第三章 「失うことを知らない世代」
小学校二年生のころに街へ越してきて、まず声をかけてくれたのが梓だった。
「東京から引っ越してきたんでしょう?」
僕がそのときなんと答えたのかは例によって覚えていない。今でさえ、僕が覚えているのはある瞬間に──それは秋ごろだったと思うが──焼きついた写真のような彼女の笑顔だった。幸せに満ち、疑いようのない薔薇色の未来が広がっていることを確信させる笑顔。髪は肩越しで切り揃えられ、背を向けると太陽が彼女に祝福の光を与える。僕はそんなに澄んだ瞳を、美しい髪を見たことがなかった。体中のどこを見渡しても一点の曇りもない(そしてそれが表層上だけでなかったことをのちのち僕は知ることになるわけだが)。
梓はとかく面倒見のいい子供だった。ずいぶん歳の離れた妹がいたから、とか、ママがそういう人だから、という説明をいつだか彼女の口から聞いたことがある。転向してきて初日、悪夢のうちを転げ落ちるような環境の変化があり、僕は見事なまでに浮き足立っていた。その証拠として誰もが僕を垢抜けた気取り屋で無口な人間だと決めつけた。その帰り道で彼女が唐突に僕に声をかけた。気の毒な素振りはなく、どちらかと言うと好奇心からだったろう、肩に添えられた小さな手の感触を未だに鮮烈に覚えている。──不思議なことだけれど、記憶というのはひとつの物語のように連続していない。僕が覚えているのはやはりぞっとしただとか、どきりとしただとかのそういう体験ばかりだ。
ともかくもそんな風にして梓は友達のいない僕を誘ったのだが、その日の夕方には彼女の隣に野方義弘という同学年の男子生徒がいた。彼は梓の家の近所に住み、小さいころから暇さえあればどちらかがどちらかの家に足を運んでいた。少年時代、誰もが往々にしてそうであるように、我々は半日と経たずしてある種の絆を結んだ。それはごく簡単なことではなかったけれど、失うことを知らない世代には新たに手にしたもの全てが光り輝いて見えていた。我々はその日だけで川原で水切りをし、秘密基地を作り(ただしこの場所へは以降二度と足を運ばなかった)、二人は普段禁じられているというテレビ・ゲームをやりたいとせがんで僕の家にやって来た。しかしその時点ですら僕と義弘にある種の対抗意識がなかったかと言えば嘘になってしまうだろうと思う。何もかもが始めから決まっていたことのように、僕らは高畑梓を中心に回っていたのだ。
義弘の身長が伸び始めたのは男子のそれよりずっと早い時期だった。小学校六年生のときに百六十五センチを超え、一時期スポーツ全般は彼のためにあるようなものだった。しかもそれだけじゃない、彼は学問もできた。それも尋常にできると呼べる範囲でなく、とてつもなくできた。その証拠として、彼はたびたび学校生徒を代表して当時の知事やらなんやらとも顔を合わせていた(知っているかぎり二度だが、一度目はアクアラインの完成時で、もうひとつは忘れてしまった)。
僕らは分別なく争い続けた。勉強、スポーツ、バレンタインにもらえたチョコの数、その他ろくでもないものから意味のあるものまで。もちろん意思表明のようなものは一切なかったが、一連の物事について回想すると、息の詰まるような緊張が今でも胸をよぎる。子供とは時によって大人よりずっと小ざかしく、面倒にできているものだ。でも考えるにいったいこの僕がどうしてそんな人間に勝てただろう? 勝負は当然のごとく大抵は僕が負けていた。野方義弘は、特に子供のころだが、まだ道というもののはっきり示されていない時代、ただその存在だけで他人を自己嫌悪に追いやるような人間だった。彼はパーフェクトだった。あまりにも出来すぎたくらいに。
けれどこの陳腐とさえ言える化身の存在は、彼自身が劣等感をその身に抱くことでぎりぎりこの世のものとして具現されていた。何かにつけ必死になっている姿を目にしているせいだろう、義弘の渇いた印象が強く残っている。それが梓の気を惹きたいがためのことだと気づいたのは程なくしてすぐだ。彼の持つものが馬鹿馬鹿しいくらいに恵まれた才覚だったがため、梓はいつも僕に声をかけた。倫理と裏切りの煩悶に揺らぎながらも、僕自身もそれを拒もうとはしなかった。それに彼女もひどく頭が良かった。そのころの僕は大概なにかを与えられる側の人間だった。つまり、いくら仲が良かったと言っても、傍目からすればまるきりお荷物みたいなものだったのである。成績は必死で勉強して彼らの一段下か二段下に追いつくのがやっとだったし、スポーツはもちろんのことマラソンも駄目、常に僕は彼らを見上げ、なににしたって半歩遅れていた。人生のうち苛みを経験した者なら誰にでも想像がつくとおり、それは僕の少年時代に凄まじいばかりの劣等感を与えた。その苦しみは義弘の持つ劣等感が子供だましになるほどに違いない。事実、誰も僕の劣等感に気づいた者はいないはずだ。人は本物の劣等感を抱えたとき、目標を達成するまでは決してそのことを口外したりはしない。それも子供だったら尚更である。
けれどこうも思う、だからこそ僕は半歩で済んだのだ、と。例えばゲーテの言葉にこういったものがある。
「誰もが素晴らしい人間になりたいと願っている。一方、成長することは誰も望んでいない」
もしもあの時代に虚栄心に取り憑かれ、これ以上ないほど醜いとされる卑屈な人間になっていたらとよく考える。輝かしく見えるもの全てに欠点を見出し、他人の話に一切の興味を示さず、全てを自らの価値観でしか見定められない人間に。むしろそうならなかったのは奇跡に程近い。僕は身に余る素晴らしい友人を持ち、同時に彼を激しく羨んでもいた。僕を自らの小世界にのみ固執する塵芥に変えなかったのは、誰あろう彼のおかげでもあったのだ。ただしその代わりにかつてあった劣等感は姿を変え、今やその戒めは僕の血肉となり、却って他人の機嫌を損ねることに敏感な、言わば懐疑主義的な人間に変わり果ててしまった。人の成長がそのときそのとき紡ぎだされる気分の連続であるとすれば、僕はそれをひとつひとつ仔細に点検し、時々によって肯いたり首を振ったりしながら生きてきた。そうして概ね抑圧しながら人生を送る上で学んだのが、僕の考える教養そのものだった。