第七章 「旅の終わりを示すもの、長いお別れ」
駅についてからも僕はなかなか車を降りなかった。ちょうど叔父の少年時代の話題が持ち出され、話に華が咲いていたからだ。彼は小学校のころと中学校のころに、二度ばかり長野へ訪れたことがあったらしい。一度目は修学旅行かなにかで、二度目は家出だった。十四歳の夏、彼は家族と友人たちの概ねに絶望し、ほとんど一文無しで家を出た。それからとにかく東京を離れたいという理由で無賃乗車を繰り返し、埼玉と群馬の県境でしばらく立ち往生した。少年の彼にとって、ヒッチハイクをするのにはあまりに勇気がいったのだ。排気ガスと車の群れを眺めること半時間あまり、もう引き返してしまおうかという段になって、幸運にも一台のトラックが積荷を降ろそうと彼のすぐ脇に停車した。運転手に声をかけたとき、少年にはもはや自分がなにをやっているのかわからなくなってさえいたが、助手席に腰を下ろすことが許されると、自分がいま過去の人生を後に残して新しく生まれ変わるのだという気になった。そのようにして国道十八号を伝い、たった半日のうちに長野に辿りついた。運転手に別れを言い、線路沿いを歩いて街のいちばん栄えた場所に出たとき、彼の心は真の満足を得た。それから約二時間ばかり意味もなく人々の顔を眺め回し、午後中ずっと足がぼろぼろになるまで街中を探索した。そこには今とまったく別の人生があるかのように少年の瞳には映じた。不安はあったが、かろうじてあてはあった。自分の外見から年齢を偽ることは難題ではないし、農場かなにかを見つければひとりくらい雇ってくれるだろうという、いかにも子供らしい世間知らずなあてである。しかしひとまず東京にいる家族の下を離れられたことで気抜けしてしまったのだろう、見知らぬ土地の散策半分、ねぐらを探そうと夜の公園に入ったところで、背後から自転車に乗った警官に声をかけられた。少年はジョギングだと言い張ったが、もちろん嘘だと見破られた。
「そのころはまだわりかし真面目だったからさ、そりゃ縮み上がったね。頭の中で『逃げろ、逃げるぞ、行くぞ行くぞ』ってずっと考えてたんだけど、全然足が動かねえんだ。でも親父が迎えに来たときはちょっとほっとしたっけな。いや、そのときは怒られなかった。たぶん向こうもほっとしてたんだろう。あとからことあるたびにぐちぐち言ってきたけどな。それでまたおれは家出しちゃうんだ。その繰り返し」
彼は覚えているかぎりで七度家出をしたが、それ以降長野には近寄りもしなかった。もっと様々な土地を目にしておきたいという好奇心もあったのだろう。しかしそれでも、喫茶店を経営したいと考えたとき、彼は迷うことなく長野の地を選んだ。店を出す際には義父がいくらか足りない分を都合してくれた。義父は始めのうちこそ叔父と奥さんの結婚には反対だったのだが、なんにでもあきらめ癖のついた人なのか、一度結婚を承諾してしまうと、それ以降も実に様々な点でしぶしぶとではあるが助力してくれた。二人の良き理解者とまではいかなかったが、金力の乏しい彼らにとってはありがたい存在だった。
新築の喫茶店が完成するまでの十ヶ月間、彼はやきもきしながら日を送った。というのも二人には無人島からあてずっぽうにボートを漕ぎ出したようなぎりぎりの予算しかなかったし、かといって半年間やってみてだめならすぐにやめられるというようなものでもなかったからだ。あまりに他者の力を借りすぎていたのである。果たして店の支柱が一本増えるごとに、彼の不安も確かな骨子を得た。建築が始まってすぐは心を震わせて足しげく通ったが、その回数も徐々にではあるが減っていった。あとは看板を取り付けるだけですよ、という棟梁からの電話があったとき、彼は正直なところぎくりとした。自らを前にも後ろにも進むことのできない人のように感じて息苦しくなったほどだ。しかし長野に降り立ち、額に手でひさしを作って自分の店の看板を見上げたとき、彼はいつかのような驚きと満足を得た。それは旅の終わりを示すもののように見えた。そしてそれは決して間違いではなかった。そこが彼の終着地点だった──そのようにして叔父の家出は完結を迎えたわけである。
「もうここから動く気はないよ。死ぬまでな。あいつもそれには賛成してくれてる。これから先なにがあるかわかりゃしねえけど、なんとか踏ん張ってくつもりだ。ここで駄目だったら他のどこに行ったって駄目さ。どうせなら死ぬんならここと決めた場所で死にたいからね」
話が終わったあと、長い沈黙があった。叔父はなにも言わずに僕の肩に腕を回し、「また来年だな」とつぶやいた。それからもう一度ばかり、深い思いを込めて「また来年会おう」と肩を叩いた。
だがたとえそれが明日であろうと一年後であろうと、別れというものはいつだって胸に込み上げるなにかがあった。僕は車を降りて運転席側のドアを開けた。叔父は意味を解して車を降りた。僕としてはもう少しきちんと別れを言っておきたかったのだ。
「どうもありがとうございました。さようなら」と僕は言った。
叔父は肯いた。
「じゃあこれな」と言って、叔父は車の日よけから一枚の封筒を取り出し、僕の手に握らせた。「くれぐれも新幹線に乗ってから開けてくれよ」
「本当にご迷惑をおかけしました」と僕はお辞儀した。
「いいよ。やめてくれよ」と叔父は笑った。「こっちは面倒だなんて思ってやしないさ。むしろ圭ちゃんに感謝してるくらいなんだぜ。久しぶりに本田さんの供養もできたしな」
「また来年、お線香をあげに来ます」
叔父は肯き、微笑んだ。
「水もな」と彼は言った。それから僕の肩を唐突にぱしんと叩き、親指を立てた。「じゃあ彼女としっかりやれよ」
僕は肯いて、叔父と握手を交わした。
「さよなら。本当にありがとうございました」
車を見送ったあと、僕は新幹線の時刻を確認し、切符を買ってプラットホームのベンチに座った。夏の盛りに呼応するように、人々もまた活気づいていた。蝉たちが生を謳歌し、他に負けじと声を張り上げている。鼻先をかすめる打ち水の匂いがあたりを気持ちよく漂い、何重にもかさなる人々の話し声の上をアナウンスが響き渡っている。そのような喧騒の中で僕は目をつむり、自身が目にした長野の夏を強く記憶に焼きつけようと努めた。絶え間なく変動する価値観の中に、歴とした座標軸を捉えようとでもするかのように。