静物自画像
3
窓際で一台の扇風機が佇んでいる。植物のように動かず、萎れることもなく、造花のように所在なく咲いている。ガラスの向こう側から照り付ける七月の陽射しを受け、まばゆく浮かぶ埃がプラスチック製の脚に薄くまとわりつく。小さな身体を覆う梅雨明けの乳液に似た湿気がよけいに埃が引き寄せる。その一部始終を部屋の隅に置かれた姿見が映し出す。
陽射しは潤んだ皮膜をうなじの裏側から容赦なく焦がしていく。埃ごと焼かれるような鈍い痛みがその皮膚を這う。足下の柔らかい陰では横たわった人形が安らかに埃をかぶっている。陰はやがて扇風機の脚を、膝を、腰を、胸を、首筋を、波のように飲み込んでくれるだろう。扇風機はそれを待つ。脚の間から伸びた黒いコードがコンセントに接続されていないから独りでには動けず、首を振ることも風を送ることすらもできない。
青白い羽根がその顔を覆うアクリル樹脂の網目ごしに見えるのは生活用品の散らかった安アパートの一室だけであった。足下にはスナック菓子の袋とコンビニで配られたプラスチックのスプーン。萎びた布団の向こうのテーブルには昨晩に男が食べたカップラーメンが箸を入れられたまま放置されている。傍らに投げ捨てられた女の子の姿の人形は今も日陰で昼寝のように横たわっており、テーブルの向こう岸には電灯の消された廊下から懐かしい暗がりが湧きだしているようだったが、その闇も七月の日光に薄められている。赤茶色のフローリングが夏のまどろみに溶け出すようで、レバーのようにすえた匂いが部屋を満たしていた。
やがて玄関で物音がした。暗がりのたまり場に風穴が開けられ、四十過ぎの男が汗を拭いながら入ってくる。電灯が点けられ、暗がりはたちまち霧散する。男は足音を立て、腕に溜まった肉から滴らせる汗をシャツに擦り付けるようにして部屋に入った。それから色のはげた鞄を床に投げ捨て、その足で冷蔵庫をまさぐり、中から缶ビールを取り出す。喉を鳴らして二口分を流し込んだ後、男はビールを床に置いて扇風機を自分の寝床に引き寄せ、コンセントにプラグを接続した。
男が首の裏側を撫で、なにかを言う。扇風機は動かない。口元をだらしなく緩めた彼の顔が、網目の隙間の羽根をのぞき込むように近づけられる。同時に足下で太い指が動き、スイッチが入れられる。扇風機はおずおずと動き出した。風を当てられた男は首筋に手をやり、風向きが自分の方へ当たるようにした。扇風機は男の意に従って首を動かし、肌の汗を風で舐めとるようにして冷ましていく。かぶりを振る姿はどこか男を冷たく拒絶するようにも感じられるが、彼はそれを気にも留めない。
男の熱を冷ます。それが扇風機に与えられた仕事である。部屋のコンセントに繋げられた黒いコードはその身体を固定する鎖でもあるが、唯一の動力源でもあった。日陰の人形は一連の働きを色のない瞳で眺めている。どこか軽蔑するような眼差しでもあり、扇風機は目を背けるように男の方へと首を振った。姿見は男たちに絶えず午後三時過ぎの日光を照射する。
ぶうん、という息づかいに似た扇風機の風に満足した男は萎びた布団に寝転がった。夜勤に向けた仮眠である。数時間して陽の沈む頃、男は出て行くことになる。スイッチの切られた扇風機は身動きもできずに男の寝姿を眺めている他になかった。持ち上げられる時に触られた部分は男の指の形に薄い埃が剥がれ、スイッチには男の汗や脂が微かに残っている。男が立て始める規則的な寝息は扇風機の羽音にも似ている。黒いコードが繋げられたままだったため、スイッチさえ入れれば同じような音を漏らすのだろう。
姿見の奥に外の景色が映り込む。市内放送が迷子のお知らせを流しているが、音声ははっきりしない。やがて子供たちの騒ぐ声に放送はかき消される。四時を過ぎて、小学生たちが下校を始めたせいだ。数人の子どもたちが姿見に小さく映り込む。子供たちは同じく姿見の視界に入れられた人形とは対照的に、からからと気の向くままにはしゃいで見える。だが扇風機はベッドの近くに引き寄せられているため、外の景色を見ることは叶わない。その白いフォルムに姿見が日光を打ち当てるものの、陽の方も次第に沈み始めていた。背を焼くような痛みも冷め、柔らかな暗がりが少しずつ広がっていく。
六時過ぎに男が目覚めた。立ち上がった拍子に扇風機と衝突し、プラグが外れる。彼は邪魔そうに足で扇風機を押しやった。プラスチックの肌がもうずいぶん色濃くなった陰に包まれる。彼は台所の水で顔を洗い、残ったビールを飲み干してから適当な服を身につける。十分後、姿見には目もくれずに男は鞄とともに部屋を立ち去った。廊下の奥に微かな光源が現れ、男を飲み込んですぐ消えた。
