ライバルはヤツ
個人的には甘めに書いた、日常の一コマです。
本編も存在しますが、時系列的に言えばこの短編の方が先になります。
俺は今、選択に迫られている。
一国の王子である俺が城下の狭い路地の真ん中で。
腕の中には小さく震える幼馴染み。
今日の彼女は亜麻色の髪に紫の瞳――もっとも、これは変装しているのだが――その瞳をこちらから見る事はできない。
なぜなら、彼女は事もあろうに俺自身にしがみついているからだ。
彼女から香るのは甘い菓子の様な香り。
それは彼女が好む自身の領地で採れる紅茶の香りだ。
眩暈がした。
彼女がこんな風にしがみついてくる事など今まで一度だってない。
たしかに彼女が傍にいる事は多いが、いつもはお互い軽口を叩き、それでいてお互いの仕事をしている。
俺は王子として公務を。
彼女は騎士として護衛を。
彼女は俺の気持ちに全く気がついていない。
だからこそ、今、困っている。
このまま止まっていれば現実的には苦行を、進めば失うかもしれない信頼と。
どちらの選択を取るべきか。
日ごろから耐えているのに、これはあんまりだ。
「ユウリィ、そんなに怯えなくても大丈夫だ」
とりあえず平静を装い、声をかけてみる。
彼女が離れてしまうのは正直惜しいが、このままではいつ理性が吹っ飛んでしまうかわからない。
とにかく、事態を動かす必要があった。
彼女がゆっくりと俺の胸から顔を離す。
お互いの間にできた隙間が、すぅっと冷えるようで寂しかった。
そんな俺の胸中など察する事はなく、そのまま彼女は恐る恐るといった感じに、自分の背後を振り返る。
そして、自分を恐怖のどん底に叩き落したヤツと、顔を合わせた。
俺も、合わせて視線をヤツに向ける。
黒光りする細長いシルエット。
ああ、気持ち悪いからこれ以上考えるのはよそう。
俺だって、別にヤツが得意な訳ではない。
しかし、ヤツは俺たちの視線を感じたようで、カサリと動いた。
「いやぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
彼女が、どっから声が出たのかというぐらいデカイ悲鳴を上げた。
そして俺を押し倒さんとする勢いでしがみついてくる。
しかもさっきより密着度が高い。
先程開いた隙間を惜しむ気持など吹っ飛び、また苦行を迫られる。
普段の彼女は巨漢でもあっさり倒してしまう程の剣術・体術の腕前があった。
その彼女が、たかが虫――敢えて、虫としておこう――ぐらいでこうもパニックになるとは。
(なんの拷問だよ、これ……)
彼女から伝わる熱と柔らかさにクラクラし、それでも自分が何もできないという苦行。
手を出して信頼が失われないならそれが一番いい。
ただそれは全く推測できず、彼女の気持ちが分からない以上、安易に選べない。
今まで積み上げてきた信頼は、彼女が俺に抱きつく――恐怖にとらわれた時、限定だが――ぐらいには、ある。
その信頼を失ったら、俺は多分生きていけないと思う。
傍に彼女が控えていても、そういった事は何もできない。
それはいつもの事だった。
そう思うと、最初っから選択なんてなかったんだと今さら気付く。
「……ユウリィ、このままじゃ埒が明かない。とりあえず、俺の後ろに」
俺は悲痛な思いで、抱きつく彼女を引き離した。
そして、言葉通り彼女を後ろへ隠す。
残念ながら、彼女は後ろから抱きついてこなかった。
『埒が明かない』と言ったのは自分なのでそれでよかったのだが、残念に思うのはまた別なのでしかたがない。
それでも、彼女が服の裾をキュッと握っている感触はあったので、心底残念ではなかった。
頼られている実感がそこにある。
「……まず、俺がヤツを仕留める。その隙に、逃げろ」
言葉だけ聞けばなんだかいいセリフだが、相手は虫。しかも一匹。
その正面には俺と、怯えるように服の裾を握る彼女。
現実的には良くわからない構図になっているが、そばに突っ込む人がいないので放置されている。
「フィー……、どうやって倒すの?」
背後からか細い声が聞こえた。
こんな弱々しい声で呼ばれたら、抱きしめたくなる。
ただ、先程気付いたがそれはできない。
彼女の信頼を失うような事態は絶対避けなければならないから。
改めて自分の苦行を思い知り、心を落ち着かせる。
そして、彼女の問いに答える。
「まあ、潰すしかないだろう」
――もっと言葉を選べば良かった。
そう思った時にはもう遅かった。
「つ、潰すぅぅぅぅ!!!? 無理無理無理無理!!」
彼女が腹の底から声を出し、全否定する。
あまつさえは引き止めるように抱きついてきた。
(くっ……こいつ……)
三度目の苦行に俺は抱きつかれる喜びより、ちょっとした怒りを感じた。
まさかこいつは俺をおちょくってるのか?
