第一章 「梓の結婚における願望、ナンとカレー」
回診が終わると僕らは解放され、立花先生は「午後六時にもういちど回診をするから来たい人はおいで」と言った。もちろん行くつもりはなかった。僕と梓はそのあと学校を出て遅い昼食を取ることで合意し、「西門から出てまっすぐいったところにおいしいカレー屋さんがあるからそこにしない?」という彼女の誘いに乗って、我々は一路カレー屋へと向かうことになった。
彼女は店に入るとナンとカレーを頼み、僕は普通のカレーライスを頼んだ。
「わたし立花先生好きなんだ」
梓によるインド人が経営するこの本格的なカレー屋についての講義うんぬんがあったあとで、テーブルに頬杖をつき、彼女が好ましい人物を話題に挙げるとき往々にしてそうであるように、爛々とした目で嬉しそうに言った。
「どうして」
「穏やかだし、親切だから。医者っていつもきりきり思いつめた顔をしてるイメージだけど──ほら外科の山内先生とか──だけど立花先生はいつもニコニコしてるでしょ? 患者さんにも優しいし。だから女の子の中でも人気あるの。なんかかわいいって」
「かわいい?」と僕は眉をしかめた。かわいいという言葉は立花先生にとても不似合いであるように思えたからだ。なにより彼をそんな風に捉えてしまうのは人生の大先輩としていささか気が咎めた。
「そう」と彼女は肯き、それから顎を三日月の角度に保ったままあたかも夢心地で続けた。「わたしも結婚するなら立花先生みたいな人がいいなあ。いい歳の取り方をする人」
「そんなの今はわからないよ」と僕は笑った。
「そう? でもわたし晩婚にしようかと思って」
「本当に? 晩婚っていうといくつくらい」
「五十とか、六十とか」
僕は唖然として、少なくともそれから五秒間くらい黙ってしまった。視線の脇では腰に手をあてたインド人がじっと窯の中のナンを覗き込んでいた。
「どうして? いけない?」
「いや、いけなくはないけど……」僕は困惑していた。彼女が老いることすら僕には信じがたい事実だったからだ。「子供はどうするの、いらないの?」
梓はそれについてしばらく「うーん」と考えていた。やがてテーブルに置かれたコップの水を飲み干し、彼女はきっぱりと首を振った。
「いなくてもいい」
「……へえ。そうなんだ」
それからちょうどロシアの国土ほどはあろうかというナンがテーブルに差し出された。もしも僕に文化の違いというものを理解しようとする頭がなかったら、正直な話、僕はこの扁平な物体を靴の中底に使用しただろうと思う。なんと言っても生地が皿をはみ出しているのだから!
梓は驚いてほとんど狼狽している僕を見ながら、「びっくりしたでしょ」と嬉しそうに言った。
僕がナンを実物として見るのはそれが初めてだった。食べ方すらよくわからなかった。
「それ、全部食べきれるの?」と僕は心配になって訊いてみた。
「食べる?」と彼女はナンを一切れちぎって僕の方へ向けた。
いらない、と僕は言った。
そのあとで梓は中野方面に用事があるからと言って僕と別れ、僕自身は特に何の用事も持ち合わせていないのキャンパスに戻り、木陰のベンチに座ってぼんやりと谷崎潤一郎の「痴人の愛」を読み進めていた。しかし本の内容はほとんど頭に入ってこなかった。陽を浴びるうち段々と僕の意識は大気圏を超え、気づくと半端な高さに建てられたバベルの塔にふらふらと立って意思の通じ合わない人々を見下ろすような格好になっていた。陽が影からはみ出た左腕の表面をじりじりと焼く感触を除けば、僕はほとんど朦朧としていた。やがて本を閉じ、木の葉から漏れる煌きを見上げることに潜在的な心地よさのようなものを覚え、しばらくのあいだずっと同じように首をもたげたまま、うまく働かない頭をなんとかしようと試みてみた。けれど部屋の散々な状況にようやく思い当たると、段々家に帰ることすら億劫に感じてきた。この現代にありながら、僕の部屋には未だクーラーもなければ扇風機すらもないのだ。
それから去年の夏について思い起こしてみた。目をつむり、真っ赤に染まった瞼の裏に十二ヶ月前の出来事を、あるいは瞬間的な情景を片端から思い浮かべてみる。だが意識を留めおこうとすると、それは真夏の暑さによってぐにゃりと溶解され、フライパンの上のバターが如く、気がつくとほとんど原型を成さないまでになってしまう。かろうじて確かな思い出と呼べそうなのは、八月の終わりに長野の高原に住む叔父の家に避暑の名目で足を運んだことくらいだった。でも歯がゆいことに、結局のところ向こうで何をしたのかについてはうまく思い出せなかった。たった一年前の出来事が、もやのかかった大きな川の対岸で僕に足首だけを覗かせている。
僕はそのベンチで三十分くらい時間をつぶし、それからはっとして大学の校内に入った。馬鹿げたことに、僕は肝心なレポートの提出を今の今まですっかりと忘れていたのだ。この忌々しい古びたノートを手渡さなければ、僕はそもそも何をしにきたのかがわからなくなる。立花先生は待ってくれても、他の教授たちは僕のような比較的凡庸な生徒に寛大なる情けをかけてくれたりはしないのだ。
だが方々に足を運んだ挙句、歴史部の専任教員がすでに校内を後にしたことを知り、僕は今日何度目かの自己嫌悪に打ちのめされることになってしまった。仕方がないので誰か適当な先生にノートを手渡し、少なくとも今日中に提出しようとする意志はあったんだということを伝えてもらおうと思った。だがそれはどの先生にも断られた。
「駄目。駄目だよ」と彼らは邪険に手を払った。その答えが一様に何かの取り決めを思わせたから、僕としてもなんだか怯んだ格好になってしまった。「ちゃんと専任の先生に渡しなさい。それは君の持つべき責任なんだから」
それで校内を出て煮えたぎるキャンパスに戻ったとき、僕は自分がどこにも行けやしないんだということを思い知ることとなった。どこにも、だ。
そのまま校内かキャンパスのどこかで待っていようかという考えがちらついたが、馬鹿馬鹿しさとやりきれなさを感じ、地面にめんこほどの自身の唾の跡を残すに留まった。それにもう受け取ってくれない可能性だってあった。タイムリミットは今日の午後二時までだったのだ。太陽は家を出るときに比べて三十度くらい傾き始めている。どうしてこういつも俺は失敗ばかりなんだろう、と僕は思った。二つを同時に抱え込むことがどうしてもできないのだ。たとえ抱え込めたとしても、いくらもしないうちに一方を無意識の闇に放り込んでしまっている。
自分の失敗をうまく受け入れられないことから内心へどもどし、キャンパスのあちこちをうろうろとしていたのだが、最後は校内を出てやけっぱちに煙草を買い、少し離れたところでそれを吸った。マルボロのメンソール・ライト。わかりきっていたことだけれど、それは軽いめまいを引き起こした。脳みそに直接煙を吸い込んでいるみたいだった。僕は半分だけそれを吸って排水溝に投げ捨て、陽炎の立ち昇る中を駅に向かってまっすぐに歩いた。途中見るからに人目を引く、毛の長い子牛ほどはあろうかというサイズの犬を連れた老人を見かけた。育ちの良さそうな子供が、道端で電柱を指差しながら蝉に小便をひっかけられたとかなんとか母親にわめいていた。夏の日差しの中では、都会の喧騒がフィルター越しにくぐもって聴こえた。