電灯の消えた部屋では姿見は無力となる。せいぜい埃のように点々ときらめく街灯の光の粒を静かに写し取る程度だった。闇の中で全ては一体化する。人形もビールの缶も扇風機も布団も、全てが統合される。だが、姿見だけは依然として微かな光を集め続けている。部屋に残されたものたちは共犯関係を結び、そのわずかな光から目をそらした。
2
外では雨が降っていた。わたしが窓際に佇んでいる。一本の花のように、身動き一つせずに。陽の光をガラス越しにだけ浴びる生活が続いたせいでプラスチックのように白くなった脚に埃と熱の混じった湿気がまとわりつく。わたしはそれをぬぐい取ろうともせず、毛布のように身体を包む空気に身を任せる。もっとも、身体を拭こうにもプラグがつながっていない以上は動くに動けない。
テーブルを挟んで対角線上に置かれた姿見の中には散らかった部屋が一通り映し出されている。足下にはビールの空き缶が転がり、テーブルの上では一昨日の夕方に男が食べたコンビニ弁当の容器が放置されている。赤茶色のフローリングの床には脱ぎ捨てられた下着と二ヶ月前のコンドームの箱が食べかすのように散らばるが、男はそれを片づけようとしない。わたしは姿見から目をそらしたかったけれど、部屋の方に向けられて置かれたからには部屋を眺め続けるほかになかった。
部屋の中でわたしは一台の扇風機だった。プラグが繋がれ、電源が入れられると身体を動かして男の熱を冷ます。そのために置かれた機械だった。用が済むと男はプラグを抜き、わたしが部屋の隅に放置される。消費電力を言い訳に毎日プラグを抜くのは、勝手に逃げ出さないようにと閉じこめているようでもあった。
樹脂でできたような網目の隙間から姿見を覗き見る。身長百四十センチメートル弱のわたしの身体は青白く、涼しげな印象を与える色だった。つるつるした脚に光がほのかに反射する。細い首筋からは内部のコードが微かに見えている。その中で赤いスイッチだけがやけに目立って見えた。
朝から降り続いていた雨がふいに止み、日光が部屋に差し込む。陽の光は部屋に散らばる全てを平等に照らし、柔らかい湿気と埃を静かに焚き付け、冷えた背中を暖めてしまう。姿見も外から差し込む光を目をそらせないわたしに当てる。この部屋は南向きであるため、すぐに部屋全体が暖まってしまう。窓の向こうで布団のような雲が剥がれた頃、男が帰宅した。玄関から差し込んだ光はすでに無視できないほど強いものになっていた。
男は汗にまみれた服を脱ぎ捨て、缶ビールを一つ冷蔵庫から取り出し、わたしを持ち上げてベッドの方に寄せた。プラグがコンセントに挿入され、スイッチが入る。わたしが少しずつ動き始める。男は汗と脂が塗りたくられたような肌を露わにし、それを乾かすように示した。うなじのスイッチを入れられ、わたしが首を振りながら男の熱を冷ましていく。ぶうん、という羽音がわたしから漏れた。男はスイッチを「強」に変え、羽音をさらに強めた。これがわたしの仕事であった。
――おまえは素直ないい子だ。
男は風を送るわたしに向けて、そうつぶやいた。
しばらくして男の身体が冷めきると、彼は湿気にまみれた布団に身を投じた。スイッチや首筋、黒いコードやプラグ、羽根に男の汗が絡みついたままだったが、当然ながらわたしは扇風機であるため独りでに動くことはできない。そのため不快な熱が乾かし、優しい湿気と埃とが身体を包むのをひたすら待つ。姿見の視界に入った人形のビー玉の目が睨むように強く輝いていた。寝ぼけたような部屋の中で、その二つの目だけが突き刺すような視線を送っていた。
男は五回寝転がり、自分の身体から出た脂や汗やいろいろを擦り付けるようにして、夕方頃に目覚めた。また彼は町に繰り出していく。部屋の電灯をつけ、服を身につけ、コンセントからプラグを外した。わたしが部屋の隅に運ばれ、どこにも繋がれずどこにも寄せる場のない元の状態に戻された。電源のない機械はただの物体であり、部屋の様々なものと同化する。彼は部屋の隅に置かれたわたしに満足し、鞄を持って立ち上がった。部屋の電灯が消され、わたしたちはタオルケットほどの厚さの闇に包まれた。だが、まだ陽は落ちきらない。
夕陽がしつこくわたしの身体を照りつけているのが分かる。人形の瞳も赤い光を目に湛えて、鏡ごしにわたしの身体を刺す。どこか遠くで子どもたちの騒ぐ声が聞こえた。わたしもつられて声を出そうとしたけれど、喉の奥まで出かかった言葉はすぐに闇へと沈んでいった。
わたしは扇風機である。冬がくる頃には姿見も光を映さず、人形も捨てられるだろう。そのときこそ、本当に扇風機になれるはずだ。
1
一日中じっとしている。動いてはいけないと言われているからだ。窓から差し込む陽の光が背中に当たって、それでどうにか生きている感じが残っているけれど、あの男は窓の方に顔を出してはいけないと言うから、それ以上のことはできない。