俺が手を出せないと思って?
思えば、先日「フィーは初心だね。ははは」などと言われて、からかわれた事がある。
理由は俺の女性への挨拶方法。
挨拶は二通りある。
まずは、差し出された手を両手で包み額に近づける。これは、一般的に初対面の女性に行う事が多い。
次に、差し出された手に口づけを落とす。一般的に複数回会っていて、それなりに親睦がある場合と、初対面でも気に入った相手ならこの挨拶を使う。
ちなみに、俺が先日取った挨拶は、前者。
それも、複数回会った事のある女性に。
別に相手の女性がどうこうという理由ではない。
ただ、俺はユウリィが傍にいたからそうしただけだった。
何が悲しくて好きな女の前で違う女にキスしなくてはいけないのだ。
ただそれだけなのに、こいつときたら……
(初心だね、はははって)
そういうお前はどうなんだ。
普段の状況から考えて、彼女に男の気はない。
ほぼ夜会に参加しないから男からそういった挨拶される事もないだろう。
ならば慣れているわけがない。
そう思うと、途端にからかいたくなった。
目の前に対峙するヤツの存在なんてどうでもよくなる。
俺は後ろから抱きつく彼女の手を外し、身体の向きを変えた。
そして、抱きすくめるように両腕で包んだ。
「ユウリィ、俺を誘惑してるのか?」
半分冗談、半分本気で言った。
俺の言葉を聞いて彼女はキョトンとした表情を、一瞬で真っ赤にした。
「な、何言って……」
「だって、そうだろ? 何度も抱きついてきて」
彼女は自分のとった行動を思い出したのか、顔を赤く染めたまま俯いた。
激しく可愛かった。
いつもはこんな表情を見せない。
巨漢をも倒す彼女はこんな恥じらうような顔を一度たりとも見せる事はなかった。
新たな表情を見つけ、心が浮かれる。
しかも、自分相手に恥じらうような顔。
たまらなかった。
もっと見たくて、もっと追いつめたくなる。
「なあ、ユウリィ。このまま、練習するか?」
「れ、練習って……」
彼女は顔を上げない。
照れている。自分を、意識してくれているのではないかと期待してしまう。
「初心な俺に教えてくれるんだろ?」
「っ!!」
彼女が息を飲んだ。
過去に自分の言った事が墓穴だと、気がついたのかもしれない。
「ユウリィ」
甘ったるい声で彼女の愛称を呼んだ。
もう、からかっているのか本気なのか自分でも分からなかった。
彼女が顔を上げる。
そして、
「いやぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
そう叫んで、思いっきり俺を突き飛ばした。
俺は気が緩んでいたのもあって、見事に吹っ飛んだ。
何が起こったのか分からず、動けなかった。
拒絶された。しかも、物凄く強い力で。
そう思ったら血の気が引いた。
何をしているんだ、俺は。
最初に信頼を守る為、手を出さない事にしたハズなのに。
いつの間にか、からかうつもり――そんなのは建前――で、つい手を出してしまった。
そんな俺をあざ笑うかのように、ヤツがすぐ近くの壁に止まる。
それを見た彼女は一目散に逃げ出した。
俺の事なんて振り返る事なく。
しばらく俺は動けなかった。
頭が現実を拒否するように、なにも。
気付けば事の発端であるヤツは消え失せ、俺は一人で路地に座り込んでいた。
どれぐらい座っていたのか。
時間など見ていなかったので分からないが、いつまでもこうしている訳にもいかず、俺はのろのろと立ち上がった。
王子の威厳などあったものじゃない。
ここに居るのは大切な信頼を失った情けない男が一人。
(とりあえず、謝ろう)
それぐらいしか思いつかなかった。
あんなに強く拒否されて、謝罪を受けてもらえるのか疑問だが。それでも、謝ろうと思った。
重い足を上げ、なんとか路地を出る。
すると壁にもたれている亜麻色の女性に気がついた。
ユウリィだった。
彼女は泣きそうな表情を浮かべ、俺の袖をつかんだ。
「ごめん、フィー……助けに行けなくて」
助け?
