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第七章 「よく晴れた日の墓地にて、古い水、新しい水」

 我々は上ったときと同じく、足音に注意して一階まで下りた。寝室に入る間際、叔父は僕の肩に手を置いておやすみの挨拶を言った。おやすみなさい、と僕は言った。それからふたたび階段を上がって部屋に入り、腕時計を外すとすぐさまベッドに体を横たえた。月が十分に明るい夜だった。

 体は疲れていたが、なかなか眠れなかった。しばらくして、ベッドに入ってからどれくらい時間が経ったのだろうと腕時計に目をやったが、気が抜けていたせいだろう、力加減をあやまって時計を手の届かない場所に落としてしまった。このさいカーテンを閉め切ってしまおうと立ち上がり、窓辺に寄ると、もううっすらと空が白み始めているのが見て取れた。僕はベッドに腰掛け、朝もやに例の小瓶を翳してみた。手の中でくるくると弄び、なまめかしい光をじっと眺めた。水は緑色に変色していて、とても飲んだりできる代物ではない。水が悪いのはいかんな、とかつて本田さんは言った。これはいったいどこの水なのだろう──やはりノモンハンでの水なのだろうか。ソ連に行く手を阻まれたあの河の水なのだろうか。僕はカーテンを閉めると小瓶を枕元の台に置き、薄いタオルケットを抱くように寝返りを打った。

 死んでこそ、浮かぶ瀬もあれ、ノモンハン──その言葉のうちには、ただ計り知れぬほどの覚悟があったと推測する他ないのだ。


 次の日は昼前に暑さで目が覚めた。はっとして飛び起き、あわてて昨夜腕時計を落とした場所に体を屈めた。ちょうど時計を取り上げたそのとき、遠慮がちに部屋のドアがノックされた。

 「圭ちゃん、起きてる?」その声は叔父だった。

 僕はすぐに行くからと返事をして、荷物の中から手ごろな服を引っぱり出した。階下のリビングは溢れんばかりの光で満たされていた。四方からの留保なき太陽の輝きが、部屋のあらゆるものを活気づかせていた。絶え間ない鳥たちの歌、隣家からかすかに聞こえるテレビの音、静かなエンジン音やそれを取り巻く子供たちのはしゃぎ声。僕は思い切り息を吸い込んで、大きくのびをした。そのあとで階段を下り切り、ダイニングの方へ足を向けた。うまくコーヒーにありつけはしないかと考えたからだ。

 「なにか食べる?」僕の足音を聞きつけて、数枚の皿を両手に奥さんがこちらに振り向いた。「残念ながら今はトーストしかできないんだけど」

 「十分です。あとコーヒーをいただけたら」

 奥さんと昨夕持ち出された料理の話に興じているとき、新聞を片手にゆったりとした足取りで叔父がダイニングに移ってきた。小鼻をひくひくと動かし、得心の行った顔つきでトーストを目にした。昨晩の酒がたたったのか、顔色はすぐれない。煙草に火を点けると新聞を開き、椅子に座って自分の膝頭にもう片方の足を載せた。

 「ここ、見てごらん」と叔父は僕の方に身を寄せ、新聞の片隅を指差した。顔と顔が近づくと、それに比例して煙草の臭いもきついものになった。「『生活保護、打ち切り相次ぐ』、『被保護者も明日は我が身と将来に不安』、『以降も高齢者世帯を中心に増加の見込み』」

 それだけ読み上げると、叔父は元のように新聞を折りたたんでテーブルに放り、椅子の背にもたれた。

 「まったく新聞ってのは朝から景気の悪い話ばかりだね」と彼は奥さんに向かって話しかけた。「今日もいい天気だな。暑くなりそうだ」


 墓地までは十分もかからないとのことだった。僕はシャワーを浴び、髭を剃って半時間ばかりをリビングで叔父夫妻と共に過ごした。叔父がなにか果物が食べたいと言い出し、メロン丸々ひとつを三人で食べた。それで僕も昨夜の酔いをさっぱりどこかに追いやってしまうことができた。そうこうするうちに日差しもますます強くなってきたので、そろそろ行こうかと叔父が立ち上がった。彼はつばのついた茶色の帽子を手にとって、それを深くかぶった。