あの男をママはお父さんと呼べと言ったけれど、ママとここに来た時にはもうわたしのパパはいなかった。いつしかママもこの部屋を出ていったので、ここにはわたしとあの男だけが残された。わたしはママの代わりになった。わたしの仕事は……扇風機になることだ。
部屋の向こう側に映り込むわたしの姿を見て、しおれそうな一輪の花が頭に浮かんだ。いつか絵本で見たような、その世界の登場人物でも何でもない、ただ描かれただけの花。わたしはモノになりたかったけれど、残念ながら生きてしまっているので、まだ植物のような状態だった。
同じような一日を同じ状態で繰り返し続けて、いつの間にか太陽の光が嫌いになっていった。わたしが人間だったことを思い出してしまうからだ。せめて窓を見ないようにするけれど、それでも鏡が陽の光を映し込んでしまう。人間の手足も身体も膨らむ胸も伸びる髪もいらなかった。けれども、姿見は人間の女の子をしつこく映し続けた。
あの男が帰ってくるのはいつも昼過ぎだった。いつもと同じ日々、いつもと同じ行為。あの男が外で仕事をしているのと同じように、わたしもこの部屋での仕事をやらなければならなかった。
玄関から強い光が差し込み、闇に慣れすぎたわたしの目を少し痛める。思わずうつむくと、足下に転がっているのは小さな人形だった。ママが一回目の離婚をする前、パパが買ってくれた人形だ。パパはその人形がわたしに似ていると言ってくれた。けれどその人形はどう見ても小学校低学年の姿で、今の成長してしまったわたしとは似ても似つかないだろう。
服を脱ぎ捨てた男は缶ビールを飲み干すと、わたしをベッドに引き寄せた。仕事が始まる。わたしはどうにかして、自分が押入に仕舞われた扇風機なのだと思いこむ。機械になろうとする。人間であることからどうにか逃げようとする。
「やっと慣れてきたな」
男が言った。声すらも出したくなくて、黙って続ける。するといきなり頬をはたかれた。わたしは小さい頃、テレビの映りが悪いときにママが叩いていたのを思い浮かべた。人は機械の調子が悪いと叩いて直そうとする生き物だ。法的な血縁関係があるうちは、俺が父親だ。男はそうも言った。
「学校に行きたいとか思うなよ。食わせてやってるだけでありがたいと思え」
しばらくして男が満足すると、わたしから身体を剥がして横になった。わたしは男の汗にまみれた肌を部屋の風で乾かそうと、気づかれぬように窓際に身を寄せた。
「動くなよ」
そう言い残して、男はいつものように服を着替え、出ていった。いつの間に日が暮れていたのかうまく思い出せない。その方が都合がよかった。機械は基本的に、記憶も心も持たないからだ。
男が出ていった後に夕方の冷たくて優しい闇に身体ごと包まれると、いつかパパと一緒にお風呂に入った日のことが浮かんできた。体中をごしごしと洗ってシャワーを当てられると、どこか生まれ変わった気がしたのだ。今でもお風呂に入れば、パパはわたしの身体についた汗や脂を洗い流してくれるだろうか。……わたしは、意味のない想像のスイッチを切った。
足下に転がる人形を、わざと蹴飛ばした。男はそれに見向きもしない。手で触れるのは怖かった。あの瞳が、考えることを避け続けるわたしを責めているように見えたからだ。人形は影の濃い方でぬくぬくと寝転がりながら、わたしをじっと睨み付けていた。もう少し前のわたしが男にそうしたように、反抗的と言われそうな目で。
4
窓際に置かれた扇風機は音を立てず、造花のように咲いていた。樹脂の網目の隙間から、散らかった部屋を眺めていた。食べかすや残りかすのようなものばかりが床に散らばった部屋で、仕事を与えられた存在は少ない。テーブル、ベッド、冷蔵庫……どれもが姿見の前で少なからず誇らしげに映っていた。
やがて男が帰宅する。ビニール袋から買ってきた缶ビールの数本を冷蔵庫に詰め、元から入っていた缶を取り出した。プラグが挿入され、羽根が回り始める。男がスイッチを入れると首も動き始め、部屋中に扇風機の立てる音が響いた。
男が満足すると、いつものように夜勤までの仮眠をとろうとした――だが、ふと立ち上がる。立ち上がった拍子にプラグが抜け落ち、黒いコードが外れ落ちた。彼は扇風機の横を邪魔そうにすり抜け、もう何ヶ月も床に置き去りにされた人形を持ち上げた。
ふん、と鼻を鳴らすと彼は窓を開け、人形を外に投げ捨てた。解放された気がした。男は窓を閉め、何事もなかったようにベッドに戻った。
今、ベッドの側で四十過ぎの男が眠っている。電源コードは廊下の暗がりの方に向けられ、どこにも繋がれていない。姿見の中には男と、缶ビールと、コンビニ弁当の食べかすと、一台の扇風機だけが映り込んでいた。もうじき陽が沈む。そうすれば光は失われ、やがて明るい物は何一つ映せなくなる。失業した姿見が男によって捨てられるのは、それから一週間後のことであった。
了