138 ―Adler―
※一応、死に関する描写がありますので苦手な方は自己判断で回避してください
静かな部屋だった。
本棚には紙媒体の資料をまとめたファイルが並び、壁には趣味と実益を兼ねた武器が何種類かかけられている。モノトーンと深い青色で統一された家具はよく使いこまれ、この空間しっかりと馴染んでいた。真っ白よりもやや暖色寄りの照明は、もう随分と持ち主に触られていないデスク上、これだけ異質なライトグリーンの薬箱を照らし出す。
すぅすぅと、ひどくテンポの遅いかすかな寝息。
「 ―― マルク」
柔らかな声は、しんとした空気を壊すことなく響いたが、青年の穏やかなテノールに返事はない。それでも声の主はほっとしたように微笑んだ。
「今日も調子は崩れていないみたいだね」
ゆっくりと歩み寄る先にはふかふかのベッドがひとつ。ミルク色の毛布と藍色の上掛けに包まれ、安らかな寝顔をさらしているのは、シャープな顔立ちにしわを刻んだ老齢の男だった。硬い黒髪は半ば以上色を失い、整えられることもなく枕の上で潰されている。わずかにのぞく首元は筋が浮いており、部屋の主、マルクの体の衰えを見る者に知らしめる。
今唯一の同室者はしばらくマルクの顔を眺めると、デスクから椅子を引きだして横に座った。明るい茶色の前髪の下、見つめる眼差しはひたすら優しい。
「君が眠ったきりになってもう二年か。早いものだね、人間の時間は」
開いた両足に肘をつき、組んだ手にのせた顔はまだ若く見える。二十代前半、落ち着き払った物腰を鑑みても三十代に届くかどうか、といった印象。
「この間、お兄さんとこのフリードくんに会ってきたよ。工房のほうは順調みたいだ。また今度、基本型の調整の手伝いをする約束をしてきた。彼もいい大人になった」
ふ、と目を細める様子は、まるで幼い親族を思う年長者のように老成した雰囲気を漂わせる。事実、この青年はフリード技師を赤子のころから知るうちのひとりだった。
「ディックはね、まだ十歳になったばかりなのに、もう騎士になるんだ、なんて棒振り回してはお母さんに叱られてるよ。がむしゃらでひたむきなところは、さすが君の孫だね」
くつくつ、と喉の奥で笑うと、灰色の双眸がクローゼットへと流れる。デスク同様しばらく開かれていないその中には、黒地に青と銀のラインをからませた都市警護特殊部第一隊の制服、いわゆる騎士服が収まっている。
「お父さんのほうは乗り気で相手したりしてるけどね。金銀紅、あとは碧の勲章でコンプリートだからとって来い、とか。顔に似合わないこと言ってたよ。まったくこの家の人たちは」
学生時代からの夢を叶え、第一隊の隊長まで上り詰めたマルク。堅苦しいのは嫌いだ、と賞状やら何やら一切合財隊を執務室に放置した父に比べ、先代隊長にして現相談役の息子はコレクター気質が入っているらしい。地道な努力の末与えられた様々な証が、この家にはあふれている。
鮮やかな生に彩られた、温かな家。
「いつまで一緒にいられるのかな」
再びマルクのもとへ戻った眼差しは揺れ、ありもしない涙を錯覚させた。
* * *
「アドラー副隊長、七班から九班の召集完了、五班の配置換え通達完了を確認しました」
「了解。これより作戦を開始する」
『は!』
号令と共に進む先は都市外第二区。鉱山の開発で巣を追われた大型の獣が潜んでいるという森だ。青年 ―― アドラーは騎士服の背にカスタム銃を装備し、今回の討伐作戦の監督者として隊に同行している。若手の戦闘訓練としての意味合いが濃いため、隊長のほうが都市の詰所に残ったのだ。
目標としては、初見の相手の行動予測と対応、一班以上の人員での連携を経験し、学生時代の試験とは求められるレベルが異なることを体感してもらうこと。その達成度を確認するため、現役でもっとも在隊期間が長いアドラーに白羽の矢が立った。
年により新入隊員の力量にばらつきはあるが、今年はそれなりの当たり年だったようだ。極端に冷静さを欠き暴走する者はなく、慎重になりすぎて出足が遅れることはあっても、挽回不可能なほどではない。五班の指導に当たったベテランの隊員もだいたい同じ評価を下していたため、都市への期間を果たせば作戦終了だ。
そう気を抜いていた時だった。
「マルクが、逝った……?」
「と、伝えるよう頼まれました」
「そうか。ありがとう」
悪い知らせを運んできた伝達官に申し訳なさそうに言われ、アドラーは首を振った。気遣ってくれるのはありがたいが、謝られるいわれはない。青い顔で指示を待つ伝達感を労って解放すると、やはり気遣わしげなベテラン隊員に笑顔を作ってみせる。
