第六章 「本田さんの遺したもの、大いなる夢の片鱗」
帰ってから半時間ばかり、三人で他愛ない世間話に興じた。ときたま叔父がぱちんとライターを鳴らして、曲芸みたいなものを披露して見せた。奥さんからすれば「見飽きた」そうだが、僕はなかなか楽しませてもらった。何度か自分でも挑戦してみたけれど、叔父みたいにうまくはいかなかった。
奥さんが寝てしまったあとも、男には男同士でしかできない話があるからと、叔父は缶ビールを両手にテラスへ僕を誘った。辺りはすっかりと寝静まり、黒い固まりとなった山や林が四方を囲っている。解凍した枝豆を皿に盛って、僕は叔父のあとに続いた。叔父は慎重に家の中を見渡してから窓を閉め、缶ビールのふたを開けた。
「さあ、二回戦と行こうか。ハハハ」
その席で僕の話題が持ち出されることはほとんどなかった。てっきり<彼女>のことを根掘り葉掘り訊かれると思っていたのだが、まったくの杞憂に終わった。叔父はいまの奥さんと出会う前の恋愛体験やら、自身の経験した様々なトラブル、果てはセックスにおける相性うんぬんまで間断なく滑るように話した。これにはさすがの僕も置いてけぼりを食わされた格好だったが、最後の最後に彼が人生観を語りだすことでうまくまとまりがついた。椅子の上でうとうとしかけていると、彼の語気が強まったのを感じてはっと身を起こした。
「自分を変えるっていうのは本当に難しいよ」と叔父は言った。それから糸で引っ張り上げられたようにしゃっくりをし、喉を鳴らした。「苦しいし、難しい。現実をすべて受け入れなきゃならねえんだから。おれなんてとくに婿養子だろう? それなりに世間の目は冷ややかだったね。若いころはどうしてこんなにしゃかりきになって働いてるのにうまく事が運ばないんだって思ったよ。周りは楽して稼いでるのにどうして俺だけが、ってね。でもそうじゃないんだ。周りは周りでつらいことばっかりだし、自分より苦しい境遇に立たされてる人間なんざごまんといる。だから自分に甘えてたんだな、正直なところ。どんなに人前では謙遜してたって、根っこじゃ自分を過信してたんだ。虚栄心っていうのかな──そういうやつだ。自分がなにか特別だと思ってたんだ」
叔父は顔を横に向け、住宅街を等間隔に配された樹木に目をやった。それから手を伸ばしてビールに口をつけた。僕は彼の頬にある髭の剃りあとをまじまじと見つめていたのだけれど、まさにそのとき、彼の唇の端がぶるぶると震えているのに気がついた。
「圭ちゃんも──」と叔父はふたたび口を開きかけたが、嗚咽のようなものを押し留めようとしたためか、そこで言葉がいったん切れてしまった。けれど彼は、最後まで泣き出しそうになっている事実をひた隠しにした。「圭ちゃんもこれからつらい経験をいっぱいすると思うよ。それはエリートでも凡人でも変わりゃしねえんだ。誰にでも苦痛は待ってるもんなのさ。結局はそれを受け入れるかどうかで人の一生は決まっちまうんだろうな。こつこつと積み上げていくか、卑屈になるか、でさ。でもつらい思いをすればするほど、人には優しくなれる……それができないやつはただの馬鹿だ」そこまで話し終えると、ようやく彼はこちらに顔を向けた。涙はすっかり引いたみたいだった。「成功なんてそんなに魅力じゃねえんだ、実際。金もだよ。周りが金だ金だってうるせえから、みんな頭がどうかしちまってんのさ。本当に価値のあるものはもっと別のもんなんだ」
叔父の言葉のうちには、かつて夢見た大いなる目標の片鱗がうかがえた。それは人が免れることのできない失敗や挫折の果てに色あせ、今では別のかたちをとって彼を煩悶させているようだった。叔父が涙ぐんだのもそのせいではないかと思う。束の間、木造りのテラスに夜の静寂が降りた。人も鳥も獣もみな寝静まっていた。湿気を含んだ風が頬の辺りを撫でるように通りすぎ、木々をかすかにざわめかせた。
