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第一章 「教養についての考察、ガン患者の未来予想」

 彼女は腕時計で時間を確認すると、僕の手を取ってまたいっそうせかせかと廊下を歩き出した。病院はコツコツという数十人の靴音と誰かを呼ぶアナウンスの声で破裂しそうになっていた。そのせいか目をつぶると夕立の中を走る街宣車がふと浮かび上がってきた。

 「でも頭がいいからって優秀とは限らない」

 静かになったある瞬間、僕はぽつりとそうつぶやいた。傍を通りかかった男がなにかの勘違いを起こしたらしく、いったん足を止め、僕の顔をまじまじ見てからまた歩き出した。 

 「馬鹿ね」と彼女は僕の顔も見ずに言った。その声があまりにも確信に満ち、その問いのために用意されたようなものだったので、彼女もこのとき自身の言った言葉について考えていたんだろうと察した。

 「どうして」

 彼女はふいに立ち止まり、くるりと僕の方に体を向けて指を一本立て、僕のお腹に向かって喋った。

 「いい? そんなことは関係ないの。少なくともここで──」そこで彼女は僕の顔色をいちど確認した。そのあとでつばきを飲み込み、続ける。「学校で求められるのは人として優秀か、よりも、どこまで自分が優秀な人間かを大勢の前でアピールすることで優劣が決まるの。わかった?」

 彼女は言い切るとまた僕の腕をぐっとひっぱり、ほとんど坂道を行くような感じでせかせかと廊下を歩いた。

 「そうかもしれないけど」と僕はひとりごとのように言った。

 「いいからもう急いで」と彼女は言った。

 

 病室に入ったとき、デザインという概念を逸脱した部屋の壁掛け時計は一時十五分を差していた。立花先生という老医師は僕たちを叱らなかった。というより、生徒が遅刻したことに対してとりたてて責める意識がないように見えた。僕らがこそこそと輪に加わるとき、何人かの医学部生徒が我々に一瞥を配したが、ありがたいことに彼らの興味を獲得するに至らなかったらしく、すぐにその無機的な群れに違和感なく交わることができた。それから立花先生の回診に我々はついてまわり、逐一レポート用紙に順序を書き記した。容態を訊く、脈を計る、回復の希望的観測を伝える。梓はときどき僕のレポート用紙を覗き込み、小声で(ただしその調子は激したり呆れたりした)アドバイスを与えた。それでいつの間にか全て彼女の指示に従って用紙を埋めることになってしまった。彼女の好意について感謝しながら僕はうんざりする気持ちを抑えきれなかった。やれやれだ、とそのとき僕は思った。たかがレポートの書き記し方ひとつにだって理想的体系とやらが存在するのだ。


 病室はどこも思ったより和やかだった。それぞれ読書をしたり、トランプをしたり、お隣同士で世間話をしたり──それぞれがそれぞれの暇つぶしを用いて、病院での無意義な今日をやり切ろうとしているわけだった。部屋の窓際には花瓶が置かれ、どれも縁起をかついで根のないものばかりである。ちょうど回診の途中にひと家族が夫人の見舞いに訪れ、途端に室内ががやがやと騒がしくなった。僕は彼らを見つめながら、こうして我々に観察されるのは患者たちにとっていったいどういう気分なんだろうと思った。そして情のうつった患者にこれ以上ないほどの慈愛を注ぐ立花老医師含む看護婦を見て、僕は自分が感じたものの薄っぺらさに愕然とし、しばし両の唇を離したまま口を聞けなかった。僕にはそこまでの奉仕の精神とやら、一口に言えば他人への愛がとても足りなかった。つまるところ、僕が学んでいると自負している医学とやらはちっぽけな専門語の羅列でしかなかったわけだ。

 「見て」と梓は僕の耳元に口を寄せ、早口に囁いた。「あのところどころハゲが目立つ人」

 でも僕はまだそのとき、言わば十五歳に立ち返って人生の意味について考えていた。弓なりの道を通ってその魅力的なアクセントが僕の耳に届いたとき、ようやく彼女の挙げた人物が目に入った。その人物は病室の隅に置かれたベッドの上で静かに横たわり、立花先生が歩み寄ると片手を挙げて力なく笑った。

 「あの人ガンだ」となにか決定的な秘密を打ち明けるように梓は言った。「ほら、点滴が紫色」

 「抗ガン剤か」

 「あら、よく知ってる」と彼女は僕の顔を見る。

 「まあそれぐらいはなんとか」と僕は言った。それからまた患者の方を向いた。「でも意外と元気そうだよ」

 「告知されてないんじゃないの」と眉をしかめて梓は言った。「知らない方がいいってことも人にはやっぱりあるから」

 僕はガン患者の痩せこけた頬を見ながら、彼の五年後について漠然と考えた。梓の言うとおり、世の中には知らない方がいいこともあるのだろう。大人になるまでの過程で誰もがそれを一度は身に感じ、決して忘れまいとするはずだった。でも僕にそのとき浮かんできたのは、魂を失った彼の肉体が何人もの抜け殻と共に一列に並べられ、地獄のような業火でいちどきに身を焼かれながら、最後は長い鉄製の火箸でウェハースのくずのようになった喉仏を、縁もゆかりもない葬儀屋の手で古代の石器よろしく宙に翳されている場面だった。もちろん骨はゆくゆく海底の砂粒と化すわけだが。


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