誰から守るため?
そう思った時に、ヤツの姿が浮かんだ。
「……ヤツの事をいってるのか?」
そういうと、彼女は頷いた。
俺は彼女が待っていてくれた事を喜んだ。
少なくとも謝る機会が与えられたのだと思い、俺は「そんなことより……」と、言葉を続けようとした。
しかし。
「そんな事じゃない! 私はフィーの騎士なのに!!」
彼女が大きな声を出し、俺の謝罪を遮った。
自分で出した大声に彼女は慌てて口をつぐんだ。
幸い周囲は騒がしく、誰もこちらの話など聞いてはいなかった。
「騎士が、主君を置いて逃げるなんて……あってはならない事」
「置いて逃げるって……」
たしかに、事実だけ見ればそうだが。
俺は、眉を寄せた。
彼女が自分の失態を落ち込んでいるのは分かる。
分かるのだが、忘れてはいけないのは相手が『虫』だという事。
そこまで真剣に考えなくても。
「私……やっぱり、護衛騎士クビになる? いざって時に、逃げ出す騎士じゃあ役に立たないから」
いやいやいやいや。ちょっとまて。
彼女は元来真面目だ。たまにハメを外したり、墓穴を掘る事はあるが、それは愛嬌というもの。
これぐらいの事でクビにするつもりは全くもってない。
「……クビになんてする訳ないだろう」
そもそも彼女が辞めたいというなら、まだ考えるが。
そう思って、肝が冷えた。
まさか今の事で俺から離れたくなったけど、言いにくいから遠まわしにこんな事を?
もしそうなら無理やり彼女を傍に置いておく事になる。
そんな事をしたらますます嫌われて……
こんなネガティブ想像は突然中断させられた。
なぜなら、彼女が安心したように笑ったから。
「よかった……」
そう零れた声で、彼女が俺から離れたいと思っていない事がわかった。
(よかったのは俺の方だ)
自分の浅はかな行動を本当に気をつけなばならない。
ただ、そう思う一方で彼女の恥じらう表情が忘れられなかった。
あんな顔、他の誰にも向けてほしくない。
ふと、悲鳴を上げて逃げたのは一体誰から逃げたのだろうか?
そう思った。
しかし、訊ねてみて、自分から逃げた事が分かれば落ち込む。
聞くには勇気が要った。
「ユウリィ……二回目の悲鳴……だけど」
我ながら、少し情けない声にがっかりする。
だったら聞かなきゃいいのに。
だけど、確認したかった。
「ご、ごめんねフィー……」
謝られて、それは自分を拒否した謝罪かと思った。
「……あの時、すぐそばに……」
続きを聞いて、違うと思い至った。
消え入るような声は、俺の事など言っていない。
彼女は「ああ!」と言いながら、頭を抱えた。
「思いっきり突き飛ばす事はなかったよね……ほんと、ごめん」
安心した。……と、いうより、違う意味で落胆した。
抱きしめて、挑発するような事を言ったのに、彼女の話にはヤツしか出てきていない。
目の前にいる危険かもしれない男より、全長数センチのヤツの方が彼女の気を引くなんて。
そう思うと、彼女の心を鷲掴みにしているヤツに殺意を覚えた。
世間的にも害虫だが、俺にとっても最大の邪魔ものだ。
「とりあえず、今日はこれまでにしようか」
折角の外回りを打ち切るには少々抵抗があったが。
俺は取り急ぎやらねばならない事に集中する。
彼女が反対する訳もなく、二人で城へと引き返した。
――後日、城下の一斉清掃が行われる。
名目上、衛生管理を徹底し病が流行らないようにする為。
その本当の理由は、その指示を出した王子以外誰も知る由もなかった。
思いつきで投稿してしまいました……
お読みくださいましてありがとうございました!!