「愛ですか?」としばらくして僕は言った。
「愛?」叔父は僕がなんのことを言っているのかさっぱりわからないみたいだった。それからはっとして思い当たり、夜半だということもすっかり忘れてからからと声を上げて笑った。「いやあ、ごめん。笑っちゃいけないんだ──笑っちゃいけない」
酔いのせいもあって、叔父の笑い声は頭の中をうつろに響き渡った。いっしょになって笑い飛ばしてしまえればよかったけれど、顔が真っ赤に火照ってそれどころではなかった。
「ごめんごめん」と改めて叔父は言った。それからわざわざ立ち上がって僕の肩を叩いた。「悪かったね。しかし圭ちゃんも大人になったな。成長したよ」
「別に深い意味があるとかじゃ──」
「いや、いいんだよ。それでいい」と叔父はきっぱり僕の逃げ口上をさえぎった。それから椅子にどっしりと腰を下ろした。「そうだよ、愛だよな。愛がなけりゃあ生きている意味なんかそれほどありゃしないんだ。空っ箱の人生だ。振り返ったってそこにはなんにもありゃしない」
叔父は思い入れたっぷりに首を振り、テーブルに肘をついて顔の前で手を組んだ。
「でもそれが当たり前だと思っちゃだめだ。そう思っていいのは子供までだ。大人はもっと愛について、愛がどれほど価値あるものかを常に確認して生きていかなくちゃならない。幸せとはそれを探すための才能でもあるんだからな」
僕は叔父の目を見た。彼は大きく息をついて膝に手を置き、立ち上がった。
「おいで。酔っ払って眠たくなっちまう前に例のものを出そう」
我々は簡単にテーブルの上を片付け、家の中に入った。カーテンはすべてではないにしろ閉ざされている。窓には迷路に似た樹木の影が落ち、月明かりと外灯の狭間で不分明な色合いの光をフローリングに投げかけていた。僕は叔父のあとをついて廊下を歩き、階段を上った。
「静かにな」と叔父は階段の途中で足を止め、こちらを振り返って囁いた。「起こすとうるせえからさ」
僕は黙って肯いた。
叔父は二階の角にある部屋に入り、僕を手招きで呼び寄せた。慎重にドアノブを閉め、叔父が部屋の電気を点けるまで僕は立ち尽くしていた。電気が点くと、それほど広い部屋ではないということがわかった。家具と呼べそうなものはほとんどなく、重ねられたダンボール箱や雑誌からどこか雑駁とした印象を受ける。
「今じゃ物置代わりだ」と叔父はこちらに背を向けたまま言った。「本当は子供部屋にしようと思ったんだけどな。ちょっとそこで待っててくれ」
叔父はゆっくりと辺りを見渡したあとで窓辺に歩み寄り、そこからなにかを手にして埃を払った。確かめるように月明かりに照らし、ふっと息を吹きかけた。
「これだ」と彼は僕にもよく見えるようにそれを翳した。「本当はどこかそれ相応の場所に飾っとこうと思ったんだけど、女房がいちいち縁起にうるさくてね。ここは駄目だ、あそこは駄目だってんで、結局そのままにしてあったんだ」
それは変哲のない小瓶に見えた。僕は叔父からそれを受け取ると、目の前にまで掲げてじっくりと眺めた。近くで見ると、小瓶には鼠に齧られたようなぼろぼろのコルクで栓がしてあり、中に入っているのはどうやら腐った水だということがわかった。
「これがゆいいつの遺品ですか?」と僕は訊いた。
「そう。それ以外にはなにもなかった。他のものは全部元々おれか国の持ち物だった」
「水」と僕は小瓶に向かって心もとなくつぶやいた。
叔父が手の平を差し出したので、僕は元のように小瓶を彼に渡した。
「きっとどこか特別な場所の水だろう」と彼は小瓶に向かって言った。中に生息する微生物を確かめようとでもするかのようにぐっと顔を近づけ、そしてまた元のようにそれを僕に返した。「あの人の性格を考えるとどうにもそんな気がするよ」