 「二人とも暑さには気をつけてね」と奥さんが言った。

 「おれの知り合いでこんなやつがいてさ」と叔父は思いついたように突然両手を広げて言った。「そいつは普段いつも帽子をかぶってたんだけど、三十のときに中華料理屋のコックに転職したんだ。さてなんでだと思う?」

 僕と奥さんは顔を見合わせた。

 「どうしたの、いきなり」

 「いいから答えて」

 僕と奥さんはわからないと首を振った。

 「じゃあ答え合わせ」叔父は耐えかねたように笑い声をもらし、ひどく興奮した顔つきで言った。「訊いたんだよ、そいつにさ、なんでわざわざ月給を下げてまでそんな職につくのかって。そしたらね……仕事中も帽子で禿げを隠せるからだって!」

 三人がそろってふきだし、いっときのあいだ家の中が笑い声で満たされた。それは賑やかな午後の始まりにぴったりのものだった。夏が一瞬のうちに盛りを見せ、いままさにピークに達したことを僕は感じ取った。


 林に囲まれた墓地では蝉の鳴き声がまさしく地表に降り注いでいた。外はからりとした陽気で空は低く、長く続く石畳の先は陽炎で歪んでいた。そばに中学校があり、校庭からは金属バットでボールを打つ音や語尾の伸ばされた掛け声が間断なく聴こえてきた。少しして叔父が車の方を振り返り、迷うように立ち止まってから頭を仰け反らせて舌打ちした。

 「花を買ってくるのをすっかり忘れてた」彼はばつの悪そうな顔で帽子をかぶりなおし、言いわけするようにひとりごちた。「どうにもおれはひとつ抜けてんだ。まあまたお盆に来るからな……そのときにでも……」

 本田さんの墓は端から三番目の列にあった。僕らはそばに立てかけてあったブラシで墓石を擦って洗い、落ちているごみを手で拾った。叔父が香炉に線香を焚き、僕がそのあとに続いた。細い煙がゆっくりと二本立ち昇り、難解な図形を描いて木々のひんやりとした暗がりの中に吸い込まれていった。供え物の日本酒を墓石の段に置き、ひしゃくで墓に水をかけたあと、しばらく叔父と僕はその場に手を合わせて座り込んだ。

 「本田さん」と叔父は目をつむったまま墓石に語りかけた。「圭ちゃん来たよ。おれの息子だ。こんなに大人になった」

 僕は黙っていた。それからポケットに手を入れ、中にあるものの感触を確かめた。花火をしたときだろう、腕や足のいたるところが蚊に刺されて赤く腫れていた。

 「さて、行くか」と叔父は自分の両膝を軽く叩き、立ち上がった。「まあこんなもんだろう。あんまり邪魔しちゃどやされちまうからな」

 「ちょっと待っててもらえます?」

 「なんだ、どうかしたの?」

 僕は立ち上がって、ポケットから昨日の小瓶を取り出した。

 「これです」

 叔父はうまく飲み込めない顔で小瓶と僕を代わる代わる見た。僕は小瓶のコルクを力ずくで引き抜き、中の水を一滴残らず地面に零した。叔父が驚きを含んだ短い声を上げ、あわててこちらを向いて目をしばたたかせた。僕は走って井戸の水をひしゃくですくいに行き、小瓶に注いで墓石まで駆け戻った。それから墓石の前に小瓶を置いた。

 「バチが当たったりしねえかな」と叔父は不安げに言った。

 思い切ったことをしたせいで、僕の瞳は判断力を欠いた人のようになっていた。心臓がどきどきと音を立て、顔が真っ赤に火照った。

 「水が悪いのはよくないんです」と僕はぎこちない感じで言った。

 「そうか」と叔父は笑みを浮かべ、僕の体を支えるように背中に手を置いた。「じゃあまた来年も新しい水に変えてやらなきゃな」

 僕は従順な子供のするような感じで肯いた。

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