第一話 ~はじまりの物語のはじまり~
「何考えてんだ。あー飽きたから変わりにやっといて、みたいに軽く言うなよ!」
なだらかな丘の上、森に囲まれたそう広くはない草原の中程に、ゴツゴツとした濃い灰色の石を積み上げた外壁を持つ二階建ての小さな砦がある。
その入り口で、そこを住まいとしている、やや甲高くなる声を苦労して抑えつつ絞り出す若い男の声が聞こえた。俺のことだが。
「おいリィス、そんな飽きたからと簡単に辞められるような仕事ではない。意外と大変なんだぞ?」
片や、呆れたような朗々とした野太い声が返した。
「親父が言うな!」
結局動揺を抑えられず叫びに出たとおり、俺の親父である。今俺は混乱の渦中にある。いや、予想してはいたのだが、どうにか回避できないものかと画策していた矢先にこれである。
つい先程、朝の挨拶を交わした際、親父は抜け抜けと言い放った。
「お前今日から領主な。じゃパパ出かけちゃうぞお」
ぽいっとそこらの石コロでも投げるように俺に言い放ったのだ。
厳かな継承の儀式などないし面倒で嫌だが、父から息子への胸に沁みる薫陶をたれるでなく、出かける前にちょっと用事済ませとこう、そんな気軽さで領主の地位を息子へ譲り渡そうとしている。
腰の据わった陸の民と呼ばれる我がルーグランの領民は、こんな領主をどう思うだろうか。
……まあ、領主様だし。
ああ、領主様だからな。
おう領主様、罠にかかった野兎回収しといて。
既にこんな扱いだった。
地位を息子に譲ったと聞けば、そりゃ宴会だと、飲む理由が出来たくらいにしか思わないだろう。
まだまだ怠けていたいお年頃なのに。くそっ、俺の味方はいないのか!
「まあ、ダディク。その辺にしなさいな」
そんな中、俺たちのやり取りをばっさり遮る柔らかな声が響いた。
「イェスマム!」
父は敬礼したわけではない。親父の名、ダディクと呼んだのは、彼の妻であり俺の母であるイェスマムだ。そして、母は俺に助け舟を出すために声を掛けたのではなかった。
俺と同じ白っぽい金髪を、普段とは違い頭の上で丸めて、動きやすい足元の見える丈のドレスを身に付けている。見回り用の衣装だ。
ふっくらとした白い頬を緩めて、父に本日の予定を告げ始める。
「今日は、海の民らの漁を見学させていただく予定ですよ。早く、あなたの逞しい腕で小船を操る様にうっとりさせて下さいな」
「フフフ愛の底引き網をそなたの心にぞろびかせようぞ」
キャッじゃねえよこら。
彼らはいつまでも新婚ほやほやな、こちらが居たたまれなくなる空気を醸し出している。砦のヌシと言っていい爺やによると、少年時代に見合いをしてより徹頭徹尾こんな様子らしい。既に玄人好みな難易度の高いプレイの域だろう。
「ではリィス、後は任せたぞ。遅れるとヤルジの頭髪を減らしてしまうからな」
父は親友であり、目と鼻の先にある海の民の領地を治める領主オヤルジ・ハトウと出かけるらしい。海上で陽に容赦なく焼かれるせいか、頭髪がやや寂しいことになりつつあると嘆くのが癖になっている人だ。
本当は兄弟なのではないかというほど二人は思考がそっくりで、歳も近いが体格も揃って筋肉達磨である。父が肩口までの茶色の髪、オヤルジも似た長さの黒い髪を後頭部で縛っていたが、色違いなだけに見えた。話し声も有り余る熱量でがなり合うかの如くである。二人並ぶと暑苦しいことこの上ないのだ。
彼の妻であるオカンネルと母もやたら気が合い、これまた寄れば行儀見習い中の小娘共と大差ない姦しさである。
「おじ様は、いつも以上に機嫌が良さそうだな」
ふいに後ろから声がかかる。
心臓に悪いから止めろと文句を言うが、戦士としての癖だといって止めない人物を、溜息を吐きつつ振り返った。
砦の入り口に、両腕を組んで悠然と寄りかかってこちらを見ている、一対の青みがかった深みのある灰色の瞳と目が合う。
「トゥロ……」
俺は懲りずに指摘しようとして、今はそれどころではないと口を閉じた。
トゥロと呼んでいる海の領主の娘ストゥロン・ハトウ。いや、つい先日、彼女も領主業を押し付けられたところだったか。
あの騒がしい両親から生まれ育つなど、突然変異みたいに思える口数は、少ない女だ。
「おう海の娘御か。ヤルジを待たせたかな?」
父がトゥロへ朗らかに声をかけた。
「あらトゥロいらっしゃい。今朝も髪が美しいこと。私達が出かけている間、リィスをお願いね」
母は、トゥロに俺に対する以上の優しい声で挨拶を交わす。娘も欲しかったと常々言っていたので、俺と歳の変わらぬトゥロは母のお気に入りだ。
声をかけられたトゥロは母に頷くと、長くうねった黒っぽい髪を揺らして姿勢を正した。腰まである髪の下の方を束ねて結んでいる。黒っぽいと言ったのは、光の下では鮮やかな銅色を反射するからだ。褐色の肌は、鍛えられたその身をさらに引き締め、精悍に見せていた。
「準備は出来ているいつでもかかってこい、だそうです」
戦士として鍛えられた、低めの落ち着きのある声で両親に伝えた内容は、オヤルジの伝言だろう。漁の見学じゃないのかよ。
