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第二章 「木立のねじまき鳥、電話でのやりとり」

 近所の木立からギイイイッという、まるでねじでも巻くような鳥の鳴き声が聴こえた。臀部に痛みを感じるまで床に座り、ようやく立ち上がって鞄にノートをしまおうと思ったとき、ふたたび漱石の「こころ」が目に入った。僕は鞄を半端な高さに吊り上げたままため息をつき、こいつの処遇について頭を悩ませた。やれやれどうしたって俺の意識に食い下がるつもりだな、という目で僕は本を見た。本はカヴァーが剥がれ、元の状態に比べるとひどく強張って古びたものに見えた。ということはたぶん元の状態を目にしているはずなんだろう。

 仕方なしにテレビを消し、僕はクローゼットの奥をあさった。昔に使っていた財布の中に何かヒントがあるかもしれない。図書カードやレシート、そういった何かだ。というのも、このままぐずぐずと誰か他人のものを身近に置いているのは性格上気が進まないからだ。しかし財布の中にそれらしきものの見つかる気配はなかった。なにより数年ぶりに見かけた自分の皮財布は(たしか中学時代に二つ上の従兄弟からもらったものだったと思うが)、誰か他人の遺物みたいに重々しく感じられた。

 僕はそのあとで実家に電話をかけて訊いてみた。

 「ええ、なんて? 図書カード?」てっきり仕送りを催促されるものだと思っていた母は、釣り込まれるような感じでそう訊いてきた。

 「別に図書カードじゃなくてもいいよ」とつっけんどんに答えた。母親の過剰な反応にいささか神経を逆撫でされていたのだ。「でもたぶん図書館で借りたのは間違いないと思う。最後のページに字はだいぶ薄れてるけど判が押してあるし……返したいんだけど……」

 「ふうん」謎が解け、その瞬間に興味の灯火はついと消えたらしかった。「別にいいんじゃないの。もう何年も経ってるんでしょう?」

 いったい何年が過ぎたのだろう。僕はいったいいつこの本を借りたのだろう。

 「たしか小学生のときだったと思う、たぶん。子供のころっていうのは間違いないんだけど」

 「たしかに自分で借りたのね?」

 「うん。まあ」

 「じゃ自分で返しに行きな。そういうのは自分の手で返さなきゃ駄目よ」 

 その言い方がどこか分別くさかったのと、十年来の非を今さら咎めるような押しつけがましい倫理観を含んでいたせいで、僕はとっさに受話器を離して「ああ、もう」と壁に向かってつぶやいた。おかげでまた受話器を耳にあてがったとき、勢いあまって柄の部分を前歯にコチリとぶっつけてしまった。

 「何やってるの?」

 「返さなきゃいけないのはわかってるよ」と僕はいくぶん激しながら早口で言った。「絶対に自分の手で返すし、誰にも死んでも迷惑はかけない」

 「何怒ってるの。気が短い」

 僕は電話を放り投げてしまおうか本気で迷った。

 「明日帰る」、そう言って電話を切った。


 次の日もまたおそろしく暑かった。梓から電話があったのは正午のことだ。何か忘れ物はないかと部屋をうろうろしているときに、携帯電話がワルキューレ騎行を奏で始めた。あたふたして電話を一度床に落っことし、あわてて拾い上げると、真夏の光線が窓から目の奥を刺した。

 「もしもし」

 「もしもし? なにしてた?」

 僕はそれまで向いていた方向から顔を背け、手の指で両目をもみしだいた。

 「蝉の鳴き声に耳をかたむけてた」

 「嘘つき。──ねえあのあとどうした?」

 「どうも」と僕は目に涙を浮かべながら短く首を振った。「まっすぐ家に帰ったよ。君は?」

 彼女のテンポよく弾んだ声に促され、僕もいつのまにやら早口になっていた。彼女は電話口で「へへっ」とあどけない笑みをこぼした。

 「どこに行ったの?」と僕はもういちど訊いてみた。

 「自分こそ」と彼女はもったいぶった。

 「だから家に帰ったんだって」と僕は笑った。「今日はまた別だけど」

 「何? どこか出かけるの?」

 「実家に帰る。図書館に本返さなきゃいけなくて」

 「えっ、君まだあそこに通ってたの!」

 「違うよ。さすがにそこまで馬鹿じゃない」

 「じゃあ何しに行くの?」

 「だから本を返しに。──ずっと昔に借りた本を部屋で見つけたんだよ。漱石の『こころ』」

 「へえ。『こころ』かあ」とふんわりした声で彼女は言った。「なんか懐かしい」

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