「悪いけど、先に戻っていいかな」
「構いませんよ。早く行ってください」
あなたは彼の家族なのだから。
「 ―― ありがとう」
情けないことに声が震えた。自分の情緒も随分とこなされたものだ、と苦笑するようにして表情をごまかす。ぐらぐらと不安定な感情と、冷静に事実を処理する回路の乖離に、うまく自分を統制できない。
無言で肩を叩いてくれた隊員に頭を下げ、この時間帯最も早くマルクの家に向かえるルートをシュミレート。脚のリミッターを一段階解除して走り出す。
主人であり戦友であり、親友であり家族であった人のもとへ。
* * *
覚悟はとうにしていたはずだった。
人の寿命は大体七十年。どれほど長く生きても、機械であるディクリートには及ばない。
数十年前発見された零号をモデルにつくられた試作機であるアドラーは、およそ百二十年という耐久年数を試算された存在だ。初期にはボディの総取り替えを行うこともあったが、外見年齢はもうずっと二十代のまま。『心』を宿した人間そっくりの人形を見る者たちは、その不変性を恐れもし、人とは違う証だと安堵してもいた。ただありのままの『アドラー』を受け止めてくれる視線の主は、ごく稀なもので。
その最初のひとりが、マルクだった。
「アドラー! よかった、すぐ帰ってきてくれて」
「ちょうど作戦が終わったところだったんだ。マルクは?」
「二階。親父の部屋。お別れ、してきてやって」
真っ赤な目に少しかすれた声。これからこの家の主となるマルクの息子は、母親似の柔和な顔に悲しみの影を刻みながらも、諸々の手続きや連絡に忙しいようだ。手伝うべきか迷ったアドラーに、いいから、と軽く手を振ってみせる。
「ごめん。すんだら仕事するから」
「頼む」
マントだけ脱ぐとすぐに上階へ向かう。閉ざされた部屋のドアをじっと見つめてからノブを握る。
「入るよ」
囁いて踏み込んだ室内に、ほかの親族の姿はなかった。アドラーが別れを告げる時間を作ってくれたのだろう。
静かに歩み寄ったベッドの上に、マルクはいた。昨日と同じように瞳を閉ざし、けれど寝息を立てることはなく。
「 ―― マルク」
柔らかな声は、もうどうしようもないほどに揺れていた。色を失った顔を見つめ、涙が流れない体に初めて感謝する。二度と動くことはないとわかっていても、大切な人の顔を鮮明に目に焼きつけたかった。
「間に合わなくてごめん。お疲れ様……本当に、ずっと、」
よく頑張ってきた、と。まだ意識をもって闘病生活を送っていた頃、騎士として走り続けた頃を、そうして出会いの日、学生時代の試験のことを思い出す。データとしてチップに落とした記録とは違う、アドラー自身のメモリーに収められた五十二年にわたる日々。
「別れは誰にだって訪れるって、君が言ったんだっけ。それは人間も何も変わりないって。それなら僕は、これだけはっきり覚えてられるディクリートとして生まれてよかったと思うことにするよ。このまままだ七十年も生きていかなきゃならないとしても」
マルク。もう一度名を呼び、ベッドの上に出ている右手にアドラーの右手を重ねる。ひやりとした独特の感触は、これまで看取ってきた幾人もの戦友と同じ温度だった。
「今までありがとう。マルクがいてくれたから、僕は僕になれた。君がマスターになってくれたこと、それ以上に、家族として受け入れてくれたことに心からの感謝を。さようなら」
最後の一言をキーワードに、アドラーの内部回路、外部命令系に変化が生じる。マスター契約の解除と優先順位の変更がなされ、さらにもうひとつ、本人ではいじることのできない領域からひとつの文書ファイルが前面に浮かぶ。
事前に知らされていた手順にはない現象に戸惑いつつ、作成者の欄にマルクの名を認めて脳裏に展開。
『お前は最高の相棒だ。ありがとう、アドラー。うちの連中をよろしく』
遺書というにはあまりに素っ気ない短い、そのメッセージに。
「ははっ。まったく最後まで……」
泣くことのできない、けれど誰より人らしいディクリート、アドラーは、静かにまぶたを閉ざした。
-Adler-
機能停止:198(自然消耗による)
機体:マルク兄家の技師により回収
初代マスター:マルク(享年68)学院卒業後、アドラーと共に騎士隊に入隊。
37~45で隊長を務め、以後名誉指導職に在任。
二代目マスター:ディックの息子(アドラー停止時存命)
技師としてアドラーの調整を担った。