生と、外では叫んだり怒鳴ったり暴力に物を言わせたりしていた。家ではいつも曖昧に笑っていた。いわゆる内弁慶の外バージョン(弁慶?w)だったんだけど、それは自分の衝動が何なのか、何が欲しくて何が邪魔なのか、そういう一切合財が分からなくて、でも家でそんなことをしたら親父に怒鳴られるって分かってたから、結果的に外でストレスを発散してたんだと思う。
色んな人を怒らせて、嫌われて、でもそんなの全然構わなかった。学校で居場所が無くなったって家があるし、俺に衣食住を提供する人間以外は全部使い捨ての感覚だったから。まぁそれで結果的に女性恐怖症に自ら陥るんだけど、それは別の回で。
で、ムックの『大嫌い』って曲は、ひたすら「嫌い嫌い嫌い---」と連呼して、最後に
「あなたが大嫌いです。ずっと知ってると思ってました。
あなたが大嫌いです。そんなに驚くことないでしょう?」
と歌って終わる、とんでもない歌だった。
でもそのとんでもない歌で、俺は初めて感情というものを目の当たりにした気がした。
それまで家族や親族という者に対して不快な感情を抱いたり抱かせたりしてはいけないのだと思って疑わなかった。そんな感情を感じる筈もないと信じきっていた。
だけどこの曲を聞いて気付いてしまった。
僕は父が、母が、兄が、家族が大嫌いだったのだと。
そして、家族を嫌うその感情を否定することも拒絶することも、もう俺には出来なかった。
それからムックのCDを買い集め、DVDも揃えて、ムックの世界観に浸った。精神病や機能不全家族のこと、歪んだ心とその歪みから見える世界の景色。何もかもが、俺が目を逸らしてきた俺の日常だった。
初めて肯定された気がした。恨み、悲しみ、痛み、苦しみ。絶望や死への渇望。生との葛藤。画面の中で歌う逹瑯さんの全てが、家族を初めとする大人達という世間から抑圧されてきた俺そのものだった。
ムックを聴くことで、初めて心が安らぐという状態を知った。だから毎日ムックを聴いた。その内自分なりに言葉を書き連ねるようにもなった。世間からどす黒いと呼ばれるこの感情が俺にはとても純粋で透明な感情に思えた。大嫌いな家族の前で大好きだよーとか嘘を吐いて笑っている自分の方がどす黒く見えた。
色んなタイミングが重なって、二十歳の時に誰にも相談せず精神科を受診した。二十歳になるのを待っていたのは、未成年だと家族の同意や同伴が必要な場合があるとネットで調べて知っていたから。
そして大量の薬を処方され、一先ず暴走している心を麻痺させる治療を受けることになった。
治療と言っても内科や外科のそれとは全く異なり、現状を簡単に話してそれに応じた薬を処方されるだけ。カウンセリングは保険適用外だったから受けなかった。カウンセリングを受けようと思ったら正直障害年金だけではとても立ち行かない。それがカウンセリングの実態だったから。
そしてまもなく一度目の自殺未遂をする。自分という人格が、人生がもう改善出来ない程に歪んで壊れてしまっていると分かったから。一生こんなに辛いままなら、少しの間凄く辛い思いをしてでも死んでしまった方が楽だと思ったから。
誰にも何も言わず、より計画を具現化するためにその一部始終を小説として書き上げた。書き終わった時、なんだか死ねたような気がした。肩の荷が下りたように心が軽くなって、「一度死んだならもう人生なんてどうでもいいや」と人生そのものを投げ出した。否、投げ出すことが出来たのだ。
それまでの俺はどうにかして自分でも生きていける道を探さねばという焦燥感と、その実生きる道など無いという現実との板ばさみで結果的に死を選んだ。しかし、死を選んだ時点で生きるという未来を考える必要が無くなったという皮肉な理屈である。