その言葉に不適な笑みを浮かべた親父は、従者が用意して待つ馬の元へ、どすどすと歩いていく。速さはないが脚が太く険しい道も良く歩く小型の馬と、ゴツイ親父の対比はいつ見ても違和感。大丈夫と分かっていても、なんとなく馬が可哀相に見えてしまう。
親父は俺の胸中など意に介さず、馬に母をぽんと乗せて自らもその背に跨る。
「いざ参らん!」
「あっ、待てよ親父! まだ話が……!」
あまりの精神的疲労に思考が停止してしまっていた。はっとして声をかけるも後の祭り。
クソ親父は、ハッハッハッと高笑いを風に乗せ去っていった。
俺はげんなりしきっていて、それ以上叫ぶ気力もなく、黙って後姿を見送る他なかった。
しばらく入り口で項垂れていた俺は、従者に掃除の邪魔とばかりに箒で足を小突かれ意識を取り戻した。俺はあちこちで茫然としていることが多いらしいと、たまにお小言を聞かされるが、そんな頻繁なつもりはないんだけどな。この砦には脳筋罠が多すぎるからいけない。
入り口から外に出て避けると、俺の意識覚醒を並んで待っていたトゥロが口を開いた。
「鍛錬を怠るから禄に反論も出来ないんだよ」
そう言うトゥロの声音には、言い聞かせようという熱意など塵ほどもない。
なぜなら、俺は筋金入りの「動くの嫌い」派。自他共に認める怠け者である。
正直に言うと怠けているつもりはないが、領主の本分たる武道の心得などに興味は微塵もない。体力作り? 剣の修行? 動いたら負けとばかりに全力で回避してきた。
だって汗かいたら疲れるじゃん。
だから幼い頃から木陰で寝転んだりと怠け……静かにしてるほうが好きで、戦闘訓練が面倒くさ、いや全く興味を持てなかった。稽古の時間になる度に、さぼっ、ではなくもっと意義のある読書活動へと情熱を注いでいた。
書き物や読み物、編み物でもいい。あらゆる肉体的鍛錬を阻止するために、その場を動かずして出来ることなら何でもしてきたんだ。
本末転倒という言葉は生涯知らないことにする。
そんな俺を、生まれたときからほとんど一緒に育ったトゥロはとっくに諦めているのだが、だからと言って忠告は止めない。彼女の矜持に反するし、なによりそういう性分なのだ。
しかしその言い分は今の俺にとって、なんとも不本意だった。
先延ばしのため単純親父を丸め込むくらいの小さな策なら、すぐにでも思いつくし実行してきた。今回もできる……はずだったんだ。
ここは辺鄙な田舎領。ご近所の集落も遥か遠い、大陸南西端に位置する。年中暖かで隔離されたように平和で暢気で、ぽや~っとした所なのだ。
この地に先祖が住み着いてより、人々はその辺で好き勝手に生活している。領主と言うが、大陸争乱という名の場所取り合戦で指揮していた者の名残に過ぎない。そのままずるずると、まとめ役を引き受けて来たわけだ。
本来なら領主を継ぐ前、正式に領主代理期間を設ける。数年ほどの期間、親父と行動を共にし学んでから全ての権利を移譲する。その間に嫁を貰い、子でも生せれば完璧だろう。
俺も今年で二十を数えるから、いい加減に代理期間に入っている筈だった。死んだ爺さんも、親父が俺くらいの歳には既に代理期間へ移行したか終えようとしていたとか言ってたと思う。俺がやってきた引き延ばしは、これを遅らせることだった。
そりゃあ物心付いた頃から、訓練やら手伝いやら何かしら付いて回るから大抵のことは既に身についている。仕事なんて、せいぜい領内を見回って草むしりの手伝いをさせられたり鶏を追い立てる手伝いをさせられたり雨漏りの修理を手伝わされたり……手伝いばかりな気がするが、まあそんなことだ。
引継ぎの顔見せ期間とでも思えばいい。どの道、人手が足りないから親父も悠々隠居なんて出来ないけどな。どうせなら、息子に譲って向いた仕事でもした方が良いのだろう。そうやって、ゆっくりしっかり定期的に引き継いで行くことで安定した基盤を築く。
なのにトゥロの方が、突然領主を継いだ。
俺と違って彼女は策を弄して遅らせるなんてしてないが、多分、俺がまだだからいっか、くらいの暢気さで親父さんも好きにさせていたはずだ。
だから、何かあると踏んでたんだ。
ただ、ここ最近は自由時間が激減し、疲れ切っていたところを衝かれた形だ。
それも、いつもの雑用じゃなくて、珍しく頭を使う作業。それで部屋に閉じこもっていたから周囲の動きが目に入る機会がなかった。
この砦では、そうした仕事は全部俺に押し付けられる。動きたくないならやれというのと、俺も外回りよりはマシと引き受けていたのだが、その量が半端なかったんだ。しかも誰も体験したことのない大がかりなことでさ……などなど悔しさを吐き捨てたところで、もう覆されないだろう。
これから親父が隣の前領主に会うなら、必ず伝えられる。しかも視察と称して漁村を回るのだから民にも伝わってしまう。
親父たちにとっては友達同士のお喋りだろうと、公式な触れとして扱われる。
「ああぁ……もうだめだぁ。俺のぐーたら人生は終わりなんだぁ……」
地に項垂れる俺の頭上から、トゥロの呆れたような溜息が降りかかった。
それがまるで、地底からの使いのように、俺の頭には響いた。
こうして俺ダリィス・ルーグランは、うやむやの内に領主と相成ったのである。