そうして何もかもを諦め、ただ死ぬまで生きるためにより薬に依存した。辛い眠れないと何だかんだ理由をつけて薬を増やしてもらった。
当時の俺の睡眠時間は平均すると18~20時間だった。夕食の時だけ起こされ、朦朧とした意識のまま食事とトイレと入浴を済ませ、また眠る。途中で起きてしまったり時間が余ってしまった時にはムックを見聞きしていた。そうして文字通り日々を消化していた。
それが数年続いた後の2013年、俺は誰にも何も言わず二度目の自殺未遂をした。今度は計画を小説に起こしたりする気力も無く、ただ日時と場所のチェックだけを入念に行った。
その時の自殺理由は家族に薬は悪だと全ての薬の服用を禁じられたからである。一週間の合計睡眠時間が2時間前後になり、絶えず目眩や幻覚幻聴に見舞われ、数ヶ月で限界を超えた。だから家族へのあてつけで死んでやろうと決断した。俺は死ねるし家族には悔恨を遺すだろう。正に俺得な展開。
そんなやけっぱちの状態で人生の最後に選んだのが、この断薬の数ヶ月間を耐え抜かせてくれたある人物(ここではDとしておく)との握手会に参加することだった。丁度近所で握手会をするという渡りに船で、俺は一言お礼を言うべくそれに参加することを決めた。
ただ、どんな形でお礼を言うかに悩んだ。これを書いてしまうと人物を特定されそうで迷惑をかけては嫌なのだが、まあニコ動の方である。なので、俺もニコ動に動画を投稿して「Dさんがきっかけでニコ動始めました」的な感じにしようと思った。そしてそれを実行した。人生で初めて、人の目を見て握手をして自分の思いを伝える。一世一代の大舞台である。何せ俺は人間に触れないし尊敬する人に自分の存在を知られるのが堪えられない(嫌われてしまうのが怖くて)人間だからだ。カチンコチンの状態で、でも精一杯考えた通りの台詞を言えた。ああ、これで死ねる。思い残すことは無い。でも、その時。
D氏はとても自然に「ほんと。頑張って!」と笑ったのである。
尊敬する人から貰った初めての言葉が応援だなんて幸運どころか恵まれすぎである。俺は瞬時に『ダメだこのままじゃ死ねない!』と思ってしまった。だってこれから頑張らなければならないのだ。
そんな訳で現在の俺はとても前向きに後ろを向いている。
一度は頑張って障害者雇用枠での正社員を目指したが、まず二週間に一度30分の面談の時点で駄目だった。心が前へ前へとせがんでも、身体が追いつかなかった。既にこの身体は薬漬けからの離脱、そして再びの投薬でボロボロになっていて、全ての機関や機能が欠損していたのだ。
週に2~3度整体院に行かないと大事になると言われた全身の筋肉の自壊、記憶と記憶力の欠如、味覚視覚聴覚の異常、体温の調節力を初めとする全体的な体力の著しい低下、離脱の後遺症で残った常時起こり続ける目眩、喘息の発病。何より体重の低下が酷く、離脱から現在までで20kg以上落ちてしまっていた。味覚の異常で食欲も無い。
そこで一度目の自殺未遂の俺と二度目の自殺未遂の俺と何やかんやをない交ぜにして、今を精一杯生きようと決めた。
金は稼げない。何しろ一日の大半はベッドの上である。内職どころの話ではない。
ならば、働けない俺が生きるとはどういった状態を指すのか。
結論から言うと『今を楽しむ』ことだった。
全力で笑って、全力で泣いて、全力で力尽きて(笑) そういう風にこの身体で出来る精一杯をやっていこうと決めたのである。
俺はマイナス思考で後ろ向きだけど、それだって思考している証だしいいじゃないか。そんな感じで外に出たり内に篭ったりしながら精一杯をしている。
以上が、覚えている過去から現在に至る”俺”という人